2011年10月31日月曜日

(1266)ビルマ今週のニュース(1134号)

  BURMAINFOからのニュースの抜粋。 ★ミャンマーで政党登録法の改正案が議会両院で承認された。大統領の承認を得て発効すれば、現在は法的には政党と認められていないNLD(国民民主連盟)が合法な政党として登録する道が開ける。NLDは来週の中央執行委員会の会議で決めるとしている。 ★ビルマ中央部で20日、豪雨により大きな被害が出ている。パコックでは22日、215人の死者を確認、行方不明者も多数いるため死者数は増える見込み。このほか数千人が僧院などに避難している。 ★日本政府は、洪水被害に対し1000万円相当の緊急援助物資の供与を決定。 ★ミッチェル米政府特別代表・政策調整官が24日ビルマを訪問、9月に続き二回目、外相や下院議長、スーチー氏らと会談。 ★インドネシアのマルティ外相が28日、民主化改革の進捗状況を調べるためにビルマに到着。 

2011年10月30日日曜日

(1265)ビルマ式「敬老」の集い

  今朝9時半より新宿区戸塚地域センター(高田馬場より2分)で、ビルマのよき習慣を東京でもということで、有志により盛大な「敬老会」が開催された。私は定刻10分前(9:20分)に到着したが、実際には10時にスタート、さすがビルマの習慣は維持されていた。数十人のビルマ人に囲まれ礼拝を受けた長老は8人、日本人は田辺氏(ウーシュエバ)と私の二人。こういうときには田辺さんがそばにいてくれると心強い。ビルマ僧侶の説教の後、全員が我々に対し読経、拝礼、しばらくして長寿者一同を代表して私に挨拶するようにとの司会の声、私は、例によって「笑顔」、「感謝」、「継続」、「青春」の文字を書いた紙を掲げて、私自身のモットーを説明した。終わると食事会、皆さん手作りのビルマ料理がふんだんに並び豪華そのもの、少食の私は全部食べきれず残念、しかしビルマ人からの好意は全部体に入れた。

2011年10月29日土曜日

(1264)ガーナ人の死、問われる入管

 昨日の朝日夕刊に「ガーナ人の死 問われる入管」、「強制送還での経緯 徐々に判明」、「バンド使用、違反か」との見出しのもと、昨年3月22日に成田空港から強制送還されようとしていたガーナ人の男性が、出発前の飛行機の中で亡くなった。この事件は当ブログの(661)、(713)でも報じた。その後1年7ヶ月たって、その状況が明らかになってきた。死亡したのはアブバカル・アウドゥ・スラジュさん(当時45歳)。手錠と縄で拘束されたスラジュさんは、複数の入国警備官が抱きかかえ、両足首にも手錠して機内に運び、最後列の座席に座らせた。プラスティック製の「結束バンド」4本を使って両手首とズボンのベルトを固定、口にタオルを猿ぐつわのようにして結んだ。そのまま首を押さえて前かがみにさせたところ死亡したという。訴訟の口頭弁論は31日、APFSは傍聴を勧誘。強制送還されたビルマ人も多い。

2011年10月28日金曜日

(1263)ヤンゴンでの日本語コンテスト

  久しぶりに「ミャンマー日本語教室ブログ」から。10月26日にヤンゴン市内のホテルで共立国際交流奨学財団主催の「第1回日本語体験コンテスト」が開催された。まず予選会で日本に関するクイズ。★今年世界遺産に登録された場所は、小笠原諸島・富士山・沖縄、★日本で一番食べられている果物は、みかん・バナナ・もも、★日本では男性は18歳から結婚してもいいが、女性は、20歳・18歳・16歳、★1590年に日本全国統一したさむらいの名前は、豊臣秀吉・徳川家康・織田信長、★AKB48の総選挙で一番に選ばれたのは、前田敦子・大島優子・柏木ゆき、さらには、足が棒になる、おなかがぺこぺこ、ねこの手も借りたい、の意味、この予選会に合格すると今度は本選会、例えば「ミャンマー人の長所」というテーマで3分間の日本語スピーチ、準備時間は15分、優秀な生徒5人が1週間の日本旅行だ。

2011年10月27日木曜日

(1262)読みました 「アラカンの墓標」

 「アラカンの墓標」、副題は「私のインパール作戦記」、著者は吉村秀雄氏(大正8年生)、1987年10月、葦書房発行、242頁、1500円+税。インパールは印度領にあり、援蒋ルートの拠点といわれ、日本軍は無理を承知でここを攻撃することを決めた。ビルマの各地方を占領した日本軍は、勢いに乗じてほぼ全部隊が北から南からインパール奪取を目指した。しかし制空権を米英軍に握られ、武器・食料の補給が圧倒的に少ない中、日本軍は無茶苦茶に前進し、インパール北部のコヒマまで一部が到達した。2ヶ月の戦闘のあと撤退、それからは圧倒的な英印軍の軍事力により敗退を続け、終戦を迎えた。本書でいうアラカン(山脈)は印度領であり、伝染病や食料不足のため痩せ衰えた兵隊は次々と倒れ、まさに地獄のような光景の連続であった。もしここに戦争賛美者がいたら、ぜひこの本を読んでいただきたい。

2011年10月26日水曜日

(1261)NAY MYO ZINを釈放して!

  彼のことは既に(1206)、(1208)でも紹介したが、2011年4月2日に電子通信法違反で逮捕され、その後8月26日に禁固10年の判決を受けた。罪状は知人に反政府的な情報をインターネットで送信したというもの。ここで問題なのは4月2日という日付、その3日前の3月30日にテインセイン大統領が就任し、新しい民政政権が発足したばかりなのだ。彼は新政権下で初めての政治囚なのだ。現在のミャンマーは反政府的な情報もインターネットで誰もが検索できる時代なのだ。もしいまであれば彼の逮捕はありえない。また彼は退役後、NLDグループの青年たちと献血運動を全国的に広めている最中であり、一方、サイクロン「ナルギス」の被災者救援活動にも力を尽くした青年である。このような好青年をなぜ禁固10年の刑に処するのか。昨日私は東京在住の実兄と共に専門家を訪問、彼は満足していた。

2011年10月25日火曜日

(1260)ビルマからの手紙⑩ (毎日新聞10月23日)

  「仏塔の都パガン 尽きない魅力」、「最大の財産は人」という見出しで、スーチーさんのビルマからの手紙は続く。今回はパガン近郊で生じたバイクタクシーの運転手による日本人女性殺害事件に触れ、深い哀悼の意を示した。次いで、パガン近郊のポゥパー山の伝説を紹介、スーチーさんの一行は山に登らずに裾野の国立公園を訪れた。ここには珍しいランやチョウが豊富で、あたりはひんやりしていて、壮大な火山と植物学者を恍惚とさせる緑の絶景を望むことができた。パガンは歴史、建築、芸術、自然美などを通じて多くのものを与えてくれるが、最大の財産は人だ。住民らは優しく礼儀正しく、人当たりがよい。この地のタラバの木陰にある「タラバ3」での食事は安く大変美味しい。パガン旅行の話はそろそろ終わりだが、この素晴らしい料理の話より良い終わりはあるだろうか。日本の皆さんパガンへどうぞ。

2011年10月24日月曜日

(1259)ビルマ政治囚の釈放いまだ不十分

  10月12日、アムネスティインターナショナルジャパンが発表した国際ニュースに、標記の話題が記載されていた。ビルマ政府は10月11日に少なくとも120人(後日の発表では220人)の政治囚を釈放した。このニュースを聞いたアムネスティは、「当局は直ちに残されたすべての良心の囚人たちを無条件に釈放しなければならない」と。2007年後半から、約2000人もの人々がビルマの政治的理由で投獄された。「今回釈放された政治囚の多くは、釈放後再び政治活動を続けるでしょう。彼らが再び刑務所に放り込まれることがないように」という。ビルマにおける刑務所の環境は、国際基準から程遠い。ブーティータウン刑務所は2.4M×3Mの独房で、食事、水、医療対策が不十分。アムネスティは「ビルマにおける深刻な国際法上の重大犯罪について、国際調査委員会の設置を要請し続けている」と結んだ。

2011年10月23日日曜日

(1258)ビルマ今週のニュース(1133号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★ビルマの人権状況に関する国連特別報告者のキンタナ氏が19日、国連総会第三委員会で報告。少数民族との武力紛争が続く地域で、強制労働や、超法規的処刑など深刻な人権侵害が起きている。また年末に予定される補選の実施までにすべての政治囚を解放することを呼びかけた。 ★ビルマに関する米政府代表ミッチェル氏は17日、国務省で「民主主義実現を目指すならば全政治囚の無条件釈放を」、「少数民族住民に対する人権侵害が続く限り、米国との関係が完全に正常化することはない」と。 ★ワナマウンルウィン外相が16年ぶりに20日来日、玄葉外相と会談、バルーチャウン水力発電所の補修工事と、人材開発センター建設に、調査団を派遣する意向。 ★IMF技術チームがビルマに到着。 ★ミッソンダム現場で作業続行中国側指示の可能性も。

2011年10月22日土曜日

(1257)日緬外相会談 ODA再開を表明

  10月22日の朝日新聞から。玄葉外相はミャンマーのワナ・マウン・ルウィン外相と都内で会談、玄葉外相は、民主化を支援するとして、ODAの再開など協力強化を表明、欧米諸国に先駆けて、野田政権はミャンマー支援を鮮明にした。ミャンマー外相の公式訪問は16年ぶり。日本は「民政移管」で新政権が発足した3月以降に支援の体制を強め、中国とミャンマーの関係が深まるなかで、親日国だったミャンマーとの関係を再構築する狙いもある。ODAではバルーチャン第2水力発電所など2件の援助再開のほか、新規案件の検討でも合意した。ただ、新政権の民主化への取り組みは評価が定まっておらず、特に政治犯の恩赦が少な過ぎるとの声が拡大してる。ミャンマー外相は、引き続き適切な時期に恩赦を続けることを表明した(以上概要)。人間関係と同じように国と国が仲良くなる方向はいいこと思うが。

(1256)日本はやはり難民鎖国なのか

 10月19日の読売新聞の論点欄に滝沢三郎氏(元国連難民高等弁務官事務所駐日代表)の「ミャンマーから受け入れ 難民自立へ受け皿必要」とのタイトルで、投稿記事が掲載されていた。その内容は、難民の自立が難しい現況とその原因をいろいろな観点から分析し、今後日本政府が進むべき方向を示唆している。例えば、受け入れ対象者の厳密化、日本語教育、職業訓練の不備、外務省から難民事業本部だけへの業務の丸投げ、地域住民と自治体の関与が蚊帳の外であること、そして情報を流さず外部との接触を遮断していることなどを指摘。同氏はこれらの反省に立って今後の方向付けを提言している。その上で同氏は、「日本は数十人の難民も受け入れない国」という国際的なイメージが傷つく、としている(以上概要)。私は同氏の見解に全面的に賛同する。関係者はこの問題をうやむやにしないように。

2011年10月20日木曜日

(1255)国連難民高等弁務官事務所への要請

  西日本各地のNGO4団体が参加している「公正・的確な難民審査を求めるNGO s」というグループが10月15日、国連難民高等弁務官事務所のヨハン・セルス駐日代表に「難民審査に関するUNHCRの法務省への速やかな改善要請」を依頼した。その内容は、①難民審査参与員制度に重大な支障があること、②法務省入国管理局が難民申請の立証基準は民事訴訟の立証基準によると断言していること、この2点である。①については、難民申請の1次審査は半年以内に処理(本年7月~9月の処理期間は4.7ヶ月)されたというが、そのしわ寄せが異議申立に来ている。この点については私もブログ(1159)で取り上げた。②については、UNHCRは「申請者には灰色の利益」との姿勢だが、実際にはほど遠い状況だ。この点も私は「アリンヤウン誌37号」で触れた。UNHCRの適切なる措置を期待する。

2011年10月19日水曜日

(1254)読みました 「12のルビー」

  副題は「ビルマ女性作家選」、編者はマウン・ターヤ(1931年生、1953年投獄、ビルマ文学界の実力派作家の一人)、訳者:土橋泰子(東京外大ビルマ語科講師)、南田みどり(大阪外大ビルマ語科助教授)、堀田桂子(大阪外大ビルマ語科講師)(肩書きは発行当時)、1989年11月、段々社発行、294頁、定価1700円。軍事政権下という厳しい社会状況の中で、ミャンマー人庶民のたくましい生活ぶりを描き出す12人の作家による12編が並ぶ。1974年から85年の作品だが、いずれもどこにでもあるような家族関係や恋愛関係をしっかりした筆致で描いており、読んでいて時に目が潤む。そして、日本の大正、昭和初期の暮らしを思い浮かべてしまう。ミャンマーの女性作家たちの精神はしなやかに強靭で、読者に希望を与えてくれる。同時に翻訳者もそうそうたるメンバーであり、いずれもすらすら読める。

2011年10月18日火曜日

(1253)「ここがちょっとヘンだよ 難民問題」

  先ほど「アリンヤウン」誌37号が郵送されてきた。同誌は「ビルマ市民フォーラム」(PFB)の機関誌で、アリンヤウンとはビルマ語で「光」を意味する。同会には渡邉彰悟弁護士や根本敬教授、ウーシュエバなど、ビルマ関係の錚々たる知識人が多数揃っている。この機関誌についてはすでに(1160)で紹介した。今回の37号には、実は、私が寄稿した小論文「ここがちょっとヘンだよ 難民問題」が掲載されている。内容は第三国定住プログラムで来日したビルマ難民が日本になじめない問題、法務省が難民認定審査期間が短縮されたというがその疑問点、民主党は難民認定行政を新機関でと主張するがその現実などを取り上げた。関心のある方はご一読いただければと思う。私がこの号で感動したのはウシュエバの「木村妙子さんのこと」。私も十数年前から存じ上げていた方なので悲しい。ご冥福をお祈りする。

2011年10月17日月曜日

(1252)サヤガドーボエに出席しました

  昨日の日曜日、私はミンガラ日本語教室のサヤガドーボエ(先生に感謝する仏教儀式)に参加した。教室は秋葉原駅から徒歩3分、1年前までは毎週通っていたところだ。11時開会というのに、なぜか遅刻気味、ちょうど11時に到着、先生方十数人、生徒50人ぐらいが集まり、先生に向かって皆が合掌礼拝、ことしで10回目の儀式であるが、いつも緊張する瞬間だ。その後、先生方全員から教育的な言葉が話され、それを受けて生徒のほうから感謝の一言があった。私は例によって「感謝」、「笑顔」、「継続」をしゃべった。儀式終了後は、一転して賑やかな会食の時間、生徒がそれぞれ持ち寄った料理やデザートで腹づつみを打った。その間、私のもう一つの例会予定を会員2人と相談した。私の体調から、今回が最後のサヤガドーボエかなと思っていたが、皆さんと出会ったらあと1回ぐらいは大丈夫かなと思うよ。

2011年10月16日日曜日

(1251)ビルマ今週のニュース(1132号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★ビルマ政府は12日、恩赦により約6300人の受刑者を釈放、約2000人いるとされる政治囚のうち、コメディアンのザーガナー氏ら約220人が解放された。2007年9月の民主化要求デモを指揮した全ビルマ僧侶連盟(ABMA)のガンビラ氏や「88世代学生グループ」を率いるミンコーナイン氏、コーコージー氏らの著名な活動家は解放されず。NLDなどの民主化運動団体は不満を表明。 ★テインセイン大統領は、12日からインドを訪問、またミッソンダム建設凍結について、ワナ・マウン・ルウィン外相は大統領特使として訪中、習近平国家副主席らと会談、適切に解決することで合意。 ★連邦選挙管理委員会が5日、政党登録法の修正案を上院に提出、もし可決されればNLD(国民民主連盟)が登録手続きを行い合法政党となることが理論上可能となる(以上概要)。

2011年10月15日土曜日

(1250)ミャンマー民主化の大きなうねりが

  今朝の朝日には、ミャンマー関係がいろいろ記載されていた。先日ミャンマー新政府が発表した恩赦該当者は6359人、このうち政治犯は14日の時点で220人、有名人はザガナル氏のみ。スーチー氏は引き続き全員の釈放を求めている。ヤンゴンの外交筋は、第2、第3の恩赦を考えているとみる。日本の玄葉外相は、ワナ・マウン・ルウィン外相と21日に東京で会談する。会談では、人的交流、ODA、経済関係、文化交流について協力強化を打ち出す。ODAではバルーチャン第2水力発電所の補修や人材育成開発センターの再開を表明、一方、慎重論も強い。なお、インドのシン首相はテインセイン大統領とニューデリーで会い、天然ガスや石油の開発で協力を確認、中国をけん制してる(以上概要)。ミッソンダムの建設凍結問題で、中国側の反発は必至であり、ミャンマー民主化問題はいま大きく動き出している。

2011年10月14日金曜日

(1249)読みました 「ミャンマー東西南北・辺境の旅」

  著者は伊藤京子氏(米国ジョージア州短大卒、ご主人はミャンマー人で、ミャンマーに1年半滞在。フリーライター・フリーカメラマンとして活躍中)、2002年11月、株式会社メコン発行、158頁、定価1500円+税。この書籍は一種のミャンマーの旅行案内書であり、南部ミャンマーとしてはヤンゴン、モーラミャイン、他9ヶ所、東部ミャンマーでは、インレー、タウンジー、チャイントン他2ヶ所、中部ミャンマーではマンダレー、バガン他9ヶ所、北部ミャンマーでは、ミッチーナ他1ヶ所、そして西部ミャンマーでは、ガパリ他1ヶ所を紹介。すべて著者が実際に訪問したところであり、アクセス方法、ホテル、レストラン、近辺の名所等を綺麗な文章で丹念に記している。そして、各訪問先で著者が撮った豊富な写真や、6つのコラムも読者を楽しませてくれる。これからミャンマー旅行を予定している方々には、必見の書籍であろう。

2011年10月13日木曜日

(1248)政治犯の釈放開始

  昨日に引き続き、今日(10月13日)の朝日新聞に、標記の見出しとともに、コメディアンのザガナル氏の喜び溢れる笑顔が掲載されていた。記事によると、恩赦を受ける受刑者は6359人で、この中に政治囚が含まれている。NLD関係者は、約100人の政治囚が確認されたという。釈放者の名前などは公表されていないが、2008年に当時の軍事政権を批判したとして拘束された、人気コメディアンのザガナル氏も含まれていたという。同氏は釈放後「私の経験から言えば、ビルマが正しい方向に進んでいるとはまだ信じない」と述べ、政府への強い警戒感をにじませたという。なおスーチー氏は、「すべての政治犯が釈放されることを望む」と語った(以上概要)。私が個人的に心配している NAY MYO ZIN氏の名前が、この名簿の中にあるのかどうかまだはっきりしてないが、彼をぜひとも早期に釈放してもらいたい。

2011年10月12日水曜日

(1247)政治犯釈放へ 恩赦6300人に含める

  またまたミャンマーから大ニュースが飛び込んできた。今朝(10月12日)の朝日新聞1面と11面によれば、標記の見出しのほか、「釈放、制裁解除狙いか」、「ミャンマー国民和解も模索」と並んでいた。テインセイン大統領は、次から次へと新しい政策を発表して、世界を驚かしているが、ついに最後の切り札といわれる政治犯釈放を12日から実施することに踏み切った。人気コメディアンのザガナル氏や女性活動家スースーヌエイ氏も含まれるようだ。今回政治犯が多数含まれれば米国やEUへの強力なアピールになる。一方戦闘が続く少数民族の指導者らも投獄されており、釈放されれば国民和解という面でも前進しそうだ。スーチーさんは政府とも協力しつつ、欧米との間に立つ難しい立場だ。そのほか政府は労働組合の結成を認めた(以上概要)。先日国会風景で見た緑色の軍服を着た議員の顔が気になる。

2011年10月11日火曜日

(1246)ミッソンダムの工事凍結の流れ

  当ブログでは、ミッソンダムの工事について何回か取り上げた。(1197)8月11日、スーチー氏が「イラワジ・アピール」の中で、ミッソンダムについて社会・環境的悪影響の懸念を表明。(1228)9月1日、新国会議員5人が原告となり、ダム建設の正確な情報を求めて政府を告訴。(1233)9月12日、ウーゾーミン第一電力相が反論「この計画は絶対進める、環境調査には第三者であるBANCAに1億円支払い依頼しており3年は必要。我々は一銭も使わないで総発電量の10%の電力と、8%の商業税が入る」と。(1236)、テインセイン大統領は9月30日、ミッソンダムの工事を5年間凍結すると発表した。以上であるが、9月30日に、ビルマ河川ネットワークは、イラワジ川のすべての水力ダムについて、中国電力投資公司(CPI)による正式な工事中止を求める文書を提出。今度は中国の度量が問われる番だ。

2011年10月10日月曜日

(1245)社説:民主化を見極めたい

 10月10日の朝日社説だ。総選挙が昨年11月に行われ「民政移管」が宣言された。しかし国会議員の8割以上は軍人や軍出身者が占め、実質的には軍政だ。テインセイン大統領は、スーチー氏との面談、ミッソンダムの工事凍結、亡命活動家の帰国促進、外国人記者の国会取材を認めた。街にはスーチーさんの写真が掲載された新聞や雑誌が出回り、反政府団体のサイトが閲覧できるようになった。しかし政府・軍内部で改革派と守旧派の争いがあると推測されており、民主化が定着する保障はない。3年後のアセアン議長国が決まるまでのポーズだとの見方もある。変革が本物と認めるには、2千人の政治犯の釈放や、少数民族との対話も必要。日本政府は早速、人道部門に限っていた援助を人材育成などに広げ、日本企業の現地視察も始まった。改革を見極めながら、民主化を後押しする姿勢で臨みたい。

2011年10月9日日曜日

(1244)読みました 「マハボテ」

  「マハボテ」、副題は「神秘のビルマ曜日占い」。監修はジョンラック・アジャーン・ダラニー、著者は宇佐美百合子氏、1994年8月、成星出版発行。245頁、定価1000円。「マハボテ」とはビルマ語で「小さな鍵」という意味で、30年ほど前にタイのチェンマイにある寺院から一冊の古書が発見されたが、それが古代ビルマの占星術書「マハボテ」だった。著者は深層心理学と東洋哲学の研究を続け、92年にチェンマイでジョンラック・アジャーン・ダラニー師と出会い、この「マハボテ」の研究が始まった。ビルマ人はみな自分の誕生曜日を知っており、その曜日によって占うのだ。私は日曜日生まれなので恐る恐る日曜日の頁を覗いてみた。イヤー参った。参った。責任感が強い、行動力がある、善行を求めている、リーダー的な存在、弱い者を助ける・・・・ほとんど当たっているみたい。私の勘違いもあるけどさ。お薦めする。

2011年10月8日土曜日

(1243)ビルマからの手紙⑨

  スーチーさんは前回に続いて、バガン訪問の思い出を綴っていた。三番目に訪れたタッピンニュ寺院は、古代仏教建造物の中で最も高くそびえ、建物のバランスがよく、積み重なった露段がひときわ美しい。しかし、内部の壁画には石灰が上塗りされているだけで、文化的、歴史的な遺跡の保全としては、あまりにも嘆かわしい状況だ。小さな遺跡の多くは、いまだに修復されないまま放置されている。世界の文化遺産の一つとして、パガンの保全意識を高めねばならないとつくづく思う。助けを必要とするのは遺跡だけではない。車で一時間ほどのところに、インジンという木が密生するオアシスがあり、村民にとり一番大切なのは「水」。日本のNPO (ブリッジ・エーシア・ジャパン) が、かつてこの森の中に井戸を掘り村民の生活は楽になったが、みんなまだまだ貧しい暮らし、でもこの村民の中に大学を出た人も現れた。

2011年10月7日金曜日

(1242)入国者収容所等視察委員会の活動内容

  今まで知りたかった標記内容が、やっと報じられるようになった。5月25日の同委員会(東日本地区)から出された意見書に対する入管側の回答である。意見書と回答書は、札幌、仙台、東日本、東京、横浜、成田、羽田の7箇所から得られている。意見書は、①処遇担当職員の適正な配置等②開放処遇の検討、③収容者の不安への対策、④強制送還の際の危害の防止策、⑤診察所への不満の改善、⑥診断書の交付、⑦開放時間外の電話使用 ⑧収容者からの不服の申し出への対応、⑨面会時に乳幼児を抱ける方策、⑩運動場での安全性の確保、⑪歯科医師による診療、⑫その他。それぞれについて回答書もつけられており、改善されてるところもいくつか見られる。まあまあの成果とは思えるが、私が面会してみて最多の苦情は長期間収容の問題、これは人権問題であり、同時に①の解決策でもある。

2011年10月6日木曜日

(1241)ミャンマー経済の近況(10月3日:BS-1より)

  ミャンマーは23年ぶりの民政化であり、カメラは新首都ネピドーに入り、大統領府、国会議事堂、31の役所の整然とした広大な街を映し出した。一方ヤンゴンでは、スーチーさんの写真入の週刊誌が売られており、インターネットも反政府側のサイトが見られるようになった。ミャンマーの人件費は東南アジアで最も安く中国臨海部の約5分の1。政府はこれを利用して各国の視察団を呼び込んでおり、日本人視察団の一人はインスタントらーめんに興味を示していた。しかしビジネス基盤はすでに韓国、中国、タイに取られており、日本は出遅れ状態、民政化のいまこそ全力を出すチャンスだ。ミャンマーは疲弊した経済を立て直し、再来年のアセアン議長国も狙っている。鍵を握っているのがスーチーさん、いまは慎重に意味のある対話を続けたいという。政治囚2000人の釈放問題も残り、問題山積、まだこれからだ、と。

2011年10月5日水曜日

(1240)定住制度第1陣の夫婦会見に思う

  私は私なりにこの問題の根源を探ってみた。難民認定の所管は法務省であるが、今回の第三国定住の難民の所管は外務省。法務省は難民認定の条件の一つに反軍事政権の集会やデモに積極的に参加しているか否かがある。いわゆる「顔を売る」ことが必要だ。しかし、外務省官僚(外交官)は、海外に行けば日本国の代表であり時に尊厳と思える姿勢も必要なのだ。また、外交上秘密事項が多く、情報管理の大切さを理解している。今回の定住難民に対しても外務省は目立つことは一切してくれるなという姿勢で、厳しい緘口令を敷いて関係者を近づけない。今回直接担当したのは、外務省の外郭団体「難民事業本部」だ。外務省の尊厳かつ機密保持を得意とする性格は決して悪くないが、本件では負の面が出た感じ。ビルマ難民と同じ目線に立ち、彼らが自治体やNGO、在日カレン人たちと談笑する雰囲気を!

2011年10月4日火曜日

(1239)全難連から外務大臣宛の申入書

  第三国定住の第一陣2家族が、難民事業本部の定めたスケジュールを離脱した件で、全国難民弁護団連絡会議は、渡邉彰悟代表の名前で玄葉光一郎外務大臣宛に9月26日、A‐4判7頁に及ぶ申入書を提出。その概要は①訓練作業時間の契約不徹底、②2歳児の保育園通い(往復2時間)による疲労、③同じく2歳児の39度発熱時でも休むこと不可、④生活保護の申請不可、⑤難民事業本部の通訳以外との連絡不可、NGOも両家族との連絡不可、⑥7月1日に明日は4時半から訓練と言われ2日から訓練を断念、⑦5人家族の長男は夜間中学に通っていたが往復2時間半で断念。この後も記述は続くが省略。弁護団側は問題点として①訓練という名の労働、②困窮した生活、③他者との連絡遮断、④子どもの教育、⑤通訳の能力を取上げ、それぞれ提案し関係各機関との議論の場の設置を申入れた。

2011年10月3日月曜日

(1238)読みました 「ビルマの鳥の木」

   著者は多田富雄氏(東大医学部名誉教授、文化功労者)、平成10年6月 新潮社発行(新潮文庫)、269頁、438円+税。世界的な免疫学者である著者が、旅、学問、芸術、そして人々とのふれあいを通じて、「感動」を発見していく。香り高き38章に亘るエッセイ集で、本の題名になった「ビルマの鳥の木」はその中の13頁にわたる一つの章。おそらく著者の代表作を全体の題名にしたのであろう。著者は伝染病対策の研究協力でヤンゴンに来たが、宿舎のインヤーレークホテルの前に白い幹の大木があり、その奥には黒々とした森が広がっていた。毎日夕方5時を回ったころ、どこからともなくカラスのような黒い鳥の大群がこれらの木々止まり、30分も鳴いたかと思うと瞬間的に飛び去る。著者はこの現象を眺めながら、強烈な生命の営みに隠れている死についていろいろ考えた。面白くきれいなエッセイだ。

2011年10月2日日曜日

(1237)ビルマ今週のニュース(1131号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★ビルマ外相は27日国連総会で演説し「近い将来適切な時期に受刑者を釈放する」と述べ、経済制裁の解除を求めた。 ★シャン州北部で23日から国軍がカチン独立軍(KIA)に対し激しい攻撃を加え、数千人の住民が避難、中国が難民流入を恐れ、国境を閉鎖したとの情報も。 ★テインセイン大統領は30日、イラワディ川上流のミッソンダム建設を一時停止する提案を議会で読み上げた。 ★2007年に起きた「サフラン革命」の4周年を記念し、26日にヤンゴンで行進や集会があった。約200人の行進は途中で警察に止められた。 ★第三国定住制度によりタイ国境の難民キャンプから日本が受け入れるカレン民族4家族18人が29日成田に到着、今後半年間定住支援研修を東京で受ける。 ★日本政府はレアアースなどの鉱物資源をビルマと共同開発する方針。

2011年10月1日土曜日

(1236)ミッソンダム 工事凍結 改革アピール

  私はいま「みんがらネットワーク35号」の表紙を見つめている。後藤修身氏が12年前に撮影したカチン州ミッソン地区のエヤワディ川源流のきれいな風景である。同氏が懸念してるように、ここに大きな発電用ダムができ、この美しいミッソン地区はダム湖の底に沈んでしまう。しかもここで発電した電力の大部分は中国で使われてしまうという。私もこの懸念を、(1228)、(1233)で取り上げた。しかし、今朝(10月1日)の朝日新聞を見て、びっくりした。信じられないような見出しが目に飛び込んできた。「環境破壊、人権侵害批判のダム、ミャンマー工事凍結」。テインセイン大統領は、自分の任期の5年間は工事を凍結するよう指示したという。DVBは「大規模なデモが起こる可能性もあった。中国が作るダムにNOと言えることを国民に示したかったのだろう」と話す。ミャンマーの民主化はどこかの国より進んでるかも。