2011年5月31日火曜日

(1113)スリランカの難民問題②

 スリランカの紛争は80年代にインド政府が介入、タミル人勢力に武器を提供、87年にインド・スリランカ間に和平協定が結ばれ、インド平和維持軍が駐留したが、LTTEが武装闘争を展開、1989年にプレマダサ大統領が就任するとインドの影響力を避けるためLTTEと休戦、インド平和維持軍は撤退。その後勢力を回復したLTTEがスリランカの北部、東部で実質支配権を握り、政府軍と戦闘を再開、同時にスリランカ政府の複数の要人の暗殺に関与したといわれている。02年ノルウエーの仲介でスリランカ政府とLTTEの間に停戦協定が結ばれたが、08年にスリランカ政府はこの停戦協定から離脱し徹底的にLTTE軍を殲滅、9年5月にLTTE議長の死亡で内戦終結、この間多くの難民が生じ、特にタミル人はスリランカ政府から迫害を受けているという。私は20年ほど前スリランカ南部を訪問したが、懐かしい国だ。

2011年5月30日月曜日

(1112)スリランカの難民問題①

  昨年の国籍別難民申請者数はミャンマー342人、スリランカ171人、トルコ126人、ネパール109人、インド91人。ミャンマーの場合、軍事政権対民主化グループ、あるいはビルマ族対少数民族の対立の構図がよく理解できるが、スリランカの場合はどのような構図なのか。スリランカはインドの西にあり人口約2000万人、74%がシンハラ人(仏教徒)、17%がタミル人(ヒンドゥー教徒)で1950年以降この二つの民族の紛争が続き、83年の内戦勃発以降6万人を超す死者を出している。1948年にスリランカは独立を果たし、シンハラ民族の二つの政党が政権を担当したが、その一つのSLFP(スリランカ自由党)が左翼政党と手を結び、シンハラ民族主義を強く打ち出して軍隊、警察など全行政組織を独占した。しかし次第に経済が悪化し党内が分裂その間LTTE(タミル・イーラム解放の虎)が力をつけた(続く)。

2011年5月29日日曜日

(1111)新政権による特赦 この落差は

  きょうのブログの番号は(1111)番、ちょっと楽しい番号だ。私の誕生日は11月11日、他人から誕生日を訊かれたら「いちいち、いちいち訊かないで」と答えている。今年の誕生日は西暦で11年11月11日に迎えるので、もう一つ「いちいち」を加えなきゃあ。そして9月11日と3月11日も忘れられない日だ。さて閑話休題、一昨日のブログ内容と昨日のブログ内容の落差の大きさにびっくりした。一昨日、ビルマ新政府による特赦について「国連とアセアンは今回の特赦を人権状況改善のための真剣な措置と認めないことを明確にすべきだ」というヒューマンライツウオッチの主張に対し、昨日の日本外務省の発表は「国民和解に向けた前向きの動きとして評価する」と。日本政府は中国によるビルマへの経済進出を恐れているのかしら。時あたかも昨日は外務省前でビルマ新内閣発足に対する抗議行動が行われた。

2011年5月28日土曜日

(1110)ビルマ今週のニュース(1117号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★インセイン刑務所に収容されている政治囚のうち22人が、清潔な食事の提供など収容条件の改善を求めて22日にハンストを始めた。 ★26日テインセイン大統領が就任後初の公式訪問先の中国に到着。3日間滞在予定。 ★ビルマの人権状況に関する国連特別報告者キンタナ氏はタイでの8日間に及ぶ情報収集を終えて記者会見し、ビルマの少数民族居住地域で紛争が続き、軍事化に伴う深刻な人権侵害が広範に起きているにも係わらず政府は対処を怠っていると批判。 ★ビルマが16日に発表した減刑措置について、日本政府は20日、減刑により釈放された受刑者の中にNLD党員20数名を含む政治犯約50人が含まれているとされているとし、「国民和解に向けた前向きの動きとして評価する」という外務報道官談話を発表(以上概要)。最後の談話は問題だ。

2011年5月27日金曜日

(1109)ビルマ民政?政権の特赦は

  5月16日、テインセイン大統領が命令28/2011を発表し、全受刑者の特赦により、死刑を終身刑に減刑し、有期刑は刑期を1年短縮するとした。これに対しヒューマン・ライツ・ウオッチ(ニューヨーク)は、即日「ビルマ囚人の特赦は人権状況改善の公約を欺くジェスチャー、国連特使による全政治囚2100人の釈放要請には無反応」との声明を発表した。5月11日~13日にナンビア国連事務総長特別顧問(ビルマ担当)が新政権と話し合った際、「全政治囚の釈放が新政権の手ですぐ実施されなければならない」と強調したという。長期刑に服してる政治囚には、ザーガナー氏(喜劇俳優:35年の刑、サイクロン被害への軍事政権の対応の遅さを批判)、ミンコーナイン氏(元学生指導者、65年の刑)らがいる。国連とアセアンは、今回の特赦を人権状況改善のための真剣な措置と認めないことを明確にすべきだ。

2011年5月26日木曜日

(1108)懐かしかった 3年目の再会 

  不法滞在で入管に収容された外国人は、通常2週間前後で強制送還となるが、難民認定申請や、日本人との結婚を申請すれば通常数ヶ月の収容(審査)を経て在留を認められることがある。昨日会ったHさんは、08年12月に品川入管に入所、私は4回面会を続け、46日目に入管から結婚が認定され出所したビルマ人女性。ご主人は栃木県在住の日本人、これだけの関係だったが、お二人で私に再会したいという。もちろん私は喜んでお会いすることにした。私は品川入管総務課で2週前出した8項目の質問の回答がないことを確認した後、お二人と合流、いろいろ楽しく雑談、その際来月お二人がビルマに旅行することを知り、一緒に銀座にある「産経旅行」を訪問。ここは毎週入管前でパンフを配っている知人女性の職場で、私が前から気にかかっていた会社。各国の人が働く活気に溢れた中堅会社だった。

2011年5月25日水曜日

(1107)読みました 「難民キャンプの子どもたち」

  この本の著者は田沼武能氏(写真家、1995年日本写真家協会会長、03年文化功労者)、05年1月 岩波書店発行、新書版、196頁、1000円+税。題名を見たときにてっきりビルマ・タイ国境の難民キャンプの子供たちの写真集かなと思ったが、頁をめくっても「ビルマ」は出てこない、その代わり、第1部:パレスチナ、クルド、ユーゴ 第2部:インドシナ、アフガニスタン、第3部:ケニア、タンザニア、ニジェール、ソマリア、エチオピア、スーダン、ジンバブエ、モザンピーク、ルワンダ、コンゴ、ウガンダ、リベリアと続く。私の頭の中で難民とはビルマ難民という思い込みが強かったが、この本を読んで世界各地に難民がいる事を改めて知らされ、勉強になった。彼らの多くはまともな住居や食料がなく、やせ細った子供の鋭い眼差しが私を睨んでいた。現在難民は世界に2千万人以上いるといわれその半数が子供たちだ。 

2011年5月24日火曜日

(1106)読みました 「図書館への道」

  「図書館への道(ビルマ難民キャンプでの1095日)」という本を読んだ。著者は渡辺有理子、2006年1月、鈴木出版発行、1600円+税、271頁。著者は大学卒業後日本国際児童図書評議会事務局に勤め、退職後都内の私立小学校司書教諭、2000年9月からシャンテ国際ボランティア会の派遣により3年間で18館のビルマ難民キャンプの図書館建設及び人材養成に関わった記録である。彼女の仕事は図書館などなかったカレン人の難民キャンプで、現地リーダーたちとまずその設計図を描くことから始め、竹を使って建物を完成させた。図書は、あえてカレン語の図書を切り貼りで作成し、そのあと現地図書館員の養成に力を入れた。幼い児童を集めて、現地館員が母語で読み聞かせる方法も採用した。時に大きな挫折もあったがそれに耐え乗り越え、05年1月に再訪したとき図書館は22館に増えていた。

2011年5月23日月曜日

(1105)ビルマ今週のニュース(1116号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★国連のナンビア事務総長特別顧問が11日ビルマを訪問しビルマ外相やスーチー氏と会談、訪問後「テインセイン大統領が打ち出した改革案を歓迎するが、それらの実行が重要。訪問中すべての会合で全政治囚の釈放を行うべきであると強調した」と述べた。 ★ビルマ政府は5月16日、死刑を終身刑に減刑し、有期刑を1年短縮すると発表、14600人が釈放されたが、このうち政治囚は30-40人の模様。今も約2100人の政治囚が収容されている。 ★米国のユン国務副次官補が18日からビルマを訪問、外相やスーチー氏と会談、米政府は16日ビルマとの新規投資を禁止する制裁措置を1年延長した。 ★テインセイン大統領が26日から中国を公式訪問する。 ★イベント情報、27日15時~外務省前、29日9時~南大塚ホール、30日15時~ビルマ大使館前。

2011年5月22日日曜日

(1104)国連が指摘する 移住者の人権問題③

  ●被収容者の多くは様々な疾病に苦しんでおり、適切な治療を受けていない。●本国送還中のガーナ人が成田空港で死亡した事件は暴力による可能性を懸念する。●子どもを含む家族の収容、送還に問題がある。●日本は子ども最善の利益の原則を確保し、子どもの権利条約を見直すこと。●子ども移住者の教育の権利が認められ、法によって保証されること。また高校進学に関する特別準備プログラムなどを設置すること。●障害を持つ子ども移住者は、日本人の子どもと同程度の適切・適時の支援を受けること。●政府と自治体は外国人学校への財政的支援を増加すること。●日本は移住者が日本語を学習する機会を与える努力を増やすこと。●収容を限定するための明確な要件を設置すること(以上要約)。私はビルマ人への日本語教育や難民(申請者)支援活動を14年間続けているが、思い当たる点が多い。

2011年5月21日土曜日

(1103)国連が指摘する 移住者の人権問題②

  昨日に続き標記の内容を紹介する。なお、報告者はホルヘ・ブスタマンテ氏。●09年末日本にいる外国人は218万人(総人口の1.7%)、うち中国人が68万人、韓国・朝鮮人が57万人、ブラジル人26万人、フィリピン人21万人。人口に対する移住者数は米国13%、ドイツ13%、フランス10%、イタリア7%。●難民の認定について政府は非常に躊躇している(09年には僅か30人)、一方在特は501人。●在留資格に「ブルーカラー」として適法に働く可能性はない。●日本には特定期間居住した不正規移住者の正規化をしていない。●在特の申請は、退令手続き中のみすることができ、法務大臣は許可を与えることができるが透明性に欠ける。●何らかの理由で送還できない場合、無期限に収容できる。釈放されるか否か、いつ釈放されるか不知のまま長期収容されている。収容期間への制限設置が必要(続く)。

2011年5月20日金曜日

(1102)国連が指摘する 移住者の人権問題①

  全難連の資料によれば、日本における移住者の人権に関する報告(国連人権理事会)が本年3月に公開され、多くの問題点が指摘されている。その要約には「日本政府は日本社会への移住者の統合についての政策を持たず、むしろ政策は国境管理に焦点が当てられている。根強い人種差別と外国人嫌い、これらを禁ずる法令の欠如、労働分野における移住者の搾取、不正規移住者の収容と送還に関する厳しい政策、移住者の子どもが教育を受ける上での困難性、移住者の人権を尊重し、彼らの日本社会への統合を確保する包括的な移民政策の欠如など、日本政府に対しいくつかの勧告をする」とあった。さらに細目を見ると、日ごろ私が外国人(特に難民申請者)と接していて感じていることとあまりにも一致している。難民申請者の住む国は日本しかないのだから、この勧告にあるような日本社会を望んでる。

2011年5月19日木曜日

(1101)首都ネピドー近くで爆弾爆発

  今朝の毎日新聞や読売新聞は、ミャンマーの新首都ネピドー近くで、列車の屋根に仕掛けられた爆弾が爆発、乗客2人が死亡、9人が負傷したと報じた。政府当局者は、AFP通信社に対し、東部カイン州(旧カレン州)で反政府武装闘争を続ける少数民族勢力「カレン民族同盟(KNU)」の犯行との見方を示している。ビルマでは反政府武装勢力によると見られる爆発事件がたびたび起きているが、警備が厳重な首都近郊での発生は異例。ネピドーにはアメリカのユン国務次官補代理(東アジア、太平洋担当)が爆発当時ネピドーを訪問中だったが事件との関係は不明(以上概要)。一部報道ではネピドーでの爆発事件は初めてとあったが、2008年1月11日には駅トイレで1名死亡の爆弾爆発事件があった。いずれにせよ、一般市民を巻き添えにする悲惨な事件であり、民族間の怨念の恐ろしさをひしひしと感じる。

2011年5月18日水曜日

(1100)ビルマで1万4千人超恩赦

 テレビや共同通信によれば、 ビルマで全国の刑務所に服役する1万4600人以上の受刑者に恩赦が与えられ、17日から順次釈放が始まったという。テインセイン大統領が16日、国営テレビを通じて恩赦(死刑囚は無期懲役に、その他の服役者の刑期を1年短縮)を実施するとの声明を発表した。同国を先週訪問したナンビア国連特別顧問(ビルマ問題担当)が、新政府側と初めて協議し、2千人以上とされる政治犯の釈放を求めたことを受けた措置と見られる。人道的配慮を示すことで民主化に前向きな姿勢をアピールする狙いがありそうだ。ビルマでは1995年に2万人以上、2009年に7千人以上の恩赦が行われた。今回の釈放者のうち女性が2千人以上、インセイン刑務所からは2500人以上釈放、政治犯はごく一部の模様(以上概要)。私は政治犯の恩赦を望む旨書いてきたが今回は残念な結果であった。

2011年5月17日火曜日

(1099)読みました 「ビルマ敗残 陸軍海上輸送隊」

  「ビルマ敗残 陸軍海上輸送隊」、副題:もう一つのビルマ戦記、荏田良夫著、文芸社、2001年8月発行、1000円+税、252頁。著者は元ビルマ派遣海上輸送第三大隊陸軍少尉。私はこれまでもビルマ関連の戦記ものを多く読んできたが、陸軍にこんな部隊があることを全然知らなかった。既に敗戦の予兆があり、制空権、制海権を失った状況下でも、ビルマ海岸で多大の損害を受けながらも物資輸送を続けた様子がありありと描かれている。第1章:ビルマに初めての陸軍海上輸送隊、第2章:アラカン山脈西海岸へ、第3章:遠洋漁船が主体となる、第4章:悲しい撤退、第5章:総崩れ と続く。前半は慰安所風景など比較的のんびりした筆致であったが、後半は一転して、小銃と手榴弾だけの日本軍が、イギリス・印度軍の大型戦車群に蹂躙され全滅していく様子など、戦争の恐ろしさと愚かさをよく伝えている。

2011年5月16日月曜日

(1098)楽しかった 水かけ祭り

  きのうはビルマのお祭り「水かけ祭り」、五月晴れのもと日比谷公園で開催された。去年は4月11日に井の頭公園で開催されたが、会場まで歩く距離が長くへとへとになった記憶が・・・。今回はさらに足が弱くなっているので新橋からタクシーという邪道で。これで97年以降毎年顔を出していることになる。あと何年続けられるであろうか。当時の会場は飛鳥山公園で参加者にくじ引きで自動車が当たる豪華景品つきであった。今回の会場は始めてであったが、約20ものお店が並び、舞台では歌、音楽、踊り、ビルマ式漫才などで賑やか、例によっていろんな友人知人に会えて嬉しかった。私は主に「ミンガラ日本語教室」の店にいたが、2回各お店を覗いてみた。品川入管であった懐かしい顔も多い。しかし残念ながらBRSAの店は見当たらなかった。まだまだ会いたい人は多かったが、疲れたので私は2時ごろ帰途に。

2011年5月15日日曜日

(1097)ビルマ今週のニュース(1115号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★国連のナンビア特別顧問が11日からビルマ訪問、外相やスーチー氏と会談、新政府発足後初の訪問であり、人権団体などでは、ビルマ政府が自らの信用性を高めるために訪問を利用すると批判。 ★ビルマ政府が2014年にアセアン議長国になる意向を示したことについて、7・8日開かれたアセアン首脳会議では結論は出なかった。 ★在日ビルマ人約90人が1日、宮城県石巻市と多賀城市で泥かきや清掃、炊き出しを行った。またNDBは12日、集めた寄付金146万円を日赤に手渡した。 ★英国ビルマキャンペーン:国軍が停戦を破り北部シャン州で戦闘が続く。 ★カレン州人権グループ(KHRG):カレン州パプン地区で国軍とカレン民族武装勢力の戦闘で食料不足を指摘。 ★ビルマ民主の声(DVB):有罪判決を受けた映像記者(VJ)17人の解放を求めた。

2011年5月14日土曜日

(1096)ビルマ人の活動 菅総理は

   今野東議員(民主党)からのメールで、きょう(5月13日)1時からNHKで大震災関連の質問を国会でする旨の予告が入った。同氏はビルマ問題や難民問題でも見識のある宮城県選出の議員。国会討論では先日在日ビルマ難民で祖国の民主化運動に活躍している青年(アウンミャッウイン氏)が同氏を訪問し、亡命している国(日本)に感謝しなければと、同僚と集めた20万円を義捐金として戴いた。彼らの貧しい生活の中からの20万円の義捐金は心温まるものだ。その他多くのミャンマー難民がボランティアとして被災地を訪問し日本の復興に汗を流しており、菅総理はどう考えるかと質問。菅総理は、支援してくれた各国に御礼を申し上げる。在日ミャンマー人が厳しい生活の中、決して少ないとはいえないカンパを戴き、在日ミャンマー人の思いを忘れないで、お返しする機会があれば感謝の気持ちを伝えたいと。

(1095)ブログ復旧 またビルマ難民が活躍

  いやいや参ったなあ。グーグルのブログが二日間ストップしてしまったのだ。ログインができないので、新規の書き込みも、コメントへの返事もお手上げの状態、この「U MINGALARのつぶやき」を始めたのが2008年5月だから、ちょうど3年間、1000回以上連日発信し続けてきたが、今回初めて2日間の休業。グーグルは停止期間中お詫びの告示を出してはいたが、いつ回復するかの連絡はなく、イライラの連続。しっかりしてほしい。4月30日の毎日新聞には東北地方支援のボランティア活動の総括が出ていたが、その中にミョーミンスエさんら5人の在日難民の陸前高田市での活躍ぶりが報じられていた。同氏のことは既に(1041)でも取り上げたが、関西学院大学難民枠第1期生で先日卒業したばかり。ビルマ難民を支援している私にとって、このような記事が掲載されて多くの人に伝わることはとても嬉しい。

2011年5月12日木曜日

(1094)8つの質問 楽しみな回答

  きのうの水曜日は意を決して品川入管を訪問した。牛久入管に行く手もあったのだが、私の体調を考えるとどうしても決断ができず、とりあえず近間の品川入管を目指した。面会する相手がいないので、平生疑問に思っていた8つの事項を入管担当者に質問するのが目的だ。ぐるぐる回されるのを防ぐため、総務課を訪れ担当者に質問、途中から上司が顔を出し難民申請の担当部署に連絡したのでそちらに行くように言われた。総務課ではいつも担当部署まで同行してくれるサービスがあり、お役所らしからぬ行動が嬉しい。結局質問内容が多岐に分かれるので、総務課面本氏がまとめて数日後に答えるとのこと、ありがたいことだ。帰ろうとしたら、BRSAで活躍しているM君に会った。仮放免の支援に来たようだ。5月29日の BRSA総会の件で立ち話をして別れた。外は冷たい雨が降り続いており浜岡原発も中止に。

2011年5月11日水曜日

(1093)今私は迷っています

  きょうは水曜日、いつもだと颯爽(?)と品川入管に向かうのだが、今日はしょんぼり歩き出した。先々週の水曜日の夕方、最後の1人が牛久入管に移送されてしまったのだ。07年12月から続けていた品川詣では先週から途切れているのだ。幸い先週の水曜日はゴールデンウイークで入管はお休みだったので、訪問しなくてもあまり気にならなかったが、きょうはそうは行かない。たまたま連休前、入管側から私の書類が忘れ物として保管してあるとの電話を受けたので、それを受け取りにきょうは品川に行くことにした。それだけでは勿体ないので、入管関連の法律で分からない点がいっぱいあるので、質問してこようと思っている。品川入管にはビルマ人男性が何人か収容されているので、その人たちに面会する手もあるが、それより、牛久入管にビルマ人女性がいるので、むしろそちらに行きたい。でも体が不安・・・。

2011年5月10日火曜日

(1092)玉石混交 いろんな情報が

  BURMAINFO(ビルマ情報ネットワーク)やPFB(ビルマ市民フォーラム)、JLNR(全難連)などのニュースから引用。●4月に逮捕された国軍の元大佐が国民和解についての電子メールを送ろうとしていたことで起訴される(DVB)・・・私が一番気にしているニュース●元軍政トップのタンシュエ氏の影響力いまだに不明、表面上は平和的な政権交代。●ビルマ問題はアセアンが成熟した共同体になるのを妨げている(ジャカルタポスト紙)。●カレン州で国軍とカレン民族武装勢力とが交戦、約700人がタイ側に避難か(DVB)。●名古屋入管でのハンストの件5月2日に新聞に掲載され支援者の勧告を受けてハンスト中止、11日に支援団体が入管に申入を行う。●第20回水かけ祭り、5月15日10:30~17:00、日比谷公園小音楽堂。●「難民申請者のための歯科治療支援」講演会とコンサート5月28日、鶴見大学。

2011年5月9日月曜日

(1091)アセアン首脳会議

 今朝の朝日新聞によれば、 ジャカルタで開かれたアセアン首脳会議は8日、南シナ海問題や食料・エネルギーなど地域の諸課題や、米ロを加えて11月に開催する東アジアサミットなどについて討議し、2日間の日程を終了した。14年に議長国の前倒し就任を求めるビルマの提案は、7日までの議論で承認が内定していたが「民主化が国際的に注目の的となっている(記者会見でのユドヨノ大統領)ことを考慮。進展を確認してからでも遅くないといった議論が出され、決定は見送られた(以上概要)。この問題はこのブログ(1074)でも取り上げたが、今回の決定延期は妥当と思う。ビルマの新しいテインセイン大統領の腕の見せ所であり、民政政権を名乗る以上具体的な「民主的活動」を次の機会までに行うべきと考える。例えば2100人以上といわれる政治囚に大赦を与えてはいかがであろう。加盟各国も歓迎しよう。

2011年5月8日日曜日

(1090)ビルマ 最近の社会情勢

  ミャンマー日本語教室のブログ(5月4日)から抜粋。●第2工業省が製造販売する国産のチェリーワゴン車の正価は55万円だが、既にプレミアがつき100万円に。販売台数は200台だが3万人が応募。●1ドル830チャットまでチャット高が進行。●ガソリンの販売方法が、1日一回6~8ガロンから、1回で3~4日分を給油できるシステムに変更され、スタンドに並ぶ車の数が劇的に減少。●ビニール袋、レジ袋を製造している事業者に製造中止命令があったが、リサイクル可能なタイプは製造可。●日系縫製工場で従業員15人を不当解雇、総額40万円の補償金で合意。●ヤンゴン市内で小規模の停電、電気供給量は十分確保。●国内ガソリンが価格差のため国外に流出。●映画撮影日数が俳優の出演料高騰のため、1週間から3日に短縮。●水かけ祭のステージを民間テレビ局が勝手に中継したため出演料を請求。

2011年5月7日土曜日

(1089)ミャンマー難民石巻で「恩返し」 TBSでも放映

 (2011年5月7日) 
  5月1日に在日ビルマ難民約百名が車5台で石巻の被災地を訪れ、支援活動をしたことは既に(1084・85)でお知らせしたが、新たに5月4日のTBSのニュースでも活動振りが放映された。まだ水道やガスが使えない住宅街で炊き出しを行ったのは在日ビルマ難民100人、炊き出しの責任者はマオさん(46)で、3年前祖国ビルマで起こった大型サイクロンの際、自分たちは何もできないもどかしさがあったが、日本がいち早く支援に入ってくれたことがよほど嬉しかったようで、今回はそのお礼。前日から友人たちと一緒に食事の下ごしらえの準備に熱中、その壁にはBDAの旗が。画面が変わって、現地の建物に流れ込んだ土砂の除去作業、これは別のグループのようで、5時間かけて除去した土嚢は8トン、泥まみれの作業であった。マオさんたちは今後も被災地で「日本への恩返し」を続けて行きたいといっている。

2011年5月6日金曜日

(1088)読みました 「ビルマ戦線ピカピカ軍医メモ」②

  (2011年5月6日)
  昨日から続く。ビルマ領に入った狼兵団は列車でモールメンを経てペグー近くのチャウタンへ、ここが最初の目的地ですぐペグーにあった廃屋に狼第四j野戦病院を開設、そばに慰安所も作った。私は慰安所の詳細をこの本で始めて知った。ここはビルマ戦線の最後尾であり、前線から多くの傷病兵が送られてきた。軍医は歯科医や耳鼻科医を含め7人いたが設備は必要最小限のものであり、チフス、ペスト、コレラなどの伝染病患者が多く、手術も連日行われた。一方軍医は地元住民に対する宣撫工作も担当、街中の住民とも仲良くしていた。ビルマ住人は総じて親日的であり、片言の日本語を喋る人も多かったようだ。戦況が不利となり、ペグーを撤退、再びチャウンタウンへ。木村兵太郎司令官がモールメンに立ち去ったとき放置されたチャンドラボース氏一行と会う。日本が敗戦、日の丸を燃やす場面で終わる。

2011年5月5日木曜日

(1087)読みました 「ビルマ戦線ピカピカ軍医メモ」①

  (2011年5月5日)
  STさんから送っていただいた第2冊目「ビルマ戦線ピカピカ軍医メモ」を読み始めている。著者は三島四郎氏(大正9年生まれ、昭和18年岡山医大卒、同19年応召、見習士官としてビルマに赴任)、元就出版社、1998年発行、380頁、2381円+税。副題は「狼兵団地獄の戦場奮戦記」。著者に赤紙が来た日から軍医予備員、見習士官として日本の敗戦が濃厚になってきたときに門司港から出航、アメリカの潜水艦攻撃を避けながら、台湾の高雄、フィリピンルソン島のサルフェルナンド、さらにマニラ、ボルネオ、シンガポールに上陸、その後は、マレーシアを経てそのまま北上してビルマへ。制空権は完全に米軍に掌握され、また多数の潜水艦による魚雷攻撃で多くの輸送船が沈没したが、著者の狼兵団は辛うじてビルマ領に入った。著者の記憶が素晴らしい。ビルマ進入後の活躍については明日掲載する。

2011年5月4日水曜日

(1086)読みました 「父の戦地」

 (2011年5月4日)
  知人STさんから送られてきた会報の包みの中に2冊の単行本が入っていた。1冊は「父の戦地」で著者は北原亜以子氏、2008年7月、新潮社発行、222頁、1400円+税、著者は1938生まれ、97年に直木賞受賞。彼女の父親が召集令状でビルマに派遣されたが後方部隊に所属し、比較的余裕があったのか、小学校低学年の娘(著者)に数多くのイラスト入りの葉書を軍事郵便で送ってきた。絵の多くが当時のビルマ人の生活風景であり、実に上手にユーモラスに描かれている。文章はカタカナ(当時の小学校ではカタカナを先に教える)で、いるでしょう⇒ヰルデセウなどの古い文型が使われていた。戦時中の子どもの遊び、例えば、銭湯で桶に手拭いを被せて泡をぶくぶく立てたことや、B29による空襲の様子もよく描かれている。いずれも私にとって懐かしい思い出だ。他の一冊はやはりビルマ戦記ものだ。

2011年5月3日火曜日

(1085)ビルマ人95人が石巻で支援活動②

  (2011年5月3日)
  昨日は時事通信の記事を中心に書いたが、きょうは5月1日のテレ朝のニュースから。ビルマ人の支援者のうち一部が暖かいビルマ料理の提供を、他は被災工場内部の汚泥の撤去に活躍した。シャベルで取り除いて布製の袋に詰める作業は結構重労働のようだ。全員ヘルメットをかぶり、黙々と作業していた。ミャンマー人の一人が「日本は一人じゃない」とつぶやきながら涙ぐんでいたのが印象的(以上)。私は当初慣れないので現地の被災者の迷惑にならないか少し不安であったが、終わってみれば杞憂に過ぎなかった。確かに難民(申請者)と日本人はお互いに助け合わなければと思う。たまたま「みんがらネットワーク会報34号」を読んでいたら、ナルギスサイクロンで被災された方々に教室から義捐金を贈ったことがあったが、今回はその代表の方から東日本大震災に対し心温まるお見舞いの言葉を戴いた。

2011年5月2日月曜日

(1084)ビルマ人95人が石巻で支援活動①

  (2011年5月2日)
  Aさんからの情報で、ミャンマー人95人が500~600人分の食事提供と一日の清掃ボランティアとして石巻市に行き活躍、この様子が時事やTBS、テレビ朝日が取材したという。同時に活動状況のスチール写真が多数転送されてきた。これらの写真には、タンスエ氏、チョーチョーソー氏、熊沢氏などの顔のほか、ビルマ市民フォーラムの名前も見えた。早速5月1日の時事通信の記事をチェックした。それによると見出しは「難民ミャンマー人らが炊き出し・・・できることをしたい」。在日ミャンマー人で作る「ビルマ民主化ネットワーク(NDB)のメンバーが宮城県石巻市の駐車場で、被災者らにミャンマーの家庭料理を振舞った。参加した15人は大半が難民認定を受けたか申請中。メンバーの一人は、「難民認定を受け、今後も日本に住むことになるので、自分にできることをしたい」と。被災者からはおいしかったとの声が。

2011年5月1日日曜日

(1083)名古屋ハンストの中日新聞記事

 (2011年5月1日)
 昨日に引き続き、名古屋入管でのハンストの内容が中日新聞の記事で明らかになった。4月30日の記事によれば、ハンストについては名古屋入管も事実を認め、食事するように説得しているという。難民や外国人労働者を支援する民間団体「START・代表倉田さん)」によると、ハンストをしているのは不法滞在で収容されているミャンマー人男性Kさんらとパキスタン人など22人、Kさんはビルマ軍政に目をつけられ、3年半前に来日、難民申請が認められず、現在再申請を準備中。ストライキ参加者には半年以上収容されている人もおり、体調を崩し始めているという(以上)。これに関連して、岩田弁護士は、ハンスト参加者の1人にヘルニアの疑いがあり痛みを訴えているという。また、名古屋入管の収容者数は、東京入管に次ぐレベルであり、半年前から複数のボランティア団体の面会が多くなっているとのこと。