2008年12月31日水曜日

(234)大晦日だ、よいお年を

(2008年12月31日)
  今年5月に始めたこのブログもとうとう大晦日を迎えた。234回というか234日というか、毎日毎日、よく続いたものだ。ビルマ問題、難民問題、BRSA、書籍、入管、ミンガラ日本語教室、ブログ、サイクロン、仮放免、少数民族など、ビルマを中心にした特異なブログである。当初懸念された読者数もそれなりに増え、現在延べ3900人に達した。脳の活性化のために10行ピタリの短文に収めることを自己ルールとしたが、それも全部完遂。しかしそれによる脳の活性化のほうの成果は定かではない・・・・。忘れてならないのが、コメントをたくさん頂いているKAさん、STさんはじめ皆々様、コメントが増えれば、私の元気も増えます。それからこのブログをがっしり支えていただいているKTさん、皆さん、この一年ほんとうに有難うございました。今年は軍政に振り回されたけれど、来年は少しでもよい年になりますようお祈りします。

2008年12月30日火曜日

(233)飲むお茶 食べるお茶

(2008年12月30日)

  いま私は書棚から取り出した1冊の本を読んでいる。表題は「飲むお茶、食べるお茶」、副題に「ミャンマー紅茶物語」とある。著者は紅茶研究科の磯淵猛氏、2001年7月、株式会社PARCOより出版、223頁、定価1680円。ビルマを訪問した方は、コンデンスミルクをたっぷり入れて甘い紅茶を低い椅子に腰掛けて飲む風景を見たことと思う。その紅茶の工場を作ったのがポニー氏、しかしその工場は軍に接収されてしまった。ポニー氏の娘が東京の新大久保にあるビルマ料理店「ヤッタナー」の女主人イーミンさん。著者がイーミンさんの案内でビルマシャン州の茶畑や紅茶工場を見学したときのエピソードを綴ったのがこの本である。単に紅茶の話だけではなく食べるお茶の話も続く。「ラペットゥ」はビルマ人の国民食であり、お茶請けとして頻繁に出てくる家庭食、同じアジア人としてもまことに珍しい食文化といえよう。

2008年12月29日月曜日

(232)入管に収容されてる日数

(2008年12月29日)
  私の入管訪問の歴史は97年から始まっている。97年から02年までは年に1人~5人ぐらいの面会頻度であったが、以降急増して年間15人~20人、最近(07・08年)は年間約30人となっている。さらに収容者1人に平均7回は面会しているから、延べにしたら千回以上面会したことになる。ところで、難民申請者の収容期間はどのくらいであろうか?最近の例では初めて収容された人は平均約4ヶ月、前回2ヶ月収容されて今回再収容された人は約1ヶ月、すでに口頭陳述(いわゆるお台場)が終わって初めて収容された人は約2ヶ月となっている。ただ病気持ちの場合は平均日数より早く出られるようだ。07年に収容された人の多くが10ヶ月以上も収容されていたことに比べれば、短縮はされているが、もっと短縮できるのではないだろうか。難民申請者の収容は人権人道問題も絡むので可能な限り短くしてほしい。

2008年12月28日日曜日

(231)望郷のミャンマー

(2008年12月28日)
  私が勤めていたライオン時代の友人S氏から「日経マガジン」という雑誌のコピーが送られてきた。「望郷のミャンマー」というタイトルの2頁の記事である。日本で暮らすアジアの隣人は今や珍しくなく、就労、就学・・・・と目的や事情はさまざま。しかしビルマ人の中には帰るに帰れない人たちがいる。日本にはいま7千人のビルマ人が住んでいるといわれるが、その2割が88年のクーデター以降迫害を受けるなどの理由で日本に逃れてきた人たちである。祖国が民主化されれば帰りたいと念じつつ、すでに20年経過した人もいる。この記事には何人かのビルマ人を登場させて彼らの苦悩を紹介している。私はこのブログで何回も「難民」を取り上げてきたが、他国に比べ圧倒的にビルマ人の難民が多い。難民というのは、愛する家族中には幼子とも離別することであり、何としても手助けしてあげたい。幸せであってほしい。

2008年12月27日土曜日

(230)長井カメラマンの死は

(2008年12月27日)
本ブログ(227)で書いたとおり、読売新聞によれば「ミャンマーで反政府デモ、長井氏死亡」のニュースが、昨年の読者が選ぶ海外十大ニュースの第1位であった。ヤンゴンの繁華街でのデモの際、兵士に追われて逃げ惑う住民の姿を撮影していた長井氏の死は、まさに報道写真家としての鑑であり、その勇気ある行動には内外から絶賛を浴びていた、・・・・と考えていた。しかし、(211)で記した「ミャンマー難民キャンプ潜入記」の著者吉岡逸夫氏によれば、その本のエピローグで、「どうも報道カメラマンというと、戦場で命を落とすと、たちまち英雄視され、伝説となるが、危険を早く察知し、危険を回避してこそ本当のプロフェッショナルだ。だから長井さんは判断を見誤ったとしか思えない(後略)」としている。そういえばそうかもしれないが、私はやはり長井さんの死を高く評価してあげたい。そして最後の映像を早く見たいなあ。

2008年12月26日金曜日

(229)日本からの経済支援の是非

(2009年12月26日)
  私は公開に躊躇していた情報がある。12月19日にburmainfoから発信された「軍事政権を擁護するな」という英国ガーディアン紙の10月27日の記事。その中で特に気になった点は、対ビルマ援助の増額に関する点で、「民主化活動家がビルマ援助に反対していると嘘を触れ回ってる組織があるが、援助を増やすべきだと呼びかけてきたのは活動家たちのほうなのだ、軍政の懐を潤す援助には反対だが、人道支援は増やすべきである」。私も友人から一切支援すべきでないという意見を聞いたことがある。しかし現実には、日本政府からは、「草の根・人間の安全保障無償資金協力」の名目で、例えば12月にはシャン州の病院への医療機器提供355万円、ヤンゴンの障害者訓練施設建設790万円、マンダレーの農業訓練センター建設740万円及び孤児院建設761万円が日本のODAから支出される。どう考える?

2008年12月25日木曜日

(228)外国人住民票と登録証明書

(2008年12月25日)
  本ブログ(222)で外国人住民票新設のことを記載したが、これと、かねてから言われていた新しい外国人登録証明書(エイリアンカード)の関連性について、品川入管総務課を訪問、聞いてみた。その結果、法務省としては、従来、地方自治体(総務省)が担当していた外国人登録証明書を入管(法務省)が一元的に管理する方針で進めていたが、そうすると自治体のほうに原本がなくなり、住民管理ができなくなるので、外国人住民票を新設することになったようだ。この新しい法律は一月はじめに国会に提出するという。ここでもう一つ気がついたのが、厚労省管轄の「外国人雇用状況の届出」制度の強化、結局オーバーステイなどの不法滞在者は、外国人登録証明書がもらえず、持ってない人は働くことができない制度だ。難民申請中の人は不法滞在者と同じ扱いになる可能性もあり、早急に情報を集めることが必要だ。

2008年12月24日水曜日

(227)海外10大ニュース 1位と6位

(2008年12月24日)
  年末になると各新聞とも10大ニュースを報じる。たまたま読売新聞の海外10大ニュースを見ていると、過去5年のトップ3が出ていた。トップ1位だけを拾うと、2003年「米英がイラク攻撃」、04年「アテネで五輪」、05年「米南部に大型ハリケーン」、06年「北朝鮮が核実験」と続いた。そして07年は、2位の「ニューヨーク原油99ドル」、3位の「中国産品の安全性不安」を抑えて「ミャンマーで反政府デモ、長井氏死亡」が堂々の1位。そして今年(08年)は、1位が「初の黒人米大統領にオバマ氏」、2位が「四川大地震」だが、6位に「ミャンマーでサイクロン被害」が入っていた。ミャンマーで起こったこの二つの問題が日本国民に大きく取り上げられ、関心を持たれていたことに始めて気がついた次第、なんとも迂闊だった。これらのデータは私のいままでの活動に大きな自信を与えてくれたことになる。ビルマの友よ 頑張ろう。

2008年12月23日火曜日

(226)60人集って 忘年会

(2008年12月23日)
  一昨日はミンガラ日本語教室の忘年会が行われた。開催場所は教室の生徒が店長をしているチムニー虎ノ門店、3年前までは浜松町の「だるま」で、その後は教室のそばの「浜町亭」、さらに今回は「チムニー」。この店は店長以下従業員全部がビルマ人で、心休まる店。今回は60人の参加者のうち、7・8年前の生徒も10人ぐらい来ており、大いに旧交を温めた。また、今回はいろいろお世話になっている生徒NIさんご夫婦のお父さんと弟さんが一週間前に来日し、わざわざこの忘年会にご参加いただき、すばらしいお話を聞くことができ嬉しかった。会の後半にはビンゴゲーム、じゃんけんゲームが続き大きな歓声が響き渡った。特に3億円の宝籤が貰えるじゃんけんゲームでは、奇しくもNIさん夫婦の対決となり、結局奥様がゲット。NIさんのご家族は何となくついてる感じ、来年もこのつきを大切にして、いい年にしてね。

2008年12月22日月曜日

(225)活発だなあ BRSA

(2008年12月22日)
  我らのBRSAのホームページ(HP)が新しくなり、さらに新鮮で見ごたえが増えた。今回のHPは第3四半期の総会の模様が中心。この総会には約百人のメンバーが池袋のエコ豊島8階に集り盛況。ここでは、難民申請者の逮捕問題、BRSAの存在意義、生活支援問題、NPO法人化問題、会計(現有基金368万円)、現在会員数(208名)、機関誌問題、正月バス旅行問題、外国人在留カード問題、会員カード管理問題等が討議された。そのあと、各役員からの報告、来場者アンケートを実施。このHPにはその他、12月21日の第60回世界人権宣言日のデモ行進、第2回サイクロン被害者支援金30万円の寄付方法、RHQからの支援金中止問題に関しての取材対応など盛りだくさんに掲載されている。私は健康上デモ行進や夜間行事には参加できない年寄りなので、このHPに頼る所が大きい。がんばれBRSA!

2008年12月21日日曜日

(224)第三国定住 やっと日本も

2008年12月21日)
  BURMA INFOからの「今週のビルマのニュース」によれば、日本政府はタイにある難民キャンプから「第三国定住」によりビルマ難民を受け入れることについて、閣議の了解を得たと報じた。このことはいままで何回か話題になっていたが、やっと第一歩を踏み出したことになる。ビルマ難民の第三国定住をアジアの国が受け入れるのは日本が初めて。タイ・ビルマ国境支援協会(TBBC)によれば、タイ政府がビルマ難民の第三国定住を認めた2005年以降、約3万人が第三国に定住した。これまで欧米11カ国が受け入れており、約7割が米国に定住、第三国定住者数は今後も増える見込み。日本での定住は、噂によれば中国地方の桃の栽培に家族単位で従事するらしい。総勢30人だから、来日するのはせいぜい数家族か。しかし少子高齢化の進む日本では、真面目で意欲のある難民定住者をさらに増やしたい。

2008年12月20日土曜日

(223)水島上等兵のモデル

(2008年12月20日)
  今朝の朝日に「ビルマの竪琴」の水島上等兵のモデルが死去した旨の記事があった。私は映画を2回も見た。1回目は1956年ごろの白黒映画、2回目は1985年ごろのカラー映画。もちろん私がビルキチになる前である。不覚にも今日までモデルが実在していたとは知らなかった。モデルの主は群馬県出身の僧侶中村一雄氏で享年92歳。彼はインパール作戦に参加し、終戦後イギリス軍の捕虜となって収容所生活を送ったが、その同僚の中にオーケストラの楽団員がいて、「埴生の宿」などを合唱して捕虜たちの心を慰めるとともに、死者の供養も行っていた。たまたま小説を書いた竹山道雄氏の教え子が同じ隊に所属していた縁で、中村さんとコーラス隊のことを竹山さんに伝えたことから、同小説の主人公のモデルになったとされる。数日前まで撃ち合っていた両国の兵士が「埴生の宿」を歌う画面は忘れられない。

2008年12月19日金曜日

(222)3年後に「外国人住民票」

(2008年12月19日)
  今朝の朝日によると、外国人の在留管理制度の見直しを検討してきた総務、法務両省が、このたび「外国人住民票」を創設する案をまとめたと報道。両省は来年の国会に関連法案を提出し、3年程度で実施する方針のようだ。この外国人住民票は、適法に在留する外国人が対象で、氏名、生年月日、住所、国籍、在留資格、在留期間などを記す。なお在留期間が修正された場合は法相が各市町村に通知する。転居や証明書の発行も日本人と同じ手続きでできるよう簡素化され、外国人を含む世帯は、全員の住民票記載事項証明書を発行できる。登録した住所と実際の住所が違う外国人が多いので、市町村長が実態調査などで住所を確認し、職権で住民票の内容を修正、削除できるようにする。合法的に在留する外国人は便利になるが、不法残留の外国人はこの住民票は入手できず、生活が厳しくなるであろう。

2008年12月18日木曜日

(221)3人いて 椅子二つ

(2008年12月18日)
きのう入管に行き一階の待合室で待っていると、しばらくして知人のビルマ人女性がやってきて、2人のビルマ人男性に面会したいという。彼女は初めての面会だったので、要領が分からず、結局二人で面会することになった。収容中の男性2人と女性6人に対して3回に分けて2人、3人、3人の組み合わせで申し込んだ。いざ面会する段となり部屋番号を見るとなんと2人部屋、収容されている人が2人しか座れない面会室なのだ。結局、3人のうち一人は気の毒にも立ったままでの面会となった。品川入管の面会室は20部屋あり、3人以上座れる部屋はそのうち3箇所、いままではその部屋を選んでくれたので、気持ちよく面会できていた。今回の担当者は、この要領を知らなかったのではなかろうか。帰途、4階の総務課に立ち寄り、以上の内容を説明して善処を求めた。来週以降3人部屋で面会できるかどうか楽しみだ。

2008年12月17日水曜日

(220)恐ろしい一覧表だった

(2008年12月17日)
  いま私は「モウタウチェ」誌12月号を見ている。私は辛うじてビルマ語文字は読めるが、恥ずかしいけど文章はお手上げだ。頁をめくっていくと4頁にわたる一覧表が目に入った。人の名前があって数字が書いてある。ビルマの雑誌には、よく寄付してくれた人の名前と金額が書いてあるのだが、それは次の頁にあるし、どう見てもそれとは違う。何か分かる言葉はないかと探しているうちに、「シェーネー」が4人並んでいた。「弁護士」だ。さらに人名を見ていくうちに「ミンコーナイン」「コーコージー」の名前が読めた。そうだ、これは本年11月に軍政による不法裁判で、刑罰を受けた民主化活動家138名の一覧表なのだ。刑期の長い人は65年、弁護しようとした弁護士までが、法廷侮辱罪で投獄、なんとも恐ろしい表だったのだ。昨年秋の平和的なデモ行進の裁判の結果だ。民主主義、人権のかけらも見えない不当裁判だ。

2008年12月16日火曜日

(219)難民申請 ビザあるうちに

(2008年12月16日)
  最近日本に来るビルマ人が多いように感じる。そして難民申請するビルマ人も多く、一説によるとビルマ人だけで今年は1500人以上といわれてる。入国の際は観光ビザなど3ヶ月の短期ビザが主流だが、3ヶ月以内に難民申請すると、すぐ「就労不可」の特定活動ビザが出る。「就労不可」の特定活動とはまことに妙な言葉だが、まあいいとしよう。いままでの例では、6ヶ月以内に今度は「就労可」の特定活動ビザが出る。ここでパチンコ店などの遊興施設を除く仕事は働いてOK。いずれも本人の難民としての意思が必要。一方難民申請の方の審査が進み、難民または在留特別許可、特定活動(1年)が出れば晴れて定住ビザに切り替わる。もし難民申請の結果がダメなときは1-2ヶ月入管に収容されるかもしれないので、難民申請書の書き方に配慮が必要。「自分のこと」、「迫害を受けた」、この二つがキーワードだ。

2008年12月15日月曜日

(218)爺さん また載っちゃった 

(2008年12月15日)
  私は傘寿、紛れもなく爺さんだ。この爺さんの顔が、「MOE THAUK KYE JOURNAL」の12月号に3枚も掲載されてしまった。平生私の顔はハンサムで若々しいと自画自賛していたのだが、写真に撮られると、そんなことは幻想だったことがよく分かった。一枚目の写真は私の80歳の誕生日に、牛久入管で1年間毎週面会していた女性たちに囲まれて、バースーデイケーキの蝋燭の灯を吹き消す寸前の顔、ほっぺたを膨らましている顔は可愛い80歳の顔だ。次の顔は、同じく美女達に囲まれてほんの少し鼻の下を伸ばして笑っている写真、どう見ても老人だ。3枚目の写真は、ウーシュエバ(田辺寿夫氏)と並んでビルマ人たちからのテッチープーゾーボエ(年寄りに感謝する儀式)の礼拝を受けている写真、さすがこの写真の場合は緊張した顔であった。ビルマの方々から感謝され祝福されることは実に嬉しい。

2008年12月14日日曜日

(217)出来上がった 会報27号

(2008年12月14日)
  「みんがらネットワーク27号」が今朝我が家に送られてきた。昨日教室の有志が皆で製本したものであり、手に取ると温か味を感じた。この雑誌の特長の一つに表紙のすばらしさがあり、今回は大きな花束を抱いている可愛い少女の写真が後藤さんから提供されている。また今号で目立つのがビルマ語の多いことで、これはAさんの努力によるところが多い。そして何よりも感服するのが、日本人とビルマ人からの原稿集めから始まった上手な編集で、これは鈴木編集長の手腕とご努力によるもの。この雑誌は、おそらくビルマ関連団体から出ている雑誌の中では、日本一の内容だろう。私が「日本とミャンマーを結ぶ小さなかけ橋」を目指して、98年6月に第1号を出してから今日までの11年間、よくも続いたものだ。これも鈴木編集長はじめ参加各位のご尽力によるところが多い。私が去っても「かけ橋」は続きますように。

2008年12月13日土曜日

(216)2人の赤ちゃんを助けて!

(2008年12月13日)
  昨日品川入管に行ったとき、控え室でいろんなビルマ人と話し合った。Aさんは4ヶ月の赤ちゃんをあやしながら、RHQからの支援再開を心から喜んでいた。実は彼女がRHQに申し込んだその日に支援がストップしたのだ。父親は品川入管に収容中で誰も働くことができず、収入ゼロの状態。命綱であったRHQ支援が再開されたので、本当に喜んでいた。このような話をしていたら、ビルマ人のB君が提出書類の書き方を教えてくれと頼みに来た。いろいろ教えているうちに、彼の赤ちゃんは2ヶ月、病気で入院療養中で、いろんな人から借金してすでに百万円は支払ったと言う。RHQのことは知らなかったようだが、Aさんが教えていた。たまたま昨日の朝日夕刊には「難民支援、パンク状態 申請急増、外務省予想超す」「予算払底、支給一時止まる」とあった。外務省はぜひ支援を続けてほしい。赤ちゃんを救うためにも。

2008年12月12日金曜日

(215)充実感のあった金曜日

(2008年12月12日)
  今日は金曜日、私の活動は主に日曜日と水曜日なので、金曜日は私が一番ホッとする曜日。そろそろ年賀状の準備でも始めようかなと思っていたら、10時ごろBRSAの友人から電話が入った。内容は、パスポートも外国人登録証も持っていないビルマ人が、難民申請をしたいが、収容されないかというもの。パスポートは会社に置いたまま辞めたので所有してないという。念のため知人の行政書士に聞いた上で、品川入管で会うことにした。そこには別件で来ていた熊切副会長の顔もあり、皆で難民申請部署に顔を出し、入管当局の意見を聞くことにした。結局、行政書士のいうとおり、外国人登録証が必要で、パスポートは喪失した理由書を書けばよいとのこと、住居は北区なので、月曜日に熊切副会長らが北区役所に行き申請し、同時に彼が働いていた会社にパスポートの返却を求めるとのこと。うまくいくことを祈る。

2008年12月11日木曜日

(214)この活動に 我々も注目

(2008年12月11日)
  いま私は「国際人流」の259号を読んでいる。この雑誌は入管協会から発行されており、私はこの5・6年毎月愛読している。その中の特集「もったいない 食材に生命を吹き込む」という記事が目に飛び込んできた。セカンドハーベストジャパンの活動に関する創設者チャールズ・マクジルトンさんへの取材記事だ。ホームレスの自立支援をきっかけに平成14年に設立され、その活動ふりはテレビなどで数多く紹介されていた。RHQによる困窮難民支援打ち切り(年内?)のニュースが我々難民支援者にショックを与え、今後の進め方を話しているうちに飛び出したのがこのセカンドハーベストジャパンの活動。実はJARやCTICなどの支援団体ルートで、すでに何人かの難民申請中の困窮ビルマ人がこの恩恵を受け取っており、みな大変感謝している。私たちのBRSAもこの団体の「第2の収穫」活動に注目する価値があろう。

2008年12月10日水曜日

(213)またまた嬉しいこと

(2008年12月10日)
  今日は水曜日、だいたい水曜日は嬉しい日だ。私は12時に品川入管を訪問したが、面会のほうは同行したビルマ女性にお願いして、私は6階の仮放免担当の部屋へ直行。そこで私が保証人をしているビルマ人女性の仮放免について話すと、すぐに4階の会計の部屋に行くように指示された。そこで田町の三菱東京UFJ銀行の中の日本銀行窓口まで行くように指示され、タクシーを走らせて保証金30万円を支払った後とんぼ返りで入管へ。待つこと1時間20分、やっとお目当てのビルマ人女性に会うことができた。彼女は8月14日入所であるから、ほぼ4ヶ月近く収容されていたことになる。夏服姿で入所したのに今や12月、夕方の街中はクリスマスツリーの飾りが輝いていた。彼女はこの4ヶ月で何を失い、何を得たのであろうか。これからはこの日本でしっかり生きてもらいたい。奇しくも今日は彼女の誕生日であった。

2008年12月9日火曜日

(212)見当たらない 中国の名

(2008年12月9日)
  インターネット情報によると、アジア・太平洋地域の国会議員240名以上がビルマの民主化を求め国連事務総長宛て書簡を送り、日本からも国会議員30名が賛同したとのこと。その内容は、「年内にすべての政治囚を解放するよう軍政に働きかけること」を事務総長に要請するもの。日本、韓国、カンボジア、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、シンガポールが参加している。国を超えてこれほど多くの国会議員の賛同はおそらく史上初と思われている。日本からの賛同議員の氏名も明記されている。一方、その前(12月3日)には、112人の元国家元首(50カ国以上)が国連事務総長宛に同様な要請文を出している。日本の小泉元首相、ブレア元英首相、カーター元米大統領、ゴルバチョフ元ソ連大統領、金大中元韓国大統領、アキノ元フィリピン大統領など。問題は賛同してない国の名だ。中国の名はどこに?

2008年12月8日月曜日

(211)続 難民キャンプ潜入記

(2008年12月8日)

  昨日に続いて「ミャンマー難民キャンプ潜入記」を読み出した。私はタイ国境にある難民キャンプは、メソットの近くにあるものと思っていたが、結構広範囲に分散していて、9箇所もあることを知った。ここに16万人ものビルマ難民が住み、その多くがカレン人だという。著者は、ミャンマーを知るには、アウンサンスーチー女史対軍事政権の構図だけみていても分からない、なぜならば両者ともビルマ族であり、それは多数派の中の勢力争いに過ぎず、虐げられている少数民族への視線が必要であるという。現地難民の実態は飼い殺し状態であるが、彼らは自己主張をあまりしない民族だから大きな問題に発展していないとの見方。カレンの成り立ち、ビルマ族対カレン族の怨念の歴史など教わる所が多い。本書は単なる旅行記ではなく、軍政から抑圧され、難民になってる少数民族カレン人の悲痛な叫びを取上げている。

2008年12月7日日曜日

(210)難民キャンプ潜入記

(2008年12月7日)

  ミャンマー関連の新しい書籍が発売された。題名は「ミャンマー難民キャンプ潜入記」。吉岡逸夫書 解説熊切拓 発行:出版メディアパル 発売:高陵社書店 1260円。 熊切拓氏はご存知BRSAの副会長であり、また、ビルマ少数民族問題の第一人者であり、ときどき新聞にも登場している。今日 BRSAの会合で、この本を直接熊切氏からいただいた。吉岡氏の書かれた本文はとても興味を引かれるけれど後回しにして、私は最初に熊切さんの書かれた解説「ビルマ少数民族と民主化運動」のほうから読み始めた。20頁ほどの小論文で、一気に読むことができた。同氏は、ビルマ民主化を達成するには各州の民族自治権を強化する「真の連邦制」の実現が必要と論じている。私もかねてから同じような考えを持っていたが、疑問もあった。しかし今回の熊切氏の解説を読んで、胸につかえていたものが大方解消した。

2008年12月6日土曜日

(209)この寒空に 生きられるのか

(2008年12月6日)
  この一両日、RHQ(アジア福祉教育財団難民事業本部)からの難民申請中の困窮者への生活費支給がストップする事態が勃発し、この問題でBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)は共同通信社の取材を受け、熊切副会長が対応した。それほど大きな問題なのだ。我々は難民困窮者に対して一時的に救済の手を差し伸べ、さらに必要ならばRHQなどに引き継いでもらうことにしていた。RHQでは一人当たり8万5千円の生活費、住居費を4ヶ月間支給していたのだが、肝心のRHQが受給予定者数を読み違え、7800万円あった予算を使い切ってしまったのだ。明確な受給者数は分からないが、05年に138人だったのが、08年はすでに230人程度に急増したという。しかし単に数字の読み違いではすまされない深刻な問題なのだ。この寒空に難民申請中のビルマ人困窮者はどうやって生きていけばよいのか。

2008年12月5日金曜日

(208)がんばれ RHQ

(2008年12月5日)
  昨日に引き続き、難民申請中の困窮者への生活支援をストップしている難民事業本部(RHQ}に電話してみた。その結果、未だ外務省からの回答はなく、外務省の向こうで財務省が係わっているらしいとのこと。しかし、RHQとしてもこのまま問題を保留することもできないので、独自に支援策を検討し、すでに申請のあった人には今日から支援を再開する。しかし、新たに申請する人には申し訳ないが待ってもらうことにした。ただし外務省からいい回答がもらえるか否かは疑問で、RHQとしても現在全力で折衝しているとのこと。日本は長い間「難民鎖国」と揶揄され、やっとこれから微かな光が見えてきたというときにこの情報。外務省の見解の中に、難民申請者の急増があげられているが、昨年秋、ビルマにおける僧侶らのデモ行進に対する軍事政権の暴挙があり、難民申請者の急増は予想できていたと思うのだが。

2008年12月4日木曜日

(207)難民申請者の生活保護は

(2008年12月4日)
  昨晩熊切氏(BRSA副会長)から連絡があり、難民事業本部(RHQ)からの生活保護のための支援金支払い業務がストップとのこと。難民事業本部は、難民申請中の生活困窮者に支援金などを提供して頂き、我々周辺のビルマ人難民申請者もずいぶん助かっており、常々すばらしい制度と感謝していた。今回、同本部が予算を外務省に提出した所、保留との回答を得たようだ。そこで私も外務省(03-3580-3311)の人権人道課に聞いてみた。その結果、本年難民申請者が急増しており、予算的に調整が困難な状況であり、結論はしばらく待ってほしいとのこと。昨日も私はビルマ人無職女性と生活費が困窮している話を聞いたばかり。そもそも難民申請中は就労不可という法務省の人道無視の政策と関連している。政府は就労禁止、生活支援金保留という劣悪な政策ではなく、難民を心から温かく迎えてほしい。

2008年12月3日水曜日

(206)タイ騒乱とビルマの民主化

(2008年12月3日)
  最近、タイの政治が揺れに揺れ、とうとうタイ憲法裁判所がタクシン派のソムチャイ首相率いる最大与党など3つの党の解党と、各党幹部の公民権停止処分を命じたという。この結果、連日ニュースを賑わしていた反タクシン派勢力(PAD)による国際空港の占拠も終結した。しかし両派の対立は今後さらに深刻化し、タイは無政府状態の危機が続きそうだ。ASEANはEUを真似て、2015年にはASEAN共同体を実現する計画であり、今月バンコクでそのための首脳会議を開く予定だったが、今回の騒乱で結局来年に延期された。ASEANの優等生がこの状態であり、フィリピンやマレーシアも政情不安が続いている。私はビルマが将来民主化国家となり、世界最貧国から脱皮するには、ASEAN共同体の実現が大切であると思う。しかし、そのリーダーであるタイの政治がこの調子ではますます遠のくものと懸念する。

2008年12月2日火曜日

(205)どうなった 不法滞在半減策

(2008年12月2日)
  先日、法務省入国管理局から「不法滞在半減に向けてのお知らせ」というのが発表された。政府は2003年12月18日、外国人犯罪の温床ともいわれた不法滞在者を以後5年間で半減させると発表、「日本に来させない」「日本に入らせない」「日本に居させない」と言う三本柱の施策で進めてきたが、今年がその最後の年。当初約25万人であった不法滞在者を、08年1月現在で約17万4千人にまで減少させた。しかし残る所はあと一ヶ月、どうなるのであろう。入管は次の二つのお願いを出している。①外国人と関係ある人は、その外国人の在留資格や在留期間をチェックし、もし不法滞在の外国人が居たら入管に連絡するようアドバイスしてほしい、②不法滞在相談全国専用ダイヤル(0120-510-212)を利用してほしい、というもの。先週品川入管は面会者で溢れていた。このことと関係があるのかもしれない。

2008年12月1日月曜日

(204)協力しよう 牛久難民支援

(2008年12月1日)
  「牛久入管収容諸問題を考える会」の田中喜美子代表から「2008年活動報告会」の案内状が届いた。私が牛久入管と品川入管の面会活動を真剣に考え始めたのは、実はこの会に触発された点が多い。私は13年前からこの活動をひとりで続けてきたが、同会の活動の真剣さに圧倒され、多少心を入れ替えたのも事実である。その結果、私の心もずいぶん癒され、元気がどんどん増してきた。その案内状に最近の難民の状況が記載されていた。10月現在で難民申請者数1150人以上、8月末現在で認定者44名(うちビルマ人42名)、在留特別許可279名(うちビルマ人262名)。当然のことながらビルマ人が圧倒的に多い。同会では、個人1000円以上、団体3000円以上の支援金、あるいは、ノート、封筒、切手、ボールペン、タオル、手帳などの寄付も要望している。みんなで協力して難民(申請者)を支援しよう。

(203)晴れやか難民同士の結婚式

(2008年11月30日)
  今日、ビルマ人難民同士の結婚式が恵比寿のしゃれた宴会場で行なわれた。2時半の開始予定が3時15分と延び、ビルマ時間は健在だった。新郎は入管関係でいろいろ世話になった知人、新婦はミンガラ日本語教室の元生徒、すばらしいカップルであった。私はSTさんと一緒に招待されたが70人ぐらいの出席者の中で純日本人は4人か、私の席の隣には私が保証人をしている女性の叔母さん夫婦がいたので話が弾んだ。会場を見渡すといろんな所に知人がおり、なんかすごく嬉しかった。出席者数人からの祝詞が続いたが、そのあと突然に私に祝辞を述べよと指名され、そのときは正直の所めんくっらった。日本ではこんなルールはないよと思いながら簡単にスピーチ、得意のジョークも不発だった。しかし最後の新婦の挨拶はきれいな日本語であった。まあ出藍の誉れか。これからのお二人に「幸あれ」とお祈りします。