2016年8月31日水曜日

(3038)スーチーの軌跡 現実の先に② 大統領と会談、国政に道

 8月31日の朝日新聞より。「総選挙への政党登録はしない方がいいと思う」。スーチーは2010年3月23日、面会に来たNLD幹部のニャンウィンに告げた。NLDは6日後、同年に予定されていた総選挙に不参加を決めた。軍政は政党登録法で、刑に服す人物は政党党員になれないと定めた。同年5月まで政党登録しなかったNLDは非合法に。軍政は思惑通り圧勝してから、スーチーを解放した。テインセインは11年3月に大統領に就くと、今度はスーチーとの接触を模索した。「民政と称しても国際社会は認めない。スーチーの政治参加が必要になった」とみる。アウンチーとスーチーは7月に1年半ぶりに会談、協力を合意。同月19日、テインセイン大統領とスーチーが会談した。テインセインは、NLDが合法政党になる法改正を約束。国政参加への道が開いた。

2016年8月30日火曜日

(3037)中国、スーチー氏熱烈歓迎 トップ2が会談

 8月19日の日経より。中国の習近平国家主席は19日、スーチー国家顧問と会談した。経済協力を軸に関係を強化することを確認。政権ナンバー2の李克強とも18日に会談しており、アセアン域外初の訪問先に中国を選んだスーチー氏を異例の厚遇で迎えた。ミャンマーは2011年以降民政移管で発足したテインセイン前政権が中国依存を修正し、欧米に接近した。中国は米国に先駆けてスーチー氏を招き、南シナ海を巡る紛争などで後手に回った周辺外交で巻き返しを狙う。人民日報系の環球時報は19日、スーチー氏の訪中を「国家元首の待遇」とし、「ミッソン水力発電所」の建設再開を期待する」との社説も掲載。そのほかチャオピューでの工業団地の開発やダウェーで製油所の建設を計画中。またシャン州での3武装勢力は、突如停戦に応じると発表。

(3036)スーチーの記録 現実の先に① 「頑固な女」印象違った

 8月30日の朝日より。仏教徒らの反政府デモを軍政側が弾圧して1か月後の07年10月25日、ヤンゴンで自宅軟禁中のスーチーは4年ぶりに外出。行く先は車で3分ほどの政府のゲストハウス。デモ弾圧に対する国際社会の非難を和らげようと、軍がスーチーの対話役に任命した対話担当相、アウンチーとの会談のためだった。スーチーへの第一印象は「交渉できる相手」で、「頑固な女」との前評判は違っていた。二人は合計9回会談した。スーチーはタンシュエの「対決姿勢をやめ、制裁に反対すべき」との伝言を聞き、「姿勢を改め、制裁解除に向けて軍政と協力もする」と応じた。NLD一幹部は、「軍政と関係を築く必要があると考えるようになった」と話す。軍政との対話は10年1月に途切れた。スーチーの現実路線への転換が歴史的な道を開いていく。

2016年8月29日月曜日

(3035)スーチー氏訪中 思惑交錯

 8月19日の朝日より。主見出しの他に副見出しとして「中国離れ」懸念、「少数民族和平で協力」。スーチー国家顧問は18日、北京で中国の李克強首相と会談した。NLD主導の新政権が発足後、アセアン域外で最初の訪問国が中国となった。背景には、新政権に影響力を持ちたい中国と、少数民族問題などで中国の協力が必要なミャンマーの事情がある。会談では、ミャンマーの少数民族勢力との和平を巡る連携、中国企業が中国向けの水力発電用に投資する「ミッソンダム」の建設再開が議題となった。スーチー氏は8月31日に開く全武装勢力を集めた平和会議を開く意向だが、最大勢力のワ州連合軍が会議参加を表明、中国の意向が働いたとみられる。中國側が強く要望するミッソンダム事業の継続についてはスーチー氏のかじ取りが注目される。

(3034)スーチーの軌跡 事件の真相⑥ 仏教僧のデモ 見せた涙

 8月29日の朝日より。2010年11月まで7年余り続いた、スーチーの3回目の軟禁。NLDの古株キンキンウインも、娘と共に家政婦としてスーチー宅で軟禁された。「スーチーは朝5時に起き、お祈りや朝食の後見張りの兵士に買い物リストを渡すのが日課、あとはピアノを弾くなど政治とは無関係の日々。単調な生活に変化をもたらしたのが07年8・9月の反政府デモ。9月22日、僧たちは自宅前に押し寄せた。家政婦はスーチーと一緒に門を開け、内側から手を合わせた。この10万人規模のデモは、多くの死傷者を出して終わった。デモ僧のメンバーたちは「市民の大半は傍観するだけ」と残念がる。焦った軍政は08年に新憲法を制定、民政移管に一歩接近。だが僧たちの要求は一つも通らず、手法に限界を感じた。スーチーは再び日常を生きるだけだった。

2016年8月28日日曜日

(3033)スーチーの軌跡 事件の真相⑤ 軍政側と交渉も破談

 8月28日の朝日より。03年5月30日の襲撃事件後、消息不明になったスーチーを捜しに、国連事務総長特使ラザリがミャンマー入りした。スーチーと面会できたのは6月10日、インセイン刑務所だった。スーチーから出た最初の言葉は、「着替えたい」。そのあとで「仲間はどこ」。そして意外な言葉を。「ページをめくりたい。事件は忘れて軍政と交渉したい」。面会後ラザリは軍政№3のキンニュンを問い詰める。「刑務所収監は対外関係に大きなリスクだ」。キンニュンは「暗殺から守るには刑務所の方がいい」。その後軍政は歩み寄りの姿勢を見せる。8月に首相に就いたキンニュンはスーチーをヤンゴンの自宅に移した。刑務所での発言をなぞるようにスーチーはキンニュン側と3回交渉したがタンシュエの意向で04年春破談、その後キンニュンは失脚してしまう。

2016年8月27日土曜日

(3032)ライオン、タイで衣料用洗剤増産 能力1,5倍に

 8月17日の日経新聞電子版より。ライオンはタイで衣料用洗剤を増産する。約20億円を投じて新たな設備を導入、普及が進む粉末洗剤の生産能力を現在の1.5倍に高める。タイ国内だけでなく、生活水準が向上するカンボジアやミャンマーなどへの輸出も視野に入れる。ライオンのタイでの洗剤シェアは2位、増産で首位の英蘭ユニリーバを追う。タイ中部にあるシラチャ工場近くに用地を取得した。新たな製造ラインを建設し、来年7月の稼働を目指す。同国では衣料用洗剤は粉末洗剤が主流という。ライオンは「パオ」や「エッセンス」など高価格品から低価格品まで複数のブランドを展開しており、幅広い世帯からの購入を見込む。販売面では現地のサハ・グループと組んでおり、サハのネットワークを通じて開拓する。今後は歯磨き、歯ブラシも伸ばしていく。

(3031)スーチーの軌跡 事件の真相④ 軍「暴徒訓練」の証言

 8月27日の朝日新聞より。2003年5月の襲撃事件はどう仕組まれたのか。当時軍政№3で情報部門トップだったキンニュンが昨年出版した自伝が興味深い。最高指導者タンシュエが地方遊説で人気を増すスーチーに危機感を抱き、キンニュンら5・6人の側近に「必要な手段」を指示したと書いた。軍は沈黙しているが軍が市民を使って襲わせたとみられる。「スーチーと支持者を撲滅するか?」 「そうだ!」。軍政の下部組織が主催した地方青年の訓練キャンプだ。参加者を入れ替えながら1か月以上続いた。訓練参加者の多くが駆り出されていた。ずっと黙ってきた。知り過ぎて怖いという。別の襲撃要員集めの方法も。USDAの地方幹部として「偉い人が来る。接待役を集めろ」と上司に言われ20人を派遣した。本当は襲撃目的だったと、事件後に知った。

2016年8月26日金曜日

(3030)ミャンマーに円借款1000億円 新政権下で初

 8月26日の日経電子版より。日本政府はミャンマーに約1千億円の円借款を新規供与する方針を固めた。鉄道や水道などのインフラ整備が中心になる。3月末にスーチー国家顧問率いる新政権が発足して以降、新規の円借款は初めて。ミャンマー新政権には中国なども接近を強めており、経済援助で先行し関係強化を急ぐ。9月6日~8日にラオスで開かれるアセアン関連会議の期間中に、安倍首相が表明する方針だ。今回の円借款は、社会インフラ整備などを目指す新政権の要望を反映したもの。現地ニーズに関係がない支援事業も多いとされる中国との差別化を図り、スーチー氏の早期訪日にもつなげたい考えだ。16年度の経済成長率がアセアン最高の8.4%と予想される有望な市場だ。工業団地開発など幅広い分野に日系企業が参画している。

(3029)スーチーの軌跡 事件の真相③ 巧みな運転 危機脱出

 8月26日の朝日より。ディペイン・チー村で03年5月30日夜、棒などで武装した大勢の暴徒に囲まれ、警護担当らは困った。スーチーが「絶対に反撃してはダメ」ときつく命じたからだ。サンドバッグのように殴られるだけだった。それでもスーチーは襲撃を切り抜けた。運転手は荷台に仲間を載せると猛スピードで村を脱出。数キロ進むと、今度はトラック数台が道をふさぎ暴徒が待っていた。「今度こそ殺される」。そう思った運転手は高速で前進、衝突寸前にハンドルを右に切った。その時の運転手が、昨年の総選挙で下院議員に当選したNLDのチョーソーリンだ。暴徒を振り切ると、スーチーは「警察に事件を捜査させよう」と主張した。約20キロ進んだ街で道路封鎖中の警官を発見、だが 意に反して拘束される。スーチーは仲間と切り離され、消息が途絶えた。

2016年8月25日木曜日

(3028)スーチーの軌跡 事件の真相② 「演説して」と通せんぼ

 8月25日の朝日新聞より。ミャンマー中部のディぺイン地区のチー村、真っ暗な夜道をスーチーの車列が次の遊説先に向かっていた。すると一人の仏教僧が現れ、「ぜひここで演説してほしい」という、2003年5月30日のことだった。スーチーは2回目の自宅軟禁から解放されると、精力的に地方を遊説した。チー村の事件現場はそこから10キロ北。軍政が許可した訪問先ではなかったため、同乗のNLD幹部は僧の頼みを断る。すると僧は車列の前に走り込み通せんぼした。「どうして去るんだ、こっちは昼から飯も食べず、みんなで待っていたのだ」。NLD側はいぶかったが、スーチーは「やりましょう」と言って僧に手を合わせた。村出身の僧は取材に事件への関与を否定した。襲撃者はこの機を狙っていたようだ。車列が停まるや百人以上の暴徒が現れた。

2016年8月24日水曜日

(3027)スーチーの軌跡 事件の真相① 村の襲撃13年前の悲劇

 8月24日の朝日より。今年5月30日朝、約5百世帯が暮らすミャンマー中部ディペイン地区チー村で、村民約3百人が僧院で祈りをささげた。「13年前に起きた悲劇を忘れません」と一人が語った。この事件が起きたのは2003年5月30日、2回目の自宅軟禁を解かれたスーチーが暴徒の集団に襲われたのだ。真相は今も不明だが、3回目の軟禁は10年11月まで続いた。「スーチーは法の支配を強気に訴えたが、軟禁は長引いた。彼女が妥協もする現実的な政治家になっていくうえでも節目の事件だった」。国連のミャンマー特使だったラザリ・イスマイルは振り返る。村民たちが事件の追悼行事を始めたのは13年から。軍への配慮からかスーチーが沈黙してきたあの事件、ようやく語り始めた目撃者によると、「ぜひ演説を」という仏教僧の懇願から始まった。

2016年8月23日火曜日

(3026)スーチーの軌跡 逃した機会⑥ 遊説続行宣言 再び軟禁

 8月23日の朝日新聞より。2000年8月、スーチーはNLDメンバーら十数人とヤンゴンからフェリーでヤンゴン川を渡り、対岸のダラ地区に着いた。近郊の町でNLD青年部を立ち上げるためだ。暫らく走ると警察官に行く手を遮られた。警察は「この先に行く許可は出さない。戻りなさい」と命じたがスーチーは応じなかった。ここで車内籠城が始まった。軍事政権は国会の開会を要求するスーチーの行動を制限した。スーチーはその後も、地方遊説を阻まれ、4度の「車内籠城」で抗議。籠城9日目の深夜、大勢の警官が近寄ってきた。力ずくで車に乗せられ、スーチー宅に送り返された。スーチーは9月15日に記者会見を開き「再び地方に出る」と宣言、ヤンゴン中央駅で乗車を拒否され翌日未明に警官らによって自宅に戻された。2回目の軟禁は02年5月まで続く。

2016年8月22日月曜日

(3025)スーチーの軌跡 逃した機会⑤ 夫の最後会えぬまま

 8月22日の朝日新聞より。スーチー宅の1階の空き部屋にベッドやカーテンが運ばれた。英国人の夫マイケル・アリスが前立腺がんで重篤な状態になったとの一報が。スーチー宅の調理係だったミンソーは1999年始め頃と記憶している。マイケルは「最後の日々」を妻と過ごすため、ミャンマー政府に入国ビザを申請していた。スーチーは自宅の1階に部屋を用意したのだ。だが軍政は3月にスーチーが英国に出向くべきだと声明を出した。スーチーは最初は行きたそうだったが、再入国できるか不安があったので、結局行かないと決めた。マイケルは53歳の誕生日、3月27日に英国で死去した。スーチーは4月2日に自宅で初七日法要を行った。「自分の気持ちを抑えられる強い人」とはミンソーのスーチー評だ。「誰にも恨みはない」。スーチーは いまもそう語る。

2016年8月21日日曜日

(3024)スーチーの軌跡 逃した機会④議員拘束、NLD封じ

 8月21日の朝日より。ヤンゴンでの大学生らのデモが鎮圧された1996年12月頃、NLDのタンウインのもとに「副党首宅に来るように」との知らせが届いた。彼は90年の総選挙で議員に当選していたが、軍政は国会を開かなかった。この副党首宅で会合は「党の政策決定権はアウンシュエ党首とスーチー書記の二人に委ねる」という委任状への署名のためだ。スーチーは96年に2回集会を開こうとしたが、軍政はそのたびに議員を一時拘束して妨害していた。軍政はNLDの動きを封じつつ、経済発展のため対外開放を始め、96年は「観光年」として外資導入を図っていた。スーチーは98年9月、議員251人の委任を受けたとして、国会に代わるメンバー10人の委員会を組織した。だが「立法府」を名乗る組織の立ち上げは、軍政との対決をより決定的にした。

2016年8月20日土曜日

(3023)スーチーの軌跡 逃した機会③ 学生デモ 軍政へ反発

 8月20日の朝日新聞より。96年12月2日ヤンゴン大学近くの交差点が、約500人の若者で埋まった。ヤンゴン工科大の学生でデモの中心を担ったトゥインリンアウンは訴えた。「民主主義は国民の願いだ、我々学生は規律を持って活動しよう」。彼はスーチーを物足りないと感じていた。「ミャンマーは南アフリカの状況には達していない」と民衆デモによる圧力こそが必要と信じていた。デモは、12月6日まで続いた。軍政は7日未明参加者らを拘束、全国の大学をその後4年間閉鎖。トゥインリンアウンは翌年逮捕、5年間投獄された。NLDはデモへの関与を否定、軍政はこれを機にNLDへの抑圧を強めた(以下。8月19日の朝日より)。スーチー氏は8月18日、中国を訪問、李首相と会談した。「中国離れ(特にミッソンダム問題)」「少数民族和平問題」を討議。

2016年8月19日金曜日

(3022)スーチーの軌跡 逃した機会② 対話なく対立深まる

 8月19日の朝日より。大阪大の南田みどり教授は、96年8月、ヤンゴンにスーチーを訪ねた。彼女の伝記を書くための取材だったが、スーチーは「個人的なことは言いたくない」と素っ気なかった。6年間の自宅軟禁から解放直後の前年7月にも面会していたが、その時はスーチーはよく笑っていた。軟禁から解放後の1年で、軍事政権とNLDは対決色を強めていた。軍政はNLD関係者を相次いで逮捕・拘束した。また95年11月、新憲法制定を目的に93年に設置した国民会議をNLDがボイコットした。スーチーは「対話実現まで出席しない」と訴えると、軍政は態度を硬化。翌日NLD代議員の資格を抹消した。軍政の広報担当者は当時のスーチーを「会議不参加で軍政との信頼構築の機会を逸した」と評する。対話を通じての民主化、その展望が 曇り始めた。

2016年8月18日木曜日

(3021)スーチーの軌跡 逃した機会① 軟禁解除 変化へ期待

 8月18日の朝日より。95年7月10日、NLD本部の女性部リーダー・メ―ウィンミンの所に党員の一人が興奮した様子で飛び込んできた。「スーチーが解放されたらしい」。彼女はすぐに車でスーチー宅に向かった。軍事政権はこの日、6年に及んだスーチーの軟禁を解いた。スーチー軟禁中の90年の総選挙ではNLDは議席の8割を得たが、軍政は無視、支配体制を固めていた。スーチーにノーベル平和賞が贈られた91年、軍政は党首のアウンシュエに解党の脅しを掛けてスーチーを党から除名させた。しかし解党直後にスーチーとリーダーらが一堂に会しているのを見て「世の中が変わるかもしれない」と思えた。翌日、南アフリカが94年に民主的な選挙を行った例を挙げ「私たちが同じことをできない理由はあるでしょうか」とスーチーは軍政に対話を訴えた。

2016年8月17日水曜日

(3020)スーチーの軌跡 政治の舞台へ⑧軍の弾圧 そして軟禁へ

 8月17日の朝日新聞より。スーチーが群衆の前で演説していると、軍のトラックが大音量で警告を発した。「集会は軍事政権の命令に違反している。今すぐ解散しなさい」。スーチーは負けじと怒鳴り声で話を続け、相手の声が途切れると言い返した。「ほかに言いたいことはないか」。1989年4月のニャウンドンでの一触即発の対峙だった。軍はこの頃からスーチーの活動妨害を強め、逆にスーチーは、「不当な権力には抵抗を」と訴える民衆動員型の闘争を始めた。父で建国の英雄アウンサンが暗殺された記念日「殉難者の日」の7月19日に、ヤンゴンの殉難者廟に市民と参拝すると宣言。だが市内の厳戒態勢に参拝を断念。軍政はこの件を理由に、スーチーを最初の自宅軟禁にした。スーチーが再び姿を見せるのは、6年後になる。(政治の舞台編は終了)。

2016年8月16日火曜日

(3019)スーチーの軌跡 政治の舞台へ⑦ 軍批判 怖いもの知らず

 8月16日の朝日新聞より。スーチーの自宅にはさまざまな階層の人が集まりだした。国立大学図書館司書のミンスエはスーチーの個人秘書として支えた。88年9月、軍事クーデターが起きた。スーチーはNLDを結成、89年にかけて各地を遊説、怖いもの知らずといった様子だった。NLD幹部会議で、彼女があまりにも軍批判をしたので、幹部の一人が『少し態度を和らげた方がうまくいくのでは』と意見したが、彼女は『これでも言い足りないぐらいだ』と態度を変えなかった。89年7月のヤンゴンでの集会では1万人の聴衆にこう呼びかけた「法律に反する命令や権力を発動しているから、私たちには反攻する義務が生ずる」。心配した伯父のアウンタンは「寝具を用意しておきなさい」と刑務所収容を恐れて忠告。スーチーは「用意しています」と答え、覚悟を示した。

2016年8月15日月曜日

〈3018〉スーチーの軌跡 政治の舞台へ⑥ 若い力知り、奮い立つ

 8月15日の朝日新聞より。民主化の指導者に、との要望をスーチーに断られ、ニョーオンミンは憤慨した。1988年8月中旬のことだった。だが数日後、スーチーは再び彼を含む若手活動家を自宅に招き 切り出す。「父の果たせなかったことをやりたい。一緒に働きましょうよ」。「スーチーは8月15日付で書簡を政権に送ったが返事はなかった。ニョーオンミンは「彼女は手紙より行動、そして若い力が必要だと気付いたはず」と話す。知識人たちも裏で働きかけていた。映画監督のモートゥは8月中旬、仲間数人で彼女と会い、政情を議論したあと、「最高の娘をアウンサンは残した」と語る。世界に知られるようになったのは8月26日のシュエダゴンパゴダ前の演説だった。「平和的に規律を持って意志を示そう」。そのとき訴えた非暴力主義はいまもぶれていない。

2016年8月14日日曜日

(3017)スーチーの軌跡 政治の舞台へ⑤ 帰国、民主化運動と距離

 8月14日の朝日新聞より。日本での研究を終えて1986年に出国したスーチーは、ミャンマーに数か月滞在後英国に戻って暮らしていた。88年4月初旬、英国人の夫と2人の息子を残して再び帰国する。直前の3月中旬、独裁政権に反発した民主化運動が始まっていた。だがスーチーはしばらくは、デモや政治集会とは関わりがなかった。帰国は3月末に母キンチーが急病で入院したためだった。いとこのゲーママタンは「スーチーは面会者をあまり受け付けなかった」という。とはいえ、政治情勢に無関心ではいられなかったはずだ。各地で抗議する民主化勢力は多くの負傷者がこの病院に運ばれていた。大学講師のニョーオンミンが訴えた。「あなたの父アウンサンのように、民衆を指導しようとは思わないのか」。スーチーはなお情勢を見極めようとしていた。

2016年8月13日土曜日

(3016)スーチーの軌跡 政治の舞台へ④ 民族衣装と親友の言葉

 8月13日の朝日新聞より。京都大の客員研究員だったスーチーは1986年6月ごろ、大阪外国語大で講義した際「ロンジー」をはいていた。当時大学院生だった土佐桂子は、「上着とも合い洗練されていた」と話す。70年代から親交のある大津紀子は、「英国でもロンジー姿でたまに外出したのは、自分がビルマ人だと宣伝する意味があったと思う」。英国ではリバティ社の花柄の布が好きで、自宅でロンジーに仕立てていた。母国愛の背景にあるのが、自分は独立の英雄アウンサンの長女という自覚だ。86年春大津は滋賀県の自宅に来ていたスーチーに考えを告げた。「私があなたならビルマに帰る」。スーチーは下を向いていた。しばらくの静寂の後「ノリコ、あなたは正しい」と答えた。スーチーは同年7月 9か月余り暮らした日本から英国への帰路に就く(続)。

2016年8月12日金曜日

(3015)スーチーの軌跡 政治の舞台へ③ 「英雄の娘」自覚深める

 8月12日の朝日より。1985年10月、大津市の旅館の宴会場。京都大学の客員研究員として来日していたスーチーは浴衣姿の男性らに熱心に問いかけていた。「アウンサンについて何か知っていますか」。スーチーが2歳の時、父は暗殺された。「父を知る人達から少しでも情報が欲しい」。スーチーにお願いされ、同志社大大津典子講師が連れて行った。大津は英国留学の際、スーチーと意気投合した。スーチーは京都滞在中、大津の自宅によく遊びに来た。英国では2児の母だったスーチーが、京都では威厳が出てきたと大津は言う。86年6月ごろ、スーチーは大阪外語大で講義をした。ビルマ文学について話していると、後ろの席から学生のおしゃべり声が聞こえた。「前に出なさい!」とスーチーはすぐに注意。「言うべきことは言う人」と大野徹教授は感じた。

2016年8月11日木曜日

(3014)スーチーの軌跡 政治の舞台へ② 父の足跡 日本で探る

 8月11日の朝日より。1988年、大野徹(大阪外大ビルマ語教授)はスーチーが政治指導者になったと知って驚いた。スーチーは建国の英雄アウンサンの長女ではあったが、母国の民主化に身を投じるような印象はなかった。72年に英国人のチベット研究者マイケル・アリスと結婚し、オックスフォードに永年暮らした。15歳からインドや英国で暮らしてきたスーチーは、ビルマ語よりも英語の方が楽のような感じ。85年には父の業績研究のため京都大の客員研究員として次男のキムを連れて来日。日本語の論文も辞書を引きながら読みこなしていた。来日の最大の目的は、第2次世界大戦時に旧日本軍と協力し、ビルマ独立を目指した父の足跡をたどること。父を知る日本人から話を聞き、父に関する資料を読む中で、スーチーは英雄の娘である事実を再認識。

2016年8月10日水曜日

(3013)スーチーの軌跡 政治の舞台へ① 「第2の独立闘争」訴え

 8月10日の朝日より。88年8月26日、独裁政権に反発して民主化を求める数十万人が、シュエダゴンパゴダの西門前を埋めていた。「来る」とうわさが広まっていた。「英雄の娘」が集会の壇上に立った。「父の娘として、私は首をすくめているわけにはいかない。これは第2の独立闘争と言えるのです」。当時ネウイン将軍の統治下にあった。スーチーの言う「第2の独立闘争」は、父が率いた独立運動が念頭にあったのは明らかだ。「アウンサンの娘の登場に参加者はなにより勇気づけられた」と識者は振り返る。「民主主義の獲得には国民の団結が必要です。団結しなければ成就できません」。そうも訴えたスーチーは父の功績を研究し、母国への熱い思いを胸に刻んでいた。この日を境に「アウンサンの娘」は指導者として歩みだす (「政治の舞台へ」編続く)。

2016年8月9日火曜日

(3012)スーチーの軌跡 大統領の上⑥ 軟禁支えた人材指名

 8月9日の朝日新聞より。ミャンマー国会で3月10日、新大統領の選出手続きが始まった。予定より1週間早まったのは、スチーが自身の大統領就任のために目指した憲法条文の凍結を断念したためだ。「大統領にはティンチョーがいいと思う」。ス―チーが本人に告げたのは総選挙で大勝した後だが、本人は驚いた様子は見せなかった。「スーチーに言われれば引き受ける」との読みは側近らにもあった。ティンチョーは国民的詩人ミントゥウンの息子。父は1990年総選挙でNLDから議員に当選、養父はNLD創設メンバー、妻はスーチーの友達だった。新政権発足後の4月6日、スーチーは事実上の政権トップに就いた。「国家顧問」就任は、軍側の反応を見ながら自身の大統領就任の可能性を探り、最終的に対立を避けて繰り出した秘策だった(本項終り)。

2016年8月8日月曜日

(3011)スーチーの軌跡 大統領の上⑤ 政権と対立 凍結を断念

 8月8日の朝日より。2月11日テインセインが動き出した。スーチー氏の大統領就任を可能にする、憲法の一部凍結案を準備してから3日後だった。「我々は憲法の凍結案に反対だ」。驚きは広がった。NLD幹部は「元軍政トップのタンシュエが認めれば決まりと思っていた」と振り返る。タンシュエは昨年12月にスーチーと会談した際に、スーチーが国家指導者になることを認めるような発言をしていた。NLD幹部は「強行すれば、凍結法案が憲法裁判所に送られ 政権交代が先送りになる懸念があった」と話す。2月17日、スーチーは軍最高司令官ミンアウンフラインとの会談に臨む。同席したNLD 幹部は、凍結案について「直接は話し合わなかった」と話す。だが軍側が現状では「スーチー大統領」を認めない姿勢は確認。凍結案の断念は スーチー自身が決めた。

2016年8月7日日曜日

(3010)スーチーの軌跡 大統領の上④ 確実な政権移行へ戦略

 8月7日の朝日より。ミャンマー軍事政権が首都ネピドーに建設した国会議事堂は、NLDのシンボルカラーだいだい色の上着姿の新人議員でごった返した。昨年の総選挙に基づく新国会が召集された。憲法の条文を一時凍結しようとするNLDの試みも動き出していた。2月8日、大統領を選出する権限のある上下両院合同の連邦院が招集された。NLD所属の議長は「大統領選出手続きを3月17日に始める」と宣言。1か月以上先に設定したのは、その前に「凍結法案」の審議時間を確保するため。同時に「NLD政権」への確実な移行を考えた戦略でもあった。NLDが本気で「スーチー大統領」を目指していたのだ。テインセイン大統領の立法府権限は任期満了まで続く。結局法案は作られなかった。背景に 想定外ともいえる政権側の強い反発があった(続く)。

2016年8月6日土曜日

〈3009〉スーチーの軌跡 大統領の上③ 軍政実力者の容認獲得

 8月6日の朝日より。昨年12月2日、スーチーはミンアウンフライン最高司令官と初めて会談。スーチーは「私たちは憲法改正を法の枠内で実現する」と話した。ミンアウンフラインは反論しなかった。しかし会談後、ミンアウンフラインは記者団に「よい会談だった」と友好ムードを演出した。スーチーはさらに2日後、スーチーと連携するシュエマンの仲介でタンシュエと孫2人をまじえて極秘会談。自らが長年弾圧したスーチーが国家指導者になることを認めた。タンシュエの孫はフェイスブックに2人のやり取りをこう記録している。スーチー・・・「恨みの念は全くない。軍を含むすべての勢力と協力するためタンシュエ氏と話し合う必要がある」。タンシュエ・・・「国の発展のために努力するなら私も最大限協力したい」。軍政実力者がスーチーを新政権指導者と認めた発言だ。

2016年8月5日金曜日

(3008)スーチーの軌跡 大統領の上② 憲法「凍結」の道も模索

 8月5日の朝日新聞より。昨年11月のミャンマー総選挙でNLDが大勝した直後、NLD内部で一つの検討が始まった。「大統領の上になる」方法論で、スーチー氏は「国家顧問」という形で実現した。しかし別の案の検討も進めていた。スーチー氏の大統領就任を阻む「外国籍の家族がいる人物は大統領になれない」という条項を、新政権の任期5年に限って凍結するという案だ。「国会の過半数の賛成で憲法の条項は凍結できる」と解釈したのだ。この凍結案にスーチー氏も関心を示し、「詳細に検討するように」、かつ「メディアに漏れないように」と注意を促したという。凍結案は昨年12月、旧軍政系政党の所属ながらスーチー氏と連携する下院議員からメディアに語られた。NLDの方針と悟られず、軍や世論の反応を見極める狙いがあったとみられている(続く)。

2016年8月4日木曜日

(3007)憲法を逆手 国のトップに スーチーの軌跡①

 8月4日の朝日新聞より。総選挙を3日後に控えた昨年11月5日スーチー氏は政権を取れば「大統領の上に立つ」と発言、その真意が明らかになったのは5か月後の3月31日、第217条「行政権は大統領にある。しかし国会が国の機関や人物に対して責務や権限を付与することを阻むものではない」。この条項を「改正すべきではない条項」に分類、この素案が3月31日に国会に提出された。政権奪取の秘策、「国家顧問」が誕生したのだ。「寝耳に水」の軍人議員は「憲法の趣旨に反する」と強く反発したが、国会の過半数を握るNLDが押し切り、5日後にスピード可決した。法案提出のタイミングを含め、軍側が何も手が出せないように用意周到な準備を進め、一気に可決したのだ。スーチー新政権を軸に、半世紀続いた軍政から脱却を図るミャンマーを追う。

2016年8月3日水曜日

(3006)タイとミャンマー 変わる隣人関係②

 前日より続く。80年~90年、日本企業が続々とタイに進出し、タイは急速な経済発展を遂げた。一方ミャンマーは「ビルマ式社会主義」が破たんし、軍政による民主化運動弾圧と、欧米諸国からの経済制裁で困難の時期を迎えた。大規模な移民労働者の流入の背景だ。大規模な移民労働者のいるタイが今の経済規模を維持するには、常に200万人の外国人の流入が必要である。ミャンマー人労働者を抜きにはタイの経済は考えられない。しかしそれでも反ミャンマー感情はちょくちょく顔を出す。「なぜ我々のかつての王都アユタヤを焼き尽くした連中を支えなければならないのか」と。最近 タイの識者は「タイに必要なのは、ミャンマーであったような軍と民主化勢力の妥協と調整」という。スーチー氏も「両国民がお互い隣人でなくなるわけにはいきません」という。

2016年8月2日火曜日

(3005)タイとミャンマー 変わる隣人関係①

 8月2日の特派員レポートより。6月下旬タイ中部の水産業の街をスーチー国家顧問が訪問した。国家顧問として初めての公式訪問であり、その最初の日程をタイで働く同胞をねぎらうためにあてた。対話集会に参加できたのは500人だけで、その周辺には数千人の同胞が集まっていた。規制したのはタイ側であり、民主化を巡る近年の「逆転現象」は複雑で示唆に富んでいた。2日目の大学生との集会では、スーチー氏の講演中、「報道人は出てください」とタイ外務省職員の声が。タイ人はミャンマーとの比較に敏感だ。14世紀400年続いたアユタヤ王朝は、ミャンマーからの2回の攻撃で滅亡した。この怨念は今も続く。一方でタイ経済はミャンマーからの移民労働者によって支えられている。不法滞在者を含めると、400万人に達するとも言われている(続く)。

2016年8月1日月曜日

(3004)カチン州のヒスイ鉱山、310社が今月末までに事業を停止

 7月30日のミャンマーニュースより。カチン州のヒスイ鉱山で作業する鉱山会社のうち310社が、今月末までにヒスイ産業に関するライセンスを停止されることが分かった。2018年までに、他の鉱山会社もライセンス期限が切れる。政府は、国際的な作業環境基準と計画を満たしている企業に対し、ライセンスを与えていた。現在700社ほどが鉱山で事業を行っているが、その多くは18年までに期限切れとなる。ライセンスは、国営のミャンマー宝石企業が行っている。新政権による自然資源環境保護省が宝石生産や管理に関するルールを変更したため、ライセンス更新ができなくなったという。政府は度重なる地滑り被害や環境破壊、違法取引の横行などを理由に、方針を見直している。カチン州のヒスイ鉱山が注目されたのは、採掘場にある廃棄物の崩壊事故