2012年6月30日土曜日

(1509)読了108冊目:「メフェナーボウンのつどう道」

  古処誠二著、2008年1月・文芸春秋発行、345頁、1700円+税。題名の「メフェナーボウン」とはビルマ語で「仮面」を意味するという。出版の際、最初からわからない題名にするよりも、「仮面のつどう道」にしたほうが読者に親切だと思うのだが。大戦末期、ラングーンの兵站病院も、350キロ先のモールメンまで撤退の命令が出た。怪我人は足手まといになるため、置き去りにするしかない。途中、隊列から離れてしまった2人の日赤看護婦と、下士官、担架の負傷兵、2人の従軍慰安婦、ビルカン(ビルマ人看護婦)、日本人母娘という奇妙な集団の逃避行、途中で各人の考え方に微妙な差異が生じ、それぞれの「仮面」が剥がれていくという筋書き。第一線ではなく、最後方での撤退なので、壮烈な戦記物とは違うが、それだけに心に訴えるものが多い。お勧めだ。

2012年6月29日金曜日

(1508)ロヒンギャ族との騒乱

  6月27日のアムネスティ・インターナショナルは、ラカイン州北部における緊張状態に対して次のような声明文を発表した。ビルマ政府は、非常事態宣言を早急に停止し、国際監視団を受け入れ、少数民族ロヒンギャに対する長年の制度的、社会的差別に対処すべきである。6月8日に少なくとも8地域で始まった広範な暴力事件は、その後減少したが、ラカインの仏教徒とイスラム教徒、ロヒンギャのイスラム教徒の間で人権問題は引き続き発生し、治安部隊による人権侵害も続いている。特にマウンダウとラシダウンで多発している。政府の発表によれば少なくとも50人が殺害され、3万人以上が居住地を追われ、数千の家屋が破壊された。アセアン加盟国は、監視団を紛争地に派遣するべきである。またビルマ政府は、ロヒンギャの市民権を認めるべきである。

2012年6月28日木曜日

(1507)ウワサ

  いま、在日ミャンマー人の間で囁かれている噂がある。 偽造の就業ビザで500人が捕まりそうだというもの。500人はチョット多いなぁと聞き流していたら、そのうち76人だという人も。このように端数まではっきり出ると、信ぴょう性が少し高まる。さらには、首謀者はミャンマー人女性らしい。その他、難民申請や仮放免延長申請に行けば、捕まるので怖いという人も。噂が噂を呼んでいる。ただ不思議なことに警察からは何も報道がない。通常この種のニュースは、逮捕者が10人も出れば、すぐ報道されるのに。そこでまた噂が。逮捕予定者があまりにも多いので、警察も発表できないのでは・・。この噂が、噂で終って欲しい。みに就業ビザ関連での違法在留は、原則強制送還だ。裁判終了後入管に移送され、帰国準備が揃い次第、強制的に飛行機に乗せられる。

2012年6月27日水曜日

(1506)高田馬場での起業家

  6月20日付の日経ビジネス(ONLINE版)が「民主化への弾圧を逃れた難民が起業家として活躍」というテーマで、ミャンマー人起業家を取り上げた。東京のリトルヤンゴンと言われる高田馬場近辺では、同国人が経営するミャンマー料理店をはじめ、食材、雑貨店、美容室など約20店が集まっている。高田馬場だけで約500人ものミャンマー難民が住んでいる。ヤンゴン経済大学を卒業し会計士の仕事をしていたソーさんは、88年の民主化運動に参加し、身の危険を感じて来日、現在はレストランを経営する傍ら、NHKビルマ語放送のアナウンサーも務め、日本での民主化運動を続行中。東日本震災の際は、ミャンマー難民を集め、被災地で炊き出しを行った。少数民族のセンブーさんはカチン料理店を経営中。難民支援協会は起業家に100万円融資している。

2012年6月26日火曜日

(1505)読了107冊目:「ビルマの竪琴」

  竹山道雄著、1959年4月・新潮社発行(新潮文庫)、233頁、定価320円。著者が第一高等学校(東大教養学部の前身)の教授時代の作品で、児童向けのもの。しかし、ビルマ関連書籍としては余りにも有名過ぎて、拙著「101冊あらすじ集」の第1集に入れるのをつい忘れてしまった。私はこの書籍を読んだ記憶はないが、市川昆監督による2回の映画(56年、85年)やテレビ、舞台演劇などを見てストーリーは理解していた。終戦の際、ビルマ戦線で英軍の捕虜になった日本の兵隊たちが、間もなく帰国する日が近づいてきたが、一人だけ帰らない兵士がいた。戦友たちが合唱する「はにゅうの宿」の歌声に合わせて、僧衣の彼は竪琴を取り上げ激しく打ち鳴らした。戦場を流れる兵士たちの歌声と竪琴の音に、国境を越えた人類愛が胸を打つ素晴らしい作品だ。

2012年6月25日月曜日

(1504)ミャンマー証券取引所 開設へ

  証券取引所(証取)とは、主に株式や債券の売買取引を行うための施設であり、資本主義経済における中心的役割を果たしている。経済の発展に欠かせない資金調達と、資本運用の双方を効率的に行うために、株式・債券の需給を取引所に集中させている。22日の朝日夕刊には、ミャンマーの証券取引所が、東京証券取引所と大和総研の支援を受けて、開設する方向と報じた。東南アジアでは、近年ラオス、カンボジアが証取を開設、GDPが同レベルの両国に先行されたことで、ミャンマー側に焦りが出ていた。またテインセイン大統領が、2015年までに一人当たりのGDPを3倍に引き上げると表明、経済発展には、証取など経済インフラの整備が必要なのは間違いない。ミャンマー側は15年までの開設を希望しているが、かなりギリギリとの声が出ている。

2012年6月24日日曜日

(1503)英国訪問中のスーチー女史

  6月21日、22日の朝日夕刊は、英国訪問中のスーチー氏の動向を報じた。まず、20日は母校オックスフォード大学で名誉博士号を受けた。スーチー氏にとってオックスフォードは1960年代に哲学や政治、経済を同大学で学び、88年に帰国するまで、夫や二人の息子とともに長年暮らした思い出の地。記念講演では、当時の思い出が、ミャンマーでの「最も厳しい時期に私を支えてくれた」と話した。前日、2015年に予定される総選挙を経て指導者になる意思があるかを問われ、「私が国民を正しく導けるのならイエスだ」と意欲を示した。一方、21日には英国会のホールで演説し、「今がビルマにとって最も困難で援助を必要とする時」と述べ、議会制民主主義の再建や、教育への支援、公正な投資を訴えた。英国会で演説した外国人は国家元首級の一部だけという。

2012年6月23日土曜日

(1502)読了106冊目:「異郷の女」

  副題は「戦争と愛との物語」、村松喬著、1956年12月・虎書房発行、270頁、定価230円、直木賞候補作品。著者が日日(現毎日)新聞社ビルマ特派員だったころの体験をもとに、戦後10年目に発表したシャン女性との恋愛小説。その背景に、ビルマの慣習やシャンの歴史があり、戦争があり、宗主国が英国から日本に替る時代の変化があった。多くのビルマ人は打算で動いていた。特派員は当初メイミョ―にいて、現地で雇った数人の現地人と共同生活を始めた。その中の一人の青年Bが実に忠実に働いてくれて、大いに助かっていた。そのうち主人公はシャン女性と純愛の生活を繰り広げたが、戦争は二人の仲を無残にも引き裂いた。そして背後で操っていたのは・・・・。この本を読み終えてジョージ・オーウェルの「ビルマの日々」を思い出した。お勧めしたい。

2012年6月22日金曜日

(1501)ワッハッハのついでに

  昨日は変な日であった。厳密にいうと変な3時間であった。こんな時間帯もあるんだなあ。家内が1時ごろ図書館から2冊のビルマ関連の書籍を持ってきてくれた。久しく読むものがなく、待ちに待っていた本である。1冊はGさん推奨の「メフェナーボウンのつどう道」、それと、ご存知「ビルマの竪琴」。とりあえず2冊は確保できたので嬉しい。と、1時ごろ宅配便のチャイムが。何だろうと見ると、Tさんから贈っていただいた新刊の「アウンサンスーチー」。私の書いた「ミャンマー関連書籍101冊紹介・あらすじ集」のお礼のようだ。その後30分ほどして別の宅配便が。開けてみるとSさんからの「異郷の女」。4冊ともミャンマー関連の名著ばかり、この調子だと、拙著「101冊」の第2集は比較的早く出来上がるかも。いや待てよ、きのう書いた「社説集」も「中国・インド」もある。

2012年6月21日木曜日

(1500)ワッハッハ 1500回だぜー

  このブログもきょうで1500回、1500という数字には別に意味はないが、なんか「よくも続いているなあ」という感じはする。1年は365日、これで割ると4年ちょっと、か。雨が降っても、雪が降っても、地面が揺れても、毎日1回書き綴った「U Mingalarのブログ」、先日は「ミャンマー関連書籍101冊 紹介・あらすじ集」の自費出版も無事終わり、一息ついている所だ。さて次の自費出版のテーマはどうするか? (1485)では、「ミャンマー関連記事の中の中国・インド」でまとめるべく、準備を進めている旨を書いたが、その前に「この15年間、朝日新聞の社説はミャンマー問題をどう取り上げてきたか」のほうを先にまとめたくなった。この1年間にミャンマー情勢は急激に民主化に舵を切りだしたが、社説に何か予見はあったのか、この辺を探ってみたい。まとまるかしら。

2012年6月20日水曜日

(1499)5年間の成長率7.7%

  今朝の朝日は、ミャンマーのテインセイン大統領が19日首都ネピドーの大統領府で行った施政方針演説を取り上げていた。それによれば今後5年間、平均7.7%の経済成長を目指す方針を明らかにした。また3年間で国民所得を1.7倍にするとの目標も掲げた。テレビで全国に生中継された演説で、大統領は、初年度は政治改革と国民和解に力を注いだ。今年からは国と国民の経済発展に焦点を当てると述べた。投資法や経済特区法の改正案成立を目指すほか、最低賃金を規定する新法案を来月召集の国会に提出する意向を示した。なお、国際通貨基金(IMF)によるとミャンマーの経済成長率は2009年以降年5%台で推移している(以上概要)。欧米からの経済支援が復活すれば、即ち、民主化が進めば、経済成長率はもっと高くなるのではと思うのだが?

2012年6月19日火曜日

(1498)ミャンマー改革の行方 FT紙の社説

  日経新聞の6月13日の電子版に、英国のFT(The FinancialTimes)紙の社説を掲載。見出しは「ミャンマー改革の行方 スーチー氏が大きな役割」。彼女は国会議員としてどこにでも自由に行けるようになり、ミャンマーを巡る状況がここ1年で大きく変わった。だが喜んでばかりもいられない。イスラム教徒と仏教徒との衝突で17人以上が死亡し、テインセイン政権は非常事態を宣言した。しかし、新政権もスーチー氏も、民族対立を解決するための確固たる案を示していない。軍事政権は、少数民族を容赦なく弾圧するという手法で対処してきたが、現在この手法は選択しにくい。ミャンマーがアジアのユーゴスラビアになる恐れもある。スーチー氏は制裁をいつ解除すべきか明確ではない。投資が自由に入ってきても、民族対立で緊張する地域には、向かないだろう。

2012年6月18日月曜日

(1497)スーチーさん外遊 脚光と試練

  今朝の朝日には、アジア総局長の藤谷健氏が「風」欄に、「スーチーさん外遊 浴びる脚光 待つ試練」という一文を掲載していた。最初の外遊先バンコクでは、国際会議のほか、ミャンマー人出稼ぎ労働者が数十万人いるといわれる郊外で演説、支援の約束と国づくりへの協力を呼び掛けた。休むことなくメソトへ、シンシアさんはじめ多くの活動家との面会は中止された。この中止はミャンマー政府を刺激することを懸念したタイ政府が決めた。些細なことが失望につながる。ロヒンギャ族をめぐる民族対立でも、世論はバングラデシュからの不法移民とみなすが、スーチーさんはミャンマーの少数民族と位置づけ、反発が出ている。これからも多くの試練が待ち受けている(以上概要)。日本人の多くは、ロヒンギャ族を、ミャンマー少数民族の一つと考えていると思うのだが。

2012年6月17日日曜日

(1496)スーチー氏 平和を目指し旅を続ける

  今朝の朝日には表題の見出しのほか、「21年後のノーベル平和賞演説」、「政治犯の釈放訴え」、「授賞 民主化の支えに」という見出しが並んでいた。ミャンマーの民主化運動指導者アウンサンスーチー氏(66歳)が16日ノルウエーの首都オスロの市庁舎で、1991年に授与されたノーベル平和賞の受賞演説に立った。「完全な世界平和の実現は到達できない目標だ。でも、私たちは救いの星に導かれる砂漠の旅人のように、平和を目指して旅を続けなければならない」と訴えた。またミャンマーの現状を前向きに捉えた上で「釈放されていない無名の囚人(政治囚)がたくさんいる」として早期の釈放に向けて政権に圧力をかけるよう呼びかけた。1901年に創設されたノーベル平和賞は今まで101人と20団体が受賞、圧政などで授賞式に出られなかった人は5人。

2012年6月16日土曜日

(1495)NHK アジアが頼る大国日本 難民流入

   昨夜7時半からのNHK特報首都圏で「難民流入 アジアが頼る大国日本 日本で生きる覚悟」という30分番組を見た。日本での難民申請者は10年で5倍に増え、昨年の申請者は1867人、認定者はわずかの21人、14年前に来日したマウン君はいまだに認められない。ミャンマーで警官に追われ貨物船で日本に、母が代わりに捕まった。2週に1度入管に出頭してるが母は亡くなった。人生の意味はないとつぶやく。イラン人省略、チン民族のチンラムルンさん(ミンガラ日本語教室での教え子)は介護施設で働いており評判よい。息子のシャン君(23歳)は大学進学の際国籍がない不便を感じた。また夫婦は老後年金収入がない、帰化したらと言ってくれる人もいるが、母国も大切、国が変われば帰国したい。そして難民を受け入れてくれる日本に恩返しをしたい。

2012年6月15日金曜日

(1494)民主主義促す投資を スーチー氏ILOで

  15日の朝日にはスーチー氏のILOでの講演が掲載されていた。スーチー氏は、14日欧州歴訪の最初の訪問地スイス・ジュネーブで開かれた国際労働機関(ILO)総会で演説、民主主義の促進につながる投資を期待する」と述べた。スーチー氏が自宅軟禁を解かれてから国連機関で演説するのは初めて。経済成長は民主化プロセスの促進につながると歓迎、一方で国営石油ガス公社については「まだ透明性が十分に確保されていない」として当面は投資を控えるよう要請した。ミャンマーの若者の間に広がるアルコールや麻薬の問題にも触れ、「失業は若者の社会への信頼を損ないかねない、職業訓練を雇用に結び付けることが急務」と述べた。ILOは99年から会議への参加を制限する制裁を科してきたが、13日の総会で制裁を解除。(読者延5万5千人!)

2012年6月14日木曜日

(1493)ミャンマー難民1500人を追い返す バングラデッシュ

  きょうもこの話題、朝日新聞は、ラカイン州でイスラム教徒のロヒンギャ族との対立が激化、バングラデシュの国境警備当局は、13日までの3日間で、同国側に逃れてきた660人以上のロヒンギャ族が乗った計16隻の船を海上などで発見、ミャンマー側に追い返した。大半は女性や子供で、追い返されたロヒンギャ族は1500人。バングラデシュに難民として居住するロヒンギャ族は20万人以上と言われるが、同国政府は「難民受け入れは、国益にならない」として、国境の監視体制を強化している。一方全難連経由ヒューマン・ライツウオッチは12日に声明を出して、「アラカン州で生じた暴力を停止させ、外国メディア、援助関係者、外交官の迅速なアクセスを許可するようビルマ政府に強く求めた(以上概要)。両民族間に積年の怨恨があり大統領の腕の見せ所だ。

2012年6月13日水曜日

(1492)アラカン州での民族対立 留学生からの悲鳴

  (1490)ではアラカン(ラカイン)民族(仏教徒)とロヒンギャ民族(イスラム教徒)の衝突を報じた共同通信の記事を紹介した。この内容は6月10日、12日の朝日にも掲載された。ところが昨日全難連を通じて、ロヒンギャ民族の一員である青山学院大学留学生Kさんから悲鳴に似た反論(状況説明)を入手した。各紙ともこの事件の発端は、ロヒンギャ男性によるラカイン族少女へのレイプ事件としていたが、今回のKさんの説明によると、レイプした男性も、された少女もラカイン族とのこと、こうなると話がだいぶ変わってくる。Kさんはすでに1000人以上のロヒンギャ民族が殺され、家を焼かれており、外出もできず、このままでは飢餓で死ぬのを待っている状況とか。助けてくれる人はこの世にいないのか、私たちは最低限の人権ももらえないのか・・・・・と訴えている。

2012年6月12日火曜日

(1491)読了105冊目:「ビルマ戦中日記、死と生」

  著者は林禮ニ、2012年3月・連合出版発行、207頁、2200円+税。著者は1941年東京帝大哲学科卒、翌年見習士官となる。1章:常に理性的であれ、2章:身を持するに冷厳なれ、3章:何よりも道徳的であれ、4章:何よりも善き人間たれ、5章:高潔と続く。私はビルマ戦記をいろいろ読んだが、哲学書はもちろん初めてなので恐る恐る読む。通常の戦記物と同じく各地に転戦するが、参謀部勤務が多く、情報将校として活躍するも終戦、捕虜として各地収容所を転々、復員業務に従事し、最後の復員船でラングーンを後にする。その合間合間に哲学を考え、紙面の半分以上は、堅苦しい文体が続いている。死とは、生とは、国家とは、人間とは。著者は最後に「哲学は現実世界を否定して成立するものである。哲学者は現実世界においては死んだ人間である」と。

2012年6月11日月曜日

(1490)ラカイン州で宗教対立、外出禁止令

  共同によれば、ラカイン州(アラカン)で5月に仏教徒の少女がイスラム教徒とみられる集団に暴行される事件が発生、今月に入り、イスラム教徒と仏教徒の双方がバスや家などを襲撃し、これまでに15人以上が死亡した。テインセイン大統領は、10日、ラカイン州に非常事態を宣言した。この混乱が、州都シットウェに拡大、これまで2地域に出していた夜間外出禁止令を新たにシットウェなど計4地区で発令した。報道によれば、シットウェではイスラム教徒が仏教徒の家を襲撃し、一部を焼き払ったという。ヤンゴンでは、事態の鎮静化を願う市民ら千人がシュエダゴンパゴダに集まり祈りをささげた(以上概要)。ここでいうイスラム教徒はロヒンギャと言われ、ミャンマー政府が国民と認めていない。このため、しばしば紛争が生じており宗教対立よりむしろ民族対立だ。

2012年6月10日日曜日

(1489)写真家が見詰めた軍政20年(テレビ)

  昨夜8時からNHK/BS1で標記の番組が放映された(先週の再録)。ミャンマー関連で著名な写真家、宇田有三氏の20年間、10万カットに及ぶ写真の物語である。1988年に胸にNLDの象徴、孔雀の入れ墨をしていた男性の首から下の写真を写したが、その顔のない写真を持って今年3月に彼を探し、再会を果たした。彼は今年1月から刺青を見せるようになったという。2003年に仕立て屋の店内にスーチー氏の写真が飾っている写真を撮ったが、その写真を持って探し、やはり再会。今年の水かけ祭りでミンコーナインがタンジャ(政治風刺コント)を発表した。20年間発表できなかったタンジャを。彼が収容されていた刑務所の航空写真を見せ喜ばせた。彼の父は息子が獄中にいるとき、家族全員が団らんしている絵を描いた。この他に多くの写真が紹介された。

2012年6月9日土曜日

(1488)不法就労防止キャンペーン

  法務省入国管理局は、6月1日「不法就労外国人対策キャンペーン月間」の実施について発表した。キャンペーンの実施は例年と同じだが、今年は内容が大きく違っている。というのは、7月から「新しい在留管理制度」が導入され、在留カードが無ければ、就労は原則できないこととなる。難民申請中の仮放免者には在留カードが発行されないため、法律に従えば就労はできない。一方雇い主が外国人の在留カードを確認しなかった場合は、3年以下の懲役、300万円以下の罰金を科せられる。ここで問題なのは、難民申請しているということは、帰国したくない、日本で生きていくという意思表示である。難民申請してから最終決定まで3年もかかる現状では、働かないで、どうやって生きていけばよいのか、この法律は人道上、人権上、憲法上、問題があると思うが。

2012年6月8日金曜日

(1487)憲法改正に柔軟姿勢 シュエマン下院議長

  きょう6月2日の朝日に、標記の見出しと並んで「スーチー氏と協力したい」、「陸軍出身、次期大統領に最有力」と出ていた。シュエマン下院議長は、スーチー氏が国会に軍人枠を定めた憲法の改正を求めていることについて、「憲法が国民の利益にかなっていなければ、検討すればよい」と述べ、柔軟に対応する考えを示した。7月に召集される通常国会にNLDの議員が加わることについて、シュエマン氏は、「野党と考えていない、国民のために協力していきたい、民主化の進展にも貢献してもらいたい、政党間の違いについて議論するのはその後だ」と述べた。シュエマン氏は08年国軍統合参謀長時代に北朝鮮を訪問、軍事力を強化した責任者。「現在は国連安保理決議を厳しく遵守してる」と。テインセイン大統領は、16年初めが任期切れで、後任の最有力者。

2012年6月7日木曜日

(1486)読了104冊目:「ビルマの人権」

  ビルマ連邦連合政府編、田辺寿夫監修、ビルマ国際議連・日本、菅原秀・箱田徹訳、1999年2月・明石書店発行、278頁、定価3000円+税。世界人権問題叢書の№26に該当している。この書は、96年にノルウエー首相ボンデビック氏がビルマ国際議連を結成し、97年に東京でその会議が行われた際、日本語の基礎資料がないことが指摘され、アメリカに亡命しているビルマ連邦国民連合政府が発行している報告書の97・98年版を翻訳したもの。本書には97年の人権侵害の事例とその背景が詳細に掲載されている。たとえば、力ずくの弾圧、脅かされる表現の自由、弱い者の権利、女性への虐待、少数民族と強制労働、少数民族と強制移住、発生し続ける難民、など。本書には目を覆いたくなるような人権侵害の告白も多く、早急な状況改善が望まれる。

2012年6月6日水曜日

(1485)もう一つの自費出版願望

  先に自費出版した「ミャンマー関連書籍101冊 紹介・あらすじ集」は40冊しか発行しなかったが、読者からはお褒めの言葉を頂戴した。例えば「こんなにたくさん出版されていたのか」、「編集面でいろんなアイデアが使われている」、「ビルマ料理のお店に置いておきたい」など。いま102冊目以降を読みだしており、いずれ第2集を発行したい。なおこの冊子は、私のこのブログに掲載したものをまとめたものである。私はブログの他にも、ミャンマー関連記事(主に朝日新聞)を96年ごろから集めており、その中から何かまとめたいと思っている。いま考えているのが、「ミャンマー問題と中国・インドとの関係(仮題)」だ。まあ1年がかりの労作?となろう。ミャンマーを取り囲む2大国がどういうスタンスで、軍事政権やテインセイン政権に関わってきたのかの解析だ。

2012年6月5日火曜日

(1484)大統領タイ訪問断念の裏側は?

  当初テインセイン大統領は、6月1日バンコクで開催された世界経済フォーラム東アジア会議に参加する予定だったが、急きょ中止し、スーチー氏に任せた形になった。さらにスーチー氏が帰国した後の4日にタイ訪問を計画していたが、これもキャンセル。大統領の訪問が2度にわたり中止になったことは異例であり、憶測を呼んでいる。6月1日の毎日新聞によれば、スーチー氏が国際的に脚光を浴びたことに対する嫉妬だと推測する人もいれば、大統領はそんなに狭量ではなく、スーチー氏が大統領の役割を担ってくれたとの見方も出ている。一方、大統領は、心臓のペースメーカーを使っているが、先月一時重体になったので、健康に配慮したためとの説も出ている(以上概要)。今後ともこの種の懸念は増大すると思われるが、国民生活の向上こそ、安定の鍵だ。

2012年6月4日月曜日

(1483)ビルマからの手紙(12-5)

  5月27日の毎日新聞にアウンサンスーチー氏のビルマからの手紙が掲載されていた。今回の見出しは「1942年 ラングーン 若き英雄と看護リーダー」、「戦火の恋 試練の門出」。日本軍の東南アジア侵攻が進むにつれ、ラングーンに空襲が増え、母が防空壕に避難するときも周囲に身なりを整えるよう言い、同僚たちから苦言が出たが、「どうせ死ぬなら美しい姿で死にたい」と。どんな苦境でも規範を保とうとする決意の表れだった。ラングーン総合病院が再開されると、すぐに看護師長として活躍、担ぎ込まれる患者の中に父(アウンサン将軍)がいた。父は怖くて扱いにくい患者で、同僚からは結婚に反対する人もいた。結婚式の前日空襲があり、緊急手術があったが、母は跳び起きて手術を手伝った。両親の結婚生活は、父の暗殺という形で5年で終わった。

2012年6月3日日曜日

(1482)スーチー氏難民と面会

  6月3日の朝日には「スーチー氏、難民と面会」、「タイ国境キャンプ」、「帰国のため努力」と見出しが並んでいた。2日に国境のメラ難民キャンプを訪問したスーチー氏は、「皆さんの帰国のために最大限努力する」、「保健状況の改善にも最善を尽くす」、「皆さんを決して忘れない」と語り、難民問題にも積極的に取り組む姿勢を明確にした。ミャンマー政府は少数民族武装勢力との和平に力を入れており、今年1月にはカレン民族同盟(KNU)との停戦に合意するなど成果を上げている。テインセイン大統領もタイ訪問を予定していたが、延期となった。各地で熱烈歓迎を受けたスーチー氏の直後の訪問を避けたとみられる(以上概要)。いまのところスーチーさんと大統領がそれぞれ別々に民主化を進めているが、いつまで続くかはちょっと疑問、お二人さん頑張って!

2012年6月2日土曜日

(1481)スーチー氏「母国の若者が働ける場を」

  今朝の朝日によれば、6月1日、バンコクで開催された世界経済フォーラム・東アジア会議で、スーチー氏は国内の最優先課題は、「ミャンマーの仕事がない若者が働ける場を作ることだ」と述べ、国際社会に支援や投資を呼び掛けた。テインセイン政権は、欧米でも人気が高いスーチー氏を広告塔にし、経済立て直しのために外資を呼び込みたい思惑があるとみられる。続いて行われた記者会見で、改革の先行きについて「楽観しているが同時に慎重だ」と発言、欧米の経済制裁について「『善行』のご褒美として一時停止するのは賛成、だが善行が続かなければ、ご褒美は取上げられるだろう」と(以上)。私は15年には両者の蜜月時代は消失すると考える。総選挙で軍政側が不利と予測されれば、クーデターという奥の手を使うのでは。それまでに憲法改正を!

2012年6月1日金曜日

(1480)スーチー氏 移民の街で演説

  朝日新聞の5月30日夕刊、同31日朝刊にスーチー氏の最初の外遊先での行動が紹介されていた。見出しは「スーチー氏、最初の視察先へ」、「移動労働者多いバンコク近郊」、「スーチー氏演説 移民の街に喝采」、「帰国のために尽力」と並んでいた。24年ぶりにミャンマーを離れ、バンコクを訪れていたスーチーさんは、多くのミャンマー人の移民が働くバンコク南郊サムットサコン県に到着、同県はエビなどの水産物加工工場が集まり、200万人のミャンマー人労働者が働いている。中心部にある市場には早朝から数百人が待ちわびていた。演説は「国の発展のために共に協力しましょう。私たちは皆さんを見捨てません。皆さんが帰国できるよう力を尽くします」と語りかけ、大きな拍手と歓声が上がった(以上)。来日してくれれば在日ミャンマー人も喜ぶと思うよ。