2008年6月30日月曜日

(50)もう50回、あと133回

(2008年6月30日)
  このブログがスタートしたとき、果たしていつまで続くのか不安がいっぱいだった。でも今日50回という節目の日を迎えることができた。普通ブログといえば、それこそ日記、自由にその日に感じたことを書けばよいし、何も連日書くこともない。でも私はちょっとした反逆精神で、絞ったテーマで、毎日、10行分を書くことに決めた。私の選んだテーマはビルマ問題、特に難民問題に焦点を当てた。しかしほんとうに毎日書くことができるのか不安。何を書くかはその日の朝考えることにした。思わぬテーマが忽然と頭をよぎることが多い。今日のテーマなんか昨日までは考えもつかなかった。それからもう一つ、文章は10行で終わるようにしている。10行の意味は特にはないが、まあ頭のトレーニングのつもりだ。そして後133日目に念願の11月11日を迎える。私の満80歳の誕生日だ。少なくともその日までは続けたいなあ。

2008年6月29日日曜日

(49)進めたいな こんなこと

(2008年6月29日)
  「在日ビルマ難民たすけあいの会」の活動は会長以下、各委員の努力で着実に前進している。しかしさらに飛躍させるために私は次のことを提案したい。 ①会長、副会長、事務局長、会計による幹部会議の開催(役員会議の中間時)。②役員および有志による専門委員会の開催。例えば会員の増加策、会費収集と支援金支出の目標設定、両国語による会則の照合、広報活動、イベント活動、入管訪問活動、会員への情報伝達活動などを検討する各専門委。③支援対象者名と支援金額の決定はプライバシーを尊重して幹部会議にて行う。④会議の進行はなるべく日本語で行い、会長と事務局の連携強化。⑤女性の声の増加などなど。 これらの諸点は役員会全員で議論するには、あまりにも多岐にわたっているため、まず数人ずつの専門委員会で問題点を洗い出し、これらの要点を役員会に提案することが望ましい。

2008年6月27日金曜日

(48)ホントの難民??

(2008年6月28日)
 先日、タイ・ビルマ国境の街まで旅行したビルマ人がいた。彼は在留特別許可を得ており、日本政府発行の難民旅行証明書で出かけた。国境地帯には幾つかの難民キャンプがあり、現在15万人ぐらいが住んでいるという。このキャンプに住んでいるビルマ人は、政府軍に追われて国境を越えた人々であり、貧しい暮らしだが健気に生きており、彼はこれが「本当の難民」だという。この話を聞いて、私は、教室の同僚の鈴木貴子さんが書いた「国境の難民キャンプ訪問記」(ミンガラネットワーク会報12号26-33頁 2001年7月発行)を思い出し、読み返した。大変文章が上手で胸に迫る内容であった。確かに本当の難民といえよう。一方、ビルマ本国にいて民主化を唱えたために刑務所に入っているビルマ人も「本当の難民」といえる。とすると、東京で元気よく民主化運動を叫んでいる人たちは何と呼べばよいのだろうか?

(47)7百円の無駄づかい

(2008年6月27日)
 今年の流行語大賞は「後期高齢者」の他「居酒屋タクシー」も結構いい線を行ってる。いまや政府の無駄づかいが連日報道されている。前にも書いたが「在日ビルマ人たすけあいの会」でいま早急に必要なのが会員の募集、ビルマ人が対象なのでビルマ語の入会案内書が欲しい。しかしなかなか手に入らない。そこで会長に頼んで1部を至急送ってもらい、我が家でコピーすることにした。ところがこの両面コピー機、ご機嫌斜めで動かない。気ばかり焦るが故障を知らせる赤ランプが着きっ放し。慌てて雨の中、近所のコピー専門の店に駆け込み両面14円で50枚入手。ホッとして我が家のコピー機に向かい、ごちゃごちゃ動かしていると急に正常に運転できるようになった。癪に障るので、色紙を使ってコピー屋よりも見栄えのよいのを50枚作った。結局7百円の無駄遣いだったがまあいいか。社保庁や国交省に比べれば。

2008年6月26日木曜日

(46)入管訪問の一日

(2008年6月26日)
 昨日は水曜日、毎週恒例の入管訪問日であり、12時15分に入管に到着し、1時過ぎから面会開始。 9人のビルマ人難民申請者に会うには、3人ずつ3組とし、面会時間は1組10分、しかし交代時間もあるため、1時間はかかる。面会した彼女らは、55歳から23歳までで、みな真面目に日本で生活していたようだ。昨日は彼女らの多くは難民不認定処分に対する異議申立書を書いてる最中で、いろいろ質問があり、たくさんの宿題をもらった。面会前、控え室で待っている間、5人のビルマ友人に会い楽しかった。面会終了後、入管の4階にある総務課に顔を出し、日頃の疑問点について質問。答えてくれた担当者は、2冊のパンフ【法務省入国管理局発行の「出入管理2008年版)(20頁)」と、東京入国管理局発行の「東京入国管理局(16頁)」】をもとに、まあ無難に親切に教えてくれた。収容外国人にも親切にして!

2008年6月24日火曜日

(45)恥ずかしいなあ 表彰式の写真

(2008年6月25日)
  「在日ビルマ難民たすけあいの会」のホームページを覗くと、なんと私が大瀧会長から感謝状を頂いてる写真が目に飛び込んできた。内容は私の寄付金が会の基礎作りに貢献した旨の感謝状、なんとも面映い。実は私は1年以上も前から、困っている人に寄付したいと思っていて、対象をいろいろ探していた。もちろんできればビルマ関係が好ましいと考え、活躍されている某団体にと思ったこともあったが、踏ん切りがつかなかった。そうこうしてるうちに大瀧さんから「在日ビルマ難民たすけあいの会」の構想をお聞きして、これこそ私の念願の対象そのものであり、胸も大きく高鳴った。ビルマ関係であり、困っている人を助けることができるそのものずばりの対象、かつ私自身の目が届く最高の団体。もうすぐ80歳となるのでちょっと焦っていたのでこんなにハッピーなことはない。本会の大いなる成長を期待しつつ感謝、感謝。

(44)大きな格差 出頭の有無

(2008年6月24日)
 明日は品川入管で難民申請しているビルマ人女性との面会日であり、いまいろいろ準備している。彼女らと面会していて、いつも思うことは、難民(申請)に関する情報・知識があまりにも少ないことだ。つくづく可哀想だと感じる。現在日本には千五百人以上のビルマ人難民申請者がいるのに、情報が流れていないようだ。彼女らは収容後に難民申請したのだが、なぜ収容される前に入管に出頭して申請しなかったのか。難民申請するということは、祖国と別れ、家族と別れるという人生の大転換であり、躊躇するのは分かるが、それにしても知らなさ過ぎる。最近、収容される前に(出来ればビザのあるうちに)難民申請した人の多くは、1年間の特定活動ビザを取得している。日本で生活する上で、ビザの有無による格差は大きい。我々の活動も、難民申請をしていないビルマ人に関係する情報を提供することが必要であろう。

2008年6月23日月曜日

(43)面白い!「ビルマ国境ニュース」

(2008年6月23日)
 熊切さんが発行している「ビルマ国境ニュース」を知ったのは今年2月のことだった。私はかねてからビルマ民族と非ビルマ民族の関係が気になっていたのだが、この「ビルマ国境ニュース(No9号)」を読んで頭の中が「グァ~ン」となった。私の知りたいことがずばり書いてあった。この問題は両民族とも口には出せない問題なのだ。事実この13年間聞いたことがない。しかしこの問題がすっきりしなければビルマの民主化は進まないであろう。たまたま昨日、熊切さんに第10号を頂きすぐに熟読した。「ビルマ大使館前の在外投票事件」の記事はショックだったが、それにもまして「いま入管ははち切れんばかり!(上下連載)」は我が意を得たりと叫びたい。私は入管職員が難民関連の仕事をするのは邪道と思っていたが、熊切さんは一歩進んで国連難民高等弁務官事務所の参画も必要だと明確に言い切っている。喝采。

(42)ビルマ人と日本人 会議は?

(2008年6月22日)
 今日は「在日ビルマ難民たすけあいの会」の役員会議の日、秋葉原の「ミンガラ日本語教室」を1時過ぎに抜け出して巣鴨にある大瀧会長のお宅を訪問、2、30人入れる大広間が会場だ。私は役員ではないが顧問の立場で出席。約20人がビルマ人で3人(大瀧会長、熊切副会長と私)が日本人、会議は日本語の上手なビルマ人が通訳してくれるのだが、議論が沸騰すると通訳までが熱中して自分の意見をビルマ語で滔々と。こうなると我々日本人にはチンプンカンプン。議事は規約の追加方法、基金の引き出し方法、支援金贈呈者決定方法、仮放免保証金の返済方法など結構重要な論議がなされたが、結論がはっきりしないものも多かった。今後は正副会長を中心とした幹部会議の開催、少人数グループによる分科会の結成、なお、ビルマ人は日本語が多少分かるので、日本語重視の会議など改善したい点が多い。

2008年6月21日土曜日

(41)あなたは1回目? 2回目?

(2008年6月21日)

 品川入管には毎週水曜日に面会に行くことにしている。去年の12月から続けているのですでに半年以上通ったことになる。面会対象はもちろん難民申請中のビルマ人女性。12月に最初に面会したときは3人であったが、いまは10人と面会している。仮放免で出た人も多く、結局延べ29人に面会したことになる。彼女らが望むのはもちろん早期の仮放免、そこで「あなたは1回目? 2回目?」と質問する。1回目とは初めて収容された人、2回目とは2年前ぐらいに2ヶ月間収容されて、保証人、保証金なしで出所できた人を指す。私の経験では、1回目の人はだいたい4ヶ月、2回目の人は1ヶ月近く収容され、全員が保証人、保証金が必要となる。しかしこの1,2年前、私が牛久入管に通っていたときには、多くの人が1年前後収容されていたことを思えば、ずいぶんと短くなったものだ。入管さんよ、もっともっと短くしてね!

2008年6月20日金曜日

(40)渋谷ザニー君 23歳 難民

(2008年6月20日)
昨日電車の中で、隣の女性が「女性自身」を手に居眠りをしていた。何気なくその表紙を見たら、ミャンマーという文字が目に入った。それ以上は字が小さく読めなかったが、気になったのでキヨスクで「女性自身」(7月1日号)を購入した。かっこいい長身の青年の写真と共に「ミャンマー人でも日本人でもない、ザニーはザニー」というタイトルが飛び込んできた。一人のミャンマー人難民が7頁にわたって紹介されるとは珍しい。両親は民主化活動家で、彼が3歳のとき8888事件が起こり、8歳のときミャンマーから母親と一緒に日本に逃げてきた。日本には彼の父親がいたのだ。高校生のころモデル、ミュージシャンを目指し、16歳で難民認定、アジア大学卒業後渋谷の街にあこがれて渋谷姓を名乗り、シアトルに留学、いまはファッションデザイナーとして渋谷で活躍中。夢は洋服の工場を難民のために作ることらしい。すごい!

2008年6月19日木曜日

(39)スーチーさんの軟禁状態とは

(2008年6月19日)
 軍政によるスーチー女史の自宅軟禁状況とはどんな状況なのか、とても気になっていた。たまたま今日6月19日はスーチーさんの63歳の誕生日、朝日新聞は彼女の暮らしぶりを紹介していた。自宅には支援者の63歳の女性とその娘が住み込みで世話をしており、日常生活に必要なものは、メモ書きして入口の警官詰め所で買い物係の支持者に渡し、買いに行ってもらう。費用はすべて支持者たちが支払う。火曜日と土曜日には好物の野菜カレーを食べ、時に出前をとることもある。祈り、瞑想、エアロビクスなどを習慣としているが、担当医の診断は受けられない。自宅訪問は原則禁止、電話線は切断、反軍政側や海外ニュースも入るラジオが唯一の情報源のようだ。スーチー氏の解放については国際社会も打つ手がない。今日2時から渋谷でスーチーさんのためのデモ行進があるという。頑張れ我らのスーチーさん!

2008年6月18日水曜日

(38)ミャンマーに国名変更の日

(2008年6月18日)
 昨日の朝日夕刊に「明日は何の日」というコラムがあり、「ミャンマー」に国名を変更した日とある。「明日」というのは即ち今日のこと、6月18日のことである。1989年にビルマ軍事政権が国名の英語表記を従来の「ビルマ」から「ミャンマー」に改めたのだ。その理由は「自国の発音に忠実に」。これを受けて日本の外務省も翌月、日本語の表記を「ミャンマー」に変えた。しかし大阪大外国語学部の見解は、軍事政権は「ミャンマー」が全民族を含んでいると偽っており、少数民族の立場を考えると受け入れがたいとしている。私は「ミャンマー」も「ビルマ」も語源は同じで、口語的表現と文語的表現の違いに過ぎないと考えている。とすると阪大のいうとおり「ビルマ」も「ミャンマー」も人口の7割を占めるビルマ族だけを指す呼称となる。3割もいる少数民族を含めた呼称は本当に無いのかしら。私は「ビルマ」を愛用しているのだが。

2008年6月17日火曜日

(37)どうなった 不法滞在者半減策

(2008年6月17日)
 今日入管協会発行の「国際人流」という雑誌を読んだ。それによれば、政府は「世界一安全な国、日本」という掛け声の下、平成16年から20年の5年間で、不法滞在外国人を半減させるとの数値目標を立て、入管、警察ともども摘発に力を入れてきた。平成16年当初の不法残留者が21.9万人、不法入国者が3万人、合計24.9万人いたとあるが、4年経過後の現在(平成20年1月)には不法残留者15.0万人、不法入国者2.4万人、合計17.4万人というのが実情のようだ。結局この4年間で、ちょうど70%まで減らしたことになるが、半減なんてまだまだ遠い話で、数字上はとても達成不可能と思われる。しかし、数値目標を立てると、何とかして達成しようとするのが日本人の気質、でも今年(平成20年)はあと半年しかないので、入管や警察は最後の力を振り絞って、何とか目標を達成しようとするかもしれないね。

2008年6月16日月曜日

(36)大差のない 「定住」と「特定活動」

(2008年6月16日)
 最近、難民申請をしている在日ビルマ人の間でも「特定活動」という1年ビザをもらう人が増えてきた。「特定活動」ビザの制度そのものは以前からあったが、多くの難民申請者がこのビザを取得するのはごく最近のことだ。従来、難民申請者がもらえるビザは、「定住」ビザ(難民認定や特別在留許可)が主流であった。しかし、新たに増えたのが、風営法以外の仕事をしてよろしいという1年ビザだ。そこで「定住」ビザと「特定活動」ビザの違いを入管に聞いてみると、「定住」のほうはすべての仕事ができるが、「特定活動」のほうは風営法に関係する店(パチンコ屋も)では働けないというぐらいで、他は両者ほぼ同じという。とすれば「定住ビザ」でなくても、「特定活動」ビザを取得すれば十分ではないか。ビルマ人難民申請者千五百人時代を迎え、法務省・入管による法律の運用方針がしばしば変わるので当分目が離せない。

2008年6月15日日曜日

(35)ミンガラ日本語教室の課外授業

(2008年6月15日)
 今朝の朝日新聞に、岩手・宮城内陸地震によって宮城県の駒の湯温泉が土砂に埋まり、宿泊客のKさん(鉄道博物館学芸員)が行方不明と出ていた。偶然にもこの日、我々「ミンガラ日本語教室」の先生6人と、ビルマ人生徒約30名が課外授業として大宮の鉄道博物館を訪れた。教室では毎年遠足を実施しており、10年ぐらい前には、目的地として江戸東京博物館や、葛西臨海公園、上野動物園、浅草など都内を選び、その後は、富士山、箱根、日光など遠隔地へバス旅行をしていた。さらに最近はマザー牧場や鴨川シーワールドなど中距離の観光地へと変えた。今年もいろいろ候補地が上がったが、ビルマのサイクロン被害の件もあり、自粛の意を込めてバス旅行を中止し、大宮にある鉄道博物館と決めたのだ。この博物館は、数年前には教室のすぐそば、というか、先日のアキバ事件の目の前にあった。幸い生徒たちは今日半日を十分楽しんだようだった。

2008年6月14日土曜日

(34)難民申請者(牛久)の資料整理 遅々と

(2008年6月14日)
  昨日は1日かけて牛久入管訪問時の書類整理に取り組んだ。なにしろ厚さ10センチの大型ファイル2冊に無造作に集められていた膨大な資料だ。内容は面会記録や仮放免申請書、彼女らがビルマ語の雑誌に投稿したエッセーや詩の翻訳文などを名前別に整理しなおそうというもの。まだ1・2年前の資料だが、彼女らの懐かしい発言や悲痛な訴え、そして渾身の力で書き上げた軍政批判のエッセーや詩の原文と共に、私が関わった翻訳文が目に飛び込んでくる。中にはたどたどしい日本語での私宛の感謝の手紙や可愛い絵もたくさんあった。あらためて読み直してみると、彼女らの真剣な訴えが私の心を打つ。しかし、このような彼女らの叫びを生かしてあげる機会はあまりにも少なく申し訳ない。私が牛久で面会した42人のビルマ人女性よ、初心を忘れず、一緒になってこの日本で住み続けよう。資料整理は今日も続く。彼女ら一人一人の心情を思い出しながら。

2008年6月13日金曜日

(33)ハリウッドスターとビルマの30日間

(2008年6月13日)
 インターネット(Burmainfo)によれば、アメリカハリウッドの著名なスター30人が、30日間にわたって毎日「ビルマ問題」について映像メッセージを発表している。今日は18日目で出番はエヴァ・ロンゴリア・パーカーさん(著名だかどうか皆目分からないが)。ある朝、エヴァ家にビルマの新聞が配達された。エヴァさんが新聞を開くと中は白紙。・・・・ビルマのジャーナリストはビルマ国内で起きていることだけでなく、国際的な事件についても、真実を報道することはできません。軍政は反政府的な情報はすべて禁止し、インターネットの使用も国民の1%未満、かつ2つのプロバイダーは軍政が完全に管理しています。俳優やアーティスト、文筆家、音楽家があえて軍政を批判したり、民主化勢力を支持したりして自由に自己表現をすれば、投獄されかねません・・・・。日本でも、松平健や北島三郎、和田アキ子、爆笑問題あたりが声お上げれば、ずいぶん違ってくると思うよ。

2008年6月12日木曜日

(32)日本から見た祖国ビルマ

(2008年6月12日)

 私はいまマウンミンニョー氏の書いた「日本から見た祖国ビルマ」(草の根出版会)という本を読み終わったところだ。私が興味があったのは、本の題名もさることながら、著者の名前だ。マウンミンニョー氏は現在在日ビルマ人共同実行委員会(JAC)の会長であり、在日ビルマ人民主化グループ31団体のトップリーダーである。しかし彼の人となりや考え方についてはつい最近まで知らなかった。というわけで彼の著書を読み始めた次第である。彼は1948年生まれで私より20歳若い。1981年に来日、89年に名古屋大学で博士号を取得。96年以降愛知大学講師、その後ビルマ民主化同盟(LDB)会長、ビルマ日本事務所事務局長を歴任した。私は95年ごろから在日ビルマ人の方々と接触があったが、マウンミンニョー氏の話題は全くでなかった。しかしこの本を読むと、全組織の代表に選ばれるだけの力量は確かに持ち合わせているようだ。頑張れ!

2008年6月11日水曜日

(31)入管さんよ もっと親切丁寧に

(2008年6月11日)
 今日も品川入管を訪問した。ビルマ人女性が2人増えて8人、新たに男性が2人の計10人との面会だ。私はいままで能力が2分されるために男性にはなるべく会わないようにしてきたが、今回はお世話になったTMNさんと、教室生徒のSTさんが相次いで収容されたために、例外的に男性とも面会することにした。男性の2人は共に2回目の収容なので問題は少ないが、女性のほうは全員はじめての収容で、何をすべきか分からず、イライラしてる様子が手に取るように分かる。全員難民申請を出したので、難民になりたいことは分かるが、それから先のことはほとんど分かっていない。仮放免申請書の出し方、保証人の意味、仮滞在不許可の対応、異議申立に係る申述書の意味、口頭陳述の対策と不許可になった場合の対応など、ほとんどチンプンカンプンの様子。言葉の問題もあろうが、どうやら入管当局者からの親切丁寧な説明が欠けているようだ。

(30)ドイツでの難民申請

(2008年6月11日)
   「ミンガラ日本語教室」の卒業生の大部分はビルマに戻っているが、他の国に住んでいる人も少なくない。昨晩、ドイツのミュンヘンにいる元生徒のKさんから電話が入った。3年前にオーバーステイで強制送還となり、ビルマに帰国したが、その後ドイツに行き難民申請をした。日本と違い難民になるには、ドイツ語の習得が必須であり、現在ドイツ語の教室で勉強中。日本語能力試験と同じようなドイツ語能力試験2級に合格すれば難民になれるという。この学校の授業料は無料。短時間働くことも自由でKさんはお掃除の仕事をしている。難民になるということは、その国に住むということであり、言葉の習得が何よりも大切なのに日本政府はこの観点が欠如しており、結局我々ボランティア団体が、難民申請にも日本語を教えることになる。私が関わっている二つのボランティア活動「日本語教室」と「難民たすけあいの会」は、結構大切な活動だよなあ。

2008年6月10日火曜日

(29)軍政に批判 サイクロン対応

(2008年6月10日)
 今朝の朝日朝刊にシンガポールで開催されたアジア安全保障会議の内容が報道されていた。安全保障というから、てっきり「武力」関連かと思っていたら、中国の地震と共に、ミャンマーのサイクロン災害について討議されたようだ。参加国は28カ国で日本の石破防衛相のほか各国とも国防相が多く参加していた。ここで、中国の四川大地震に対する中国政府側の姿勢には好意的であったという。しかし、サイクロン被害の対応についてミャンマー軍政に批判が相次いだ。何しろ13万人を超す死者・行方不明者が出ているというのに、軍政が多くの国からの支援の受け入れを厳しく制限したためだ。一方朝日の他の頁には、被災地ラブッタで1200人もの被災者を診療した日本医療チームが明日帰国するとある。日本人の一人として嬉しい。昨日送ったパンツ入りの衣類も無事被災者に届くことを願っている。

2008年6月9日月曜日

(28)サイクロン支援 パンツは?

(2008年6月9日)
  「在日ビルマ難民たすけあいの会」によるビルマサイクロン被災者救済のための第一陣70万円の送金は無事終わり、現地で購入した支援品が被災者に配布された。もちろん第二陣も準備中なので、引き続きご支援をいただきたい。ところで「ミンガラ日本語教室」のほうでも生徒の父親を通じて、支援金を送るべく準備を進めている。さらに元生徒のCさんは、目黒区のPTAを通じて衣類を集め船便で送るという。膨大な数の衣類が集ったが、不要な冬物も多く、いま仕分けに汗を流している。もう一人の生徒のNさんも衣類を送りたいという。わたしはこのNさんのルートで衣類を送ることとし、たんすの中の新品のシャツやパンツなど一袋集めた。ここで気がついたが僻地のビルマ人男性はロンジーの下は何もはかないと聞く。とすると送っても・・・・、まあいいか、いまパンツ込みの支援品を宅急便で出してきたところだ。

2008年6月8日日曜日

(27)サイレン、サイレン、サイレン

(2008年6月8日)
 今日は日曜日、ミンガラ日本語教室の授業がある日だ。おまけに今日は私の出番、9時半からのアイウエオクラスの授業に出かけた。6人のミャンマー人生徒を対象に得意のジョークを交えて熱弁?を振るった。11時に授業が終わって、生徒の質問に答えていると、何故かパトカーと救急車のサイレンが入り混じって聞こえてくる。教室は秋葉原駅のすぐそば、歩いて3分の所にあり、たまにサイレンが聞こえることもあるが、今日の音は異状だ。サイレンは30分以上続いていた。しばらくして生徒の家族から第1報が飛び込んできた。テレビを見ていたら秋葉原のホコテンで、車が暴走しさらに数人が刺されて死亡したと報道されたが息子は大丈夫かという安否の問合せ。そのうち家族や友人から同じような電話が入った。殺人現場は教室から4・5分の場所。生徒はもちろん全員無事だったが、物騒な世の中になったなあ。

2008年6月7日土曜日

(26)在日ビルマ人の犯罪は?

(2008年6月7日)
 いま手元に昨年(平成19年)の来日外国人犯罪の検挙状況という警察庁発表資料がある。検挙総数で見ると平成16・17年ごろをピークに減少傾向にある(平成19年は約1万6千人)。外国人犯罪が増えているということはないようだ。犯罪には刑法犯(強盗、窃盗、風俗犯など)と、特別法犯(入管法、売春防止法など)の二つがある。平成19年の刑法犯は総数7千5百人で、最多は中国人(2千9百人)、ミャンマー人は37人であった。一方、特別法犯は総数8千4百人で最多は中国人(2千5百人)、ミャンマー人は79人であった。世界各国に比べ、ミャンマー人の犯罪は極めて少ないが、それでも現実には年間百人余の犯罪者がいることになる。このような犯罪者のニュースは我々の耳にはなかなか入らない。もし彼らの中で「たすけあいの会」に入っていれば、犯罪を犯すことなく救われた人もいるのではないか。

2008年6月6日金曜日

(25)テレビに出たMさん夫妻

(2008年6月6日)
  昨晩、ビルマ人のPさんから電話が入った。「あした朝Mさん夫妻がNHKテレビに出るよ、通訳は私、時間は7時55分」。この時間、私はいつもは、みのもんたの「朝ズパッ」を見てるのだが、今朝は7時から1チャンネルを見ることにした。7時半頃からビルマ被災地の悲惨な風景が写りだし、その後支援品を配る日本人医師の活躍が放映された。この後、東京の弁護士団による外国人電話相談の風景が写り、各国語の通訳と一体となり弁護士が対応していた。鈴木雅子弁護士や、ウーシュエバの姿も見えた。その一環としてMさん夫妻の部屋や食事風景が紹介されたが、本人たちの顔は出ないように配慮されていた。内容は、「難民申請を出したが許可されないまま。妻は長い間糖尿病を患いインシュリン注射を毎日していて、生活が苦しい」というもの。気の毒であり、わが「たすけあいの会」も何かしてあげたい。

2008年6月5日木曜日

(24)やったぁ 支援金が無事届いた

(2008年6月5日)
 私たちの「在日ビルマ難民たすけあいの会」では、5月2・3日のビルマデルタ地帯でのサイクロン被災者支援金をいろんな方法で集めた。そして、その第一陣として70万円をビルマの著名な俳優であり、慈善家でもあるチョートゥー氏のルートで送った。ビルマ関係のインターネットでは、軍事政権やUSDA(軍政側の民衆団体)が横取りする旨の情報が多く報じられていた。戸惑った我々関係者は討議を重ね、結局軍政が一目おく上記ルートを選んだ。しかし正直なところ本当に被災者のもとに届くのか不安な気持ちが続いていた。ところが今朝、熊切副会長から無事到着との第一報が入った。それには感謝する旨のレターと、支援物資を配布している現場の写真が4枚添付されていた。まさに「やったぁ」といった感じ、担当したビルマ人委員のご努力に拍手を贈りたい。チョートゥーさん あなたは顔も心もハンサムだね。

2008年6月4日水曜日

(23)ビルマの地図を買っちゃった

(2008年6月4日)
  ビルマの地図を買いたかった。買いたいと思った動機はもちろんビルマのサイクロン被害、デルタ地帯のラブッタ、ボガレーの被害が大きいといわれても、場所が分からないので、なんだかもどかしかった。ましてや、パテインやミャウンミャの被害はさほどでもないとの情報も入り、デルタ地帯が全面的に大被害を受けたのではないらしい。となるとビルマの詳細な地図が早急に欲しい。教室のある友人からビルマの地図は東京でも買えるという話を聞いたので、早速津田沼駅近くの丸善で予約したところ3日後には入手できた。発行所はシンガポールのPERIPLUS社で1260円、ちょっと高い感じの値段だ。(ちなみに私は品川入管にいるビルマ人女性に世界地図を差入れているが、ダイソー製でたったの105円)。いま私は机の上にこのビルマの地図を広げてデルタ地帯の町の名前を調べている。

2008年6月3日火曜日

(22)参ったなあ ニセ写真とは

(2008年6月3日)
 我が親友U GOTOのブログをたまたま読んでいてびっくりした。私の5月15日のブログ「(4)軍政幹部よ この写真見て何想う」と大上段に掲げた写真が実はニセ写真だったとは! U GOTOも私と同じ写真を受け取っていたが、海岸の建物が立派過ぎ、救援活動してる人のシャツにはタイ語が書かれているという指摘、そしてこれはスマトラ沖地震の災害時の写真だという。私もすぐ8枚の写真を見直してみたが、たしかにU GOTOの指摘どおりおかしな点が多い。ギャフン! この写真はアメリカにいるビルマ人元生徒からインターネットで送られてきたもので、今ごろも世界の空を駆け巡っていることだろう。せめてもの救いは私からは誰にも見せていないということ。ところで、私の5月15日(4)のブログの扱いはどうしよう。そっと削除するか、他のものに変えておこうかな?それとも・・・・。

2008年6月2日月曜日

(21)たまにはやるじゃないか 外務省

(2008年6月2日)
 5月30日(17)のブログに「サイクロン禍のビルマに積極支援、目指す独自外交」という週刊誌の記事を紹介したが、本当かしらという疑問が残っていた。そこで発生から丁度1ヶ月の今日、インターネットで調べてみると、サイクロン発生から今日までに実に外務省発表が29件もあり、支援の具体策が並んでいた。ほとんど連日の発表といった感じだ。外務省がビルマのサイクロン被害に対して、こんなに行動を起し、発表しているとは知らなかった。5月28日、国際緊急援助医療チームの派遣が外務省から発表され、翌日の新聞には23名の医療チーム一行が2週間の予定でラブッタへ出発したとある。その後、テレビではテント内で被災者を診断する生々しい様子がしばしば報じられるようになりホッとしている。外交べたな外務省よ、持ち味の対ビルマ独自外交でキラキラする成果を挙げてくれよ。たまにはやるじゃないか 外務省。

2008年6月1日日曜日

(20)「避難所出ろ」とはむごいなあ

(2008年6月1日)
 今朝の朝日新聞によれば、軍政がサイクロン被災者に「避難所を出ろ」と命令したという。被災者を助けるのが政府の仕事なのに、いったい何を考えているのだろうか。サイクロンが来襲したのは5月2日だから明日で丁度一ヶ月、デルタ地帯の復旧作業は遅々として進んでいない様子。災害を受けた村には廃材・瓦礫と悲しい思い出しか残っておらず、そこに戻ったとしても住まいも食べ物もない。その村の復旧が簡単ではないことは明らかであり、支援物資が届くかどうかも定かではない。学校の新学期が始まるのが6月なので、その長年のルールを単純に守るために被災者を追い出しているのかもしれない。よその国でこんな命令が出たら、暴動が起きるであろう。一方、人災という災害を受けても、文句が一つも言えない庶民たちはあまりにも気の毒であり、今後の幸せを祈るばかりである。