2011年9月30日金曜日

(1235)ビルマ関連書籍11冊が到着

  先日、親友STさんからドサッと荷物が届いた。開けてみるとビルマ関係の書籍11冊だった。私が「ビルマ関連100冊の書評」完成を目指していることを知って、わざわざ送っていただいたもの。1998年ごろのチェリービルマ語教室は、ミンガラ日本語教室と共同で「みんがらネットワーク」を作り、両教室の生徒が和気藹々、皆で都内見学会や、写真撮影会、飲み会などで楽しんだ。その一つが「みんがら文庫」であり、当時44冊の書籍が集まっていた。貸出票も作り、誰もが自由に持ち帰れるシステムで好評。当時、私も書籍のナンバリングを担当した覚えがある。あるときチェリー教室が急遽移転せざるを得なくなり、STさんのアパートにこの図書類を緊急移動した。こんな状況なので、これらの書籍と10年ぶりの対面、私が貼り付けた番号ラベルもそのまま健在だった。これから読み始めよう。STさんに感謝!感激!

2011年9月29日木曜日

(1234)ミャンマー難民 遠い安住

  9月29日の朝日新聞には、標記の見出しのほか、「日本になじめず 仕事なく生活費心配」、「就労ニーズあわず」、「定住制度第一陣の夫婦会見」、「増えぬ希望者 辞退も」などの見出しが紙面を覆っていた。昨年来日した第三国定住難民第一陣の夫婦が28日記者会見した内容である。夫はもはや八街の農業法人に戻る気はなく、「仕事がなく家賃、食べ物、子どもの学費が心配」、妻は「一番困ることは日本語ができないこと」、2人の代理人の渡邉彰悟弁護士は、事前にRHQから聞いた労働条件と異なっている点を指摘、外務省に申し入れた。農業法人側は「季節や作業によっては朝早いのは当然、理解しているのだろうか」と戸惑う。滝沢三郎氏は「政府が受け入れ先や自治体などに丁寧に説明すること」と指摘(以上概要)。日本人として全く恥ずかしく申し訳ない話だ。諸悪の根源は「厳しい情報規制」だ。

2011年9月28日水曜日

(1233)ミッソンダム建設の可否 自由活発な発言

 最近、エヤワディ川のミッソン地区のダム建設反対運動が盛り上がりつつある。本ブログでも(1228)でビルマ国会での一部議員の声を紹介した。ミャンマー日本語教室ブログには、ウーゾーミン第一電力相の反論(9月12日、WEEKLY ELEVEN NEWSの記事)が紹介されていた。「どんな反対意見があろうとこの計画は続けます。国内問題であり国連は関係ありません。ダム建設には地質、水質、環境調査など3年が必要で、環境調査には第三者であるBANCAに1億円支払っています。我々は一銭も使わないで、総発電量の10%の電力を得ます。残りを中国に売った時に8%の商業税が入ります」と。ところがこの雑誌の会長は「利益の配分は中国が70、ミャンマーが20、中間業者が10と定めている」と反論(以上概論)。スーチーさんは反対意見を表明しており、ミャンマーの言論自由化は進み出した。

2011年9月27日火曜日

(1232)ミャンマー200人デモ 政府強攻策とらず

  今日(9月27日)の朝日には、標記のような見出しで、ヤンゴンで26日民主化運動の支持者約200人が集まり、軍事政権の弾圧で多数の死者を出した2007年の反政府デモから4年を迎えたことを記念する行進をした。政府はデモに一定の規制をかけつつも、逮捕者は出なかった模様。3月に発足した新政権は、国内外の評価を一気に失うような強攻策を避けたと見られる。参加者はNLDのメンバーらで、約2千人いるとされる政治囚の釈放を訴える標語が書かれた揃いのシャツを着て、郊外からスーレーパゴダを目指した。周辺には多数の警官が配置されており、行進を中断させられた参加者もいた。約60人はパゴタにたどり着き祈りをささげた。07年のデモでは日本人カメラマンが撃たれて亡くなった(以上概要)。今回はマスコミ取材も自由であったようだが、これ以上規模が大きくなると、どうなるか不安だ。

2011年9月26日月曜日

(1231)日本企業ミャンマー視察ラッシュ

  9月22日の読売新聞の記事。ミャンマー政府は最近景気テコ入れ策を打ち出したほか、外資導入で工業国を目指すとして、経済改革に積極的な動きを見せている。日本政府は、民主化のほか、こうした市場経済体制の構築も支援する方針だ。ミャンマーではチャットのレートが対ドルで急上昇したため、輸出産業が打撃を受け、景気が減速気味。このため政府は8月に輸出に課せられる税金の一部の免除や、法人税引き下げを実施、市民は政府の変化を歓迎してる。一方超円高に苦しむ日本は、人件費がベトナムの半分程度と東南アジアでも特に安いミャンマーの魅力は大きい。経団連は、今月ヤンゴン、ネピドーに視察団を派遣し、経済同友会や日本商工会議所も近く派遣する予定。ジェトロでは「日本企業の視察は数え切れないほど」といってる(以上概要)。視察に行く各社は、ビルマの歴史をよく学んで欲しい。

2011年9月25日日曜日

(1230)読みました 「白骨街道」

  「白骨街道」、副題は「英軍に救われたビルマ戦線捕虜の記」、著者は島野敬二氏、(大正8年生)、1992年5月、同時代社発行、159頁、定価1200円。前半は通常の戦記ものであり、カチン州のサモウ、インジゴン周辺で大兵力の英印軍と激烈な戦闘を続けたが、力の差ははっきりとしており、周辺には日本軍兵士の白骨が累々と続いていた。著者も最前線で一時意識不明となったが、幸い英軍の赤十字部隊に発見され、直ちに戦闘機に載せられレドの野戦病院へ運ばれ、手厚い看護を受けた。その後、さらにピネカールの捕虜収容所に移送され、3千人の日本兵捕虜と一緒に2年を過ごした。終戦の詔勅で武装解除された者と、その前に捕虜になった者との間には、明らかな断層があった。恥辱と考えていたここの3千人は、互いに本名を明かすことなく2年を過ごし、帰国後も連絡を取り合っていないようだ。

2011年9月24日土曜日

(1229)第三国定住難民第2陣 日本へ出発

  今朝の朝日新聞によると、「ミャンマー難民が日本に出発」との見出しで、「第三国定住制度」に基づき、日本が受け入れるミャンマー難民(カレン族)4家族18人が23日タイ北西部にあるメラ難民キャンプを出発した。29日に日本に到着予定。3月に発足したテインセイン政権は難民に帰国を呼びかけているが、同キャンプのトゥントゥン委員長は「信じる人はほとんどいないし、国境を越えてくる難民も減らない」と。日本に向かう20代の男性は「自由と子どもの教育のために平和のない祖国には戻れない」と話した(以上概要)。第1陣は昨年9月末に5家族27人で来日したが、ご存知の通り日本側の受け入れ態勢は滅茶苦茶、来日難民に大分迷惑をかけたようだ。今回の第2陣も、この情報は入手していたようで、すでに2家族8人が来日を辞退している。情報規制をやめ、自治体やNGOを活用したらいかがかしら。

2011年9月23日金曜日

(1228)国を相手に訴訟を ダム建設事実の公表を

  チートゥシェイン氏のブログ「ミャンマーのタイムリー情報」を見ていると、「国を相手に訴訴を ダムの影響・事実の公表を!」というのがあった。エヤワディ川源流のメイカ川とマリカ川が合流する地点、ミィッソウンに建設計画中のダムに関する正確な情報の公表を求めて、今回の選挙に出馬した議員ら5人が原告として政府を起訴するという。2008年憲法によれば、国民は連邦最高裁判所を通して、自らの権利について国に訴訟を起こす権利があるとしている。建設は中国エネルギー投資公司が投資しリードしており、6000メガワット発電でき中国側に輸出される。既に1600人の署名を集め、9月1日にテインセイン大統領宛に郵送してある(以上概要)。この計画は軍事政権時代に中国と協定して進めているもので、いまになって反対運動を起こしても、中止は無理であろうが、民主化政治への一歩ともいえよう。

2011年9月22日木曜日

(1227) ツイッターで第三国定住問題が

 ツイッターに入会はしたものの有効な利用法が分からなかった。きょう「Dream For Children」:代表亀田浩史氏からフォローする旨メールが飛び込み、その内容を見ているとビルマ問題も結構取り上げていた。ツイッターであるからいろんな方からの情報が飛び交っている。その中で、山本宗補氏のツイッターが目に留まった。昨年来日本に来た第三国定住難民に関する報告会に出席したときの報告者の発言概要である。「外務省がアクセスさせず報道が皆無に等しい」、「5家族は5ヶ月弱の日本語研修のみ」、「長時間の慣れない農作業、雇用主が労働条件を改善しないため抗議の職場放棄をしたことも」、「外務省から委託された難民事業本部が責任を果たさず取材も拒否」、「市民やNGOとの連帯を規制した」、「問題点ばかりということがようやく明らかになった」。もし私が付け加えると「自治体は何してた?」

2011年9月21日水曜日

(1226)読みました 「ビルマ戦記」(自動車隊)

 副題は「自動車大隊小隊長の陣中日誌」、著者は阿部幸助氏、1995年(平成7年)12月、戦誌刊行会発行、279頁、定価2000円。著者は早大卒と同時に入隊、見習士官としてビルマ戦線に赴任、昭和18年4月の出陣より同20年12月までの壮絶な戦いの間に丹念に綴った日誌。自動車小隊はトヨタの貨物自動車を使っていたが、すでに部品はなく、皆自己流に修理していた。制空権のない戦場では、昼間の運行はできず、もっぱら夜間の活動を強いられ、前進よりも後進が多かった。英印軍と対峙して敵の銃弾で部下が次々と倒れる様子はまさに壮絶そのもの。最後は食料がなく、軍服もないままの姿で終戦を迎え、英印軍の捕虜となった。その間、同僚や部下たちの日本軍人としてあってはならない浅ましい姿に何度も接し、悔しさにしばしば泣き崩れていた。彼には「天皇の軍隊」という意識が強すぎた。

2011年9月20日火曜日

(1225)ビルマ情報規制緩和 ユーチューブもOK

  18日の朝日新聞によれば、ビルマの軍事政権下ではアクセスできなかった英BBCや亡命ビルマ人らによるメディアDVB(ビルマ民主の声)、あるいは動画投稿サイト「ユーチューブ」などのインターネットサイトが15日ごろから突然閲覧可能になった。2週間前にも一時的に閲覧可能になったことがあり、今回が恒久的な措置なのかは不明。BBCやDVBに対しては国営メディアが連日「憎悪の種をまく」{殺人的」などと批判していたが、現在は姿を消している。民政移管後の新政府は民間メディアに対する政治的な記事以外は検閲を廃止、 テインセイン大統領とスーチー女史が会談した8月中旬からは、スーチー女史の写真や記事の掲載も一部認めた(以上概要)。 最近新政権が相次いで民政化の方向を大胆に示しているが、これらが本物か否かは今しばらく時間が必要で、慎重に見守る姿勢が大切だと思う。

2011年9月19日月曜日

(1224)思い出した 脱北者9人日本に漂流

  9月13日、各マスコミは一斉に脱北者9人が乗った小型木造船が、石川県能登半島近くに漂着したことを報道した。彼らのリーダーは北朝鮮の軍人であると名乗り、生活苦のため韓国を目指していたという。現在は長崎県大村の入国管理センターに収容されている模様だが、ここで思い出すことがある。2007年の6月に同じく北朝鮮の男女4人が小型木造船で青森県深浦港に漂着し、牛久の入国管理センターで一時的に保護された後、韓国に移送された事件があった。たまたま私は収容されてるビルマ人女性に面会するため同入国管理センターを訪問していたのだ。入り口にはパトカーが2台止まっており、上空にはヘリコプターが旋回していた。北朝鮮の4人は、通常の外国人収容施設でなく、本館の入管職員の研修施設にいるらしく、その前後の通路を多くの警察官が歩き回っていた。今回も同じかな?

2011年9月18日日曜日

(1223)読みました 「ビルマ戦記」後勝著

 副題は「方面軍参謀悲劇の回想」、著者は後(うしろ)勝(まさる)氏、2010年7月、光人社発行、326頁、1800円+税。著者は大正3年生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学卒業、昭和19年ビルマ方面軍参謀(後方担当)となり、ビルマ作戦の要務に参画。ビルマ方面軍は20余万人の将兵を抱え、補給、交通、通信、経理、衛生、現地生産、労務などの状況を各師団の本部と連絡を取りながら、実情を方面軍司令部に報告する業務で、彼の場合は自ら各師団本部に赴き、目で確認していた。昭和19年といえば終戦の1年前であり、日本軍はインパールはじめ各地の戦いで敗色が強くなり、退却を続けていた。退却しながらも後方基地を策定し、そこに兵員、資材、食料、車両を集積し、前線から逃げてくる兵士を一時的に受け止める場所を計画的に作っていた。参謀だけあって、広範な「ビルマ敗戦記」を緻密に紹介。

2011年9月17日土曜日

(1222)ビルマ今週のニュース(1130)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★外国メディアサイト等の閲覧禁止が解除、 ★スーチー氏の寄稿文が23年ぶりに国内雑誌に掲載された、 ★国家人権委員会が発足(元官僚など15人で構成)、 ★2010年に禁固8年の有罪判決を受け収容中の亡命メディアDVB記者シトゥゼヤー氏(21)に新たに禁固10年の刑が追加された(14日DVB)、 ★AAPP(政治囚支援協会)によれば8月末現在政治囚は1998人、 ★デレク・ミッチェル米政府ビルマ特別代表・政策調査官が14日までビルマを訪問、外相やスーチー氏らと会談した。訪問後、「国民和解に向けて、政治囚の解放など具体的な行動を早期にとるよう政府に提案した」、「改革にはスーチー氏の参加が不可欠だと感じた」と述べた。 ★クリントン長官も同様に「ビルマ政府が具体的な行動を取ることを望む」と発言。(14日国務省、16日AFP)

2011年9月16日金曜日

(1221)ミャンマー難民8人が来日辞退

  今朝の朝日新聞に「ミャンマー難民8人が来日辞退、第三国定住制度」のベタ記事が載っていた。それによると、9月末に来日予定だった6家族26人のうち、2家族8人が来日を辞退した。「日本での生活が不安」などと理由を説明しているという。出発まで半月を切っており、追加募集は困難。2010年度からの試験期間3年で約30人ずつを受け入れる計画だったが、今年度は4家族18人にとどまる。初年度は5家族27人だった。関係者によると、辞退した家族には乳児がいたり、出産予定があったりで、日本での暮らしに不安を抱いているという(以上概要)。ここに来て日本の「難民鎖国」体質はますますはっきりしてきた。日本農業の少子高齢化は急速に進んでおり、若い彼らに定着してもらうことが国策としても重要だ。思い切った優遇策で彼らを迎えてほしい。そして情報を開示し皆が笑顔で暮らせるように。

2011年9月15日木曜日

(1220)ビルマ国会の現状は意外と・・・②

  テインセイン大統領は8月19日スーチーさんと会談、スーチーさんは「大統領は真の肯定的な変化を臨んでいる」と評価した。両者の会談後、街中にスーチーさんのポスターが貼られるようになった。軍政に反対する立場を明確にしてきた亡命ビルマ人らを中心としてきたメディアですら、議会を部分的に評価している。USDPヤンゴン支部長のアウンテインリン議員は、我々はミャンマー式「規律ある民主主義」を目指すと語ったが、SPDCのスローガンと同じだ。タンシュエ氏については「完全に引退している」と。米国のミッチェル特別代表は民主化を「口だけでなく実行するかで判断する」とし、日本政府は「新政権との関係を築き民主化の進展を促す」との姿勢。一部に限定している政府の途上国援助の本格再開に向け、農業、保健、教育といった分野での新規案件を検討。一部からは慎重な対応を求める声もある。

2011年9月14日水曜日

(1219)ビルマ国会の現状は意外と・・・①

  9月14日の朝日新聞1面・13面にビルマ国会の様子が掲載されていた。先月22日に始まった第二回国会の取材が、一部メディアに初めて許可されたのだ。下院議員の議席は440、総選挙で選ばれた4分の3は各出身民族の伝統衣装姿で、残りはカーキ色の軍人枠の議員。政府に批判的な発言でも議場で拍手が起きた。ビルマ人ディレクターも「これだけ自由に討論するとは」と驚く。市民も「政治の記事がずいぶん増えよい変化だ」とコメント、さらに質問しようとすると警察官が近づいてきた、監視の目は続いている。ある無所属議員が「大統領に囚人への恩赦を求めるべきだ」と発言、以前なら逮捕の可能性もある発言だが、トゥラシュエマン議長は「賛同者はいるか」と問いかけ、軍人議員からも2人が賛成した。内務相は議長に促され、大統領へ提案内容を報告すると約束、内容はマスコミで流れた(続く)。

2011年9月13日火曜日

(1218)ヤンゴンに戻った後に拘留

  9月6日のイラワディ紙によれば、8月17日テインセイン大統領は、亡命者に帰国を促す声明を出したが(1193)、その後帰国したセインチョーライン氏(BBCビルマ語担当、ラジオフリーアジア勤務)がヤンゴンで拘留された。彼は、メソットでビルマ当局者と帰国について相談し、入国を実施したといわれている。一方テインセイン大統領の発言は、「国軍支配に抵抗して海外に亡命したビルマ人に対して、彼らがいかなる犯罪も犯さなかったならば、帰国できることを確認するために我々はチェックする」というもので、ここで言う「犯罪」の定義は未確認のままである(以上概要)。テインセイン大統領の発言は、在日ビルマ難民にも大きな影響を与えたが、今回のセインチョーライン氏の拘留や、先のネイミョージン元国軍大佐が献血運動に尽力したのに、禁固10年の刑を受けたこと(1206)は軍政時代と変っていない。

2011年9月12日月曜日

(1217)汚職国家 ビルマは最下位から2番目

  各国の汚職行為を監視するドイツの非営利団体「トランスペアレンシー・インターナショナル」は9月3日までに最新報告書をまとめた。ここで言う汚職とは、公的権限を悪用して私利を得る行為と規定している。178カ国・地域の公共部門を対象に0(非常な汚職体質)から10(極めて清潔)までの汚職指数を基にまとめたもので、首位のソマリアは1.1、以下アフガニスタンとビルマが1.4、イラク1.5、スーダン、トルクメニスタン、ウズベキスタンが1.6。逆に汚職と最も縁遠いとされたのはデンマーク、ニュージーランド、シンガポールの9.3、以下スエーデンとフィンランドの9.2、カナダ8.9、オランダ8.8、スイス8.7などと続いた。米国は7.1で、22位、日本は7.8だった。中東、北アフリカ諸国では、リビアが2.2、シリアが2.5、イエメン2.2、エジプト3.1、チュニジア4.3だった(以上)。日本は威張れないな。

2011年9月11日日曜日

(1216)平岡新法務大臣がやること

  昨日鉢呂経産大臣が急に辞任し、どじょう内閣の前途が早くも懸念されている。ところで私は新法務大臣の名前をここで初めて知った。新大臣は、首相から指示された次の6つの重要テーマを取り上げるという。①司法制度改革の推進、②検察改革、取調べの可視化など刑事司法制度の構築、③新たな人権救済機関の設置、④ハーグ条約加盟に向けた検討、⑤行政事件訴訟法の検討、⑥会社法制の整備についての検討となっていた。その後記者との質疑応答があったが、内容は、朝鮮学校の無償化、A級戦犯、小沢元代表の党員資格停止処分、死刑問題、被災地の復興など。私が期待した入管問題、難民問題などには全く触れられておらず、がっくりするのみ。今年6月20日難民の日に民主党黒岩議員が「難民認定行政を新機関で」とぶち上げたが、平岡新大臣は忘れてしまったようだ。やる気あるのかしら。

2011年9月10日土曜日

(1215)「学校と私」欄にマリップ・センブさんが

  9月5日の毎日新聞の「学校と私」欄にマリップ・センブさんの談話が載っていた。要約以下の通り。私はシャン州で生まれたカチン族です。両親は公務員で5人兄弟の4人目でした。学校にはあまりいい思い出がありません。母に無理やり行かせられましたが、どうしても勉強が好きになれず、成績も悪かったです。しかし中学時代に転機が訪れました。それは祖母の村に遊びに行ったときのこと、国軍が突然中学校に来て、その学校で唯一ビルマ語が喋れる先生を殺したという話を聞いたのです。どうしてこんな理不尽な目に遭わなくてはならないのか、このままでは軍のやりたい放題ではないか。この現状を世界の人々に知ってもらおうと、国際機関への就職を目指して中学3年から猛勉強、大学進学もしました。今は母があれほど厳しく勉強しなさいといったのか理解できます。学校は人生を学ぶ重要な場所です。

2011年9月9日金曜日

(1214)読みました 「ビルマ戦線従軍物語」

  著者は石毛比呂志氏、発行:千葉交友倶楽部、発売:新風舎、2006年1月発行、135頁、1300円+税。著者は1924年生まれ、昭和18年武蔵野高等無線電信学校卒業、陸軍高空本部嘱託、南方航空輸送部隊勤務となりビルマ戦線に従軍、昭和21年に帰国、千葉県庁に勤務した。私は多くのビルマ戦記を読んだが、本書は少し変わっている。通常の戦記ものは、ビルマ上陸から帰国まで、時系列的に書いていくが、この書では、インパール作戦の話題の次に突然「ビルマの竪琴」の話題に飛び、泰緬鉄道の話の後に東京の日本ミャンマー協会の話題に変わる、おそらく思いついたテーマを自由自在に記載している感じだ。しかし読み終えると比較的気軽な戦記ものにまとまっているから不思議だ。文中、私の親戚の名前も出てくるので著者に親近感を覚える。ビルマ人の親日的感情も随所に紹介されている。

2011年9月8日木曜日

(1213)読みました 「はじめてのミャンマー語」

 著者はチェリー・マーラー・トゥィン、副題に「街・観光地で簡単な会話ができる」、「ミャンマー文字が読める」、「すぐに使える基本会話フレーズと現地の少数民族の7言語も掲載」とたくさん並んでおり、おまけにCD付だ。2004年11月、明日香出版社発行、206頁、定価2415円。国民の7割を占めるビルマ族の言葉がミャンマーの公用語となっており、8割の国民が理解できるという。通常のミャンマー語(ビルマ語)のテキストや参考書は、ビルマ語だけの説明に終わっているが、本書にはビルマ族以外の少数民族の7言語にも触れており、あえて「ミャンマー語」とうたっている。ところで著者は、私が1995年にビルマ語を習った時の先生であり、当時は学習院大学や早稲田大学院の学生であった。ビルマ人女性はお酒を飲まないが、彼女は我々とよく居酒屋で討論(?)していた。あの時もっと勉強していればと後悔。

2011年9月7日水曜日

(1212)読みました 旅名人ブックス「ミャンマー」

  この書籍の副題は「仏教遺跡の宝庫を歩く」、旅名人ブックスの63番目、著者は邸景一(文)・武田和秀(写真)、日経BP社、2003年12月発行、220頁、1800円+税。ミャンマーの旅行案内書は数多くあるが、この本はテーマをはっきりさせた上で、カラー写真を豊富に使って心が洗われ、癒される旅を紹介している。見ただけで旅行したくなるような編集である。第1章:ミャンマーを知る、第2章:ヤンゴンとバゴー、第3章:バガンとポッパ山、第4章:マンダレー、第5章:インレー湖とその周辺、第6章:ミャンマーのホテル、第7章:旅の便利帳と続く。何しろたくさんの美しいカラー写真が目に飛び込み、おそらく誰が読んでもミャンマーへ行きたくなるであろう。私は10数年前に4回各地を回っただけだが、いま読み直してみて、どの頁からも懐かしさがあふれ出てくる。巻末のビルマ王朝の歴史もよく整理されている。

2011年9月6日火曜日

(1211)ミャンマー関連書籍 100冊書評集の夢

 ビルマ問題に首を突っ込んで16年、ささやかでもいいから、後世に残せる事業をしてみたいと考えるようになった。まもなく迎えるであろう人生の最終章、何かいいテーマはないかしら・・・いろいろ考えているが、手っ取り早くできそうなのが、 このミャンマー関連書籍・100冊読破と、それに基づく「書評集」の作成。というのは、既に数十冊の書評は「みんがらネットワーク会報」や、「きらく会会報」に掲載しているので、それらを基に追加していけば無理なく出来上がりそうだ。行きつけの習志野市図書館で、ビルマ(ミャンマー)で検索してみると、180冊出てきた。もっともこの中には、比留間とかビル・マッキンレー、ビル・マーチン、手作りビールマニュアルなど、ビルマと読み取れる無関係書籍もあった。また、なぜか全然関係なさそうな書籍名も散見したが、これらを除いても百冊以上はありそうだ。さあ頑張らなきゃ。

2011年9月5日月曜日

(1210)ビルマからの手紙⑧

  8月22日の毎日新聞を家内が新聞販売店から買ってきてくれた。古新聞なのに130円取られたと家内がぶつぶつ言うが、私にとっては、1300円の価値だ。この新聞には、スーチーさんの「ビルマからの手紙⑧」が掲載されている。見出しには「休暇が休暇でなくなった寺院への参拝」、「王朝の君主に学ぶ」とあった。前回の予告(1173)どおり、彼女と息子はたまの休暇を親子で過ごすべくバガンの遺跡を訪問した。遺跡は、形あるものの無常と衰退の例証となっている。バガンを治めたたくさんの王の中で、スーチーさんの心を捉えたのは、チャンシッター王であり、彼が建立したアナンダ寺院は、まさに精神的遺産を見つめる感じだ。マヌーハ寺院では、モン族の王が建てたとされており、囚われの重苦しい雰囲気を醸し出している。ここで民族間の調和と全政治囚の解放を勝ち取る・・・休暇は休暇でなくなる。

2011年9月4日日曜日

(1209)結果待ちの難民申請者は2000人

  8月27日の読売オンライン(関西発)によると、日本への難民申請者のうち、結果待ちは2000人。昨年難民申請した外国人は1202人であり、10年前の5倍、難民申請中の外国人の就労は認められず、法務省は申請者の生活困窮が治安悪化にもつながりかねないとして対応を検討している。昨年の申請者は、ミャンマー人が最多の342人、次がスリランカの171人、07年以降両国で政情が悪化し、同じアジアの日本に頼る傾向が高まっている。一方認定審査の期間は母国での迫害の有無を慎重に見極めるために、1-2年かかるという。このような結果待ちの申請者は2000人、生活保護も受けられない。法務省は08年以降ミャンマー人を中心に、毎年300人以上の在留を人道的措置として特別に許可、さらには第三国定住制度も導入している。スリランカの一人は、「日本にいても、帰っても地獄」となげく。

2011年9月3日土曜日

(1208)いろいろあった土曜日

  久しぶりにA君と四谷駅で会った。かれは(1206)で紹介した元国軍大佐の実兄である。弟がヤンゴンの刑務所に収監されたため、居ても立ってもいられず、何とかその不当性を世に訴えたいという。兄弟愛としては当然のことと思うが、時間も十分あり、行動は慎重にと伝えた。帰宅後周辺の人にも聞いてみて、いろいろ参考になる意見を沢山いただいた。この場を借りて御礼を申し上げたい。会合場所をなぜ四ッ谷駅と指名したのか、実は友人の勤める職場の近くということだったが、なんと今日が土曜日ということをすっかり忘れ、もちろん友人と会うことはできなかった。82歳の老人が、毎日自宅にいると曜日の観念がすっかりなくなり、とんでもないミスを犯してしまった。今日はこのほか、難民と認定されたビルマ人女性より、就職の難しさを聞かされた。日本人でも超氷河期なので、難民への「就活」が必要だ。

2011年9月2日金曜日

(1207)ルポ:未知なるミャンマー

  8月30日の毎日新聞6面に、「ルポ:未知なるミャンマー」が掲載されていた。今回の見出しは「軍政幹部、女装で厄払い」、「占師がお告げ:女性政権誕生」、「スーチーさんにおびえ」、「国父将軍も人気衰えず」と沢山並んでいる。占師が「近く女性による政権が誕生する」と政権幹部に告げ、それを信じた幹部らがロンジー姿で女装し、いったん女性政権ができたことにして、「厄払い:ヤダヤ」が済んだということらしい(注:ちょっと信じられないがホントらしい)。街を歩いてもスーチーさんのポスターも、書物も見られない。でも国父でありスーチーさんの父でもあるアウンサン将軍の人気は高い。書店街を覗くと、将軍の伝記が露店でも一日100冊は売れるという。一方で、政府は紙幣に印刷されている将軍の写真を別の絵柄に変えだした。娘のスーチー女史におびえてる。 このシリーズは今後も随時掲載されるようだ。

2011年9月1日木曜日

(1206)元国軍将校、電子通信法違反で禁固10年

  8月30日付のアジアプレスネットワークによれば、ビルマ国内でボランティア活動を行っていた元国軍将校ネーミョージン氏(35)が26日、電子通信法違反で禁固10年の判決を受けた。ネーミョージン氏は、元国軍大尉(大佐?)で、2005年に退役、、インターネットカフェを経営しながら、NLDの青年らが09年に結成したボランティアグループとともに、貧困にあえぐ人々を支援する活動を行ってきた。4月2日ヤンゴンの自宅で警察公安部に逮捕され、同氏の電子メールにNLDのウインティン書記宛の文書も含まれていたという。裁判所で判決を読み上げられたとき、同氏は「国のためを思っている青年に対しまったく不当なもの、控訴もしない」と述べたという。タイ国境で活動するビルマ政治囚支援協会(AAPP)によれば、1995人の政治囚が拘束されたまま。同氏はテインセイン大統領になって最初の政治囚。