2013年4月30日火曜日

(1813)無国籍問題解決を提言

  4月30日の朝日。ミャンマー西部ラカイン州で昨年、多数派の仏教徒ラカイン族とイスラム教徒のロヒンギャ族が衝突した問題で、ミャンマー政府の調査委員会は29日、ロヒンギャ族の無国籍問題に早急に対処するよう政府に求める報告書を公表した、ロヒンギャ族はバングラデシュからの不法移民とみなされ、国籍を持たないが、報告書は「国籍を与えられて初めて責任ある市民として他の国民と共存できる」と強調した。ただラカイン族には、ロヒンギャ族への国籍付与に対して強硬な反対がある(以上)。この問題は、ロヒンギャ民族のみならず、イスラム系住民に対しても同様なトラブルが各地で発生している。当面、同国内で発生した住民同士の争議だ。新生ミャンマーにとり、最大の問題。最近動画で見たが、僧侶がイスラム信徒を攻撃していた。最悪だ。

2013年4月29日月曜日

(1812)政治犯ら93人を追加釈放

  4月23日のMSN産経ニュース。ミャンマー政府は23日、テインセイン大統領の恩赦により、国内の刑務所で服役中の受刑者93人を釈放した。この中には3人の外国人が含まれており、本国に送還されたという。元学生活動家のグループによると、このうち少なくとも6人が政治犯という。ミャンマーでは2011年3月の民政移管以降、軍事政権時代に民主化勢力を弾圧し、政治犯らに長期刑を科す根拠となる法律を撤廃、民主化に見合う法整備を進めている。対ミャンマー制裁を科してきた欧米諸国は、制裁解除の条件として、ミャンマー政府にすべての政治犯の無条件釈放を繰り返し要求した。ミャンマー政府は今年2月、委員会を設置し、追加釈放に向けた調査を行ってきた。別の民主化支援団体によると現在も2百人以上の政治犯が刑務所にいるという。

2013年4月28日日曜日

(1811)読了149冊目:「ビルマ最前線(1)」

  著者は宮部一三、昭和55年(1980年)7月・叢文社発行、280頁、1500円。著者は入営後士官学校を卒業、少尉として活躍。ウインゲート空挺部隊との交戦、ミットキーナ救援、クレ高地の死闘、メイクテーラ会戦等、敗色濃い友軍の救出作戦に力を注いだ。その各時点での戦闘内容とともに、兵士らが作った短歌などの辞世の作品を紹介している。また終戦間際に投下された数多くの投降勧告ビラの内容紹介は詳しい。無条件降伏後の収容所生活も赤裸々に記されている。特に現地ビルマ人の親切さにはホッとさせられる。圧巻は現地で戦争犯罪人として指名された人々の獄中の叫びだ。あまりにも杜撰な戦犯指名方法には憤りを感ずる。この物語は、収容所でひそかにトイレットペーパーに書き残した一下級将校の初公開作品だ。続編も読んでみたい。

2013年4月27日土曜日

(1810)首相、ミャンマー訪問検討

  4月27日の朝日。安倍首相は5月下旬にミャンマーを訪問する検討に入った。この時期に調整していた日中韓首脳会議が先送りになり、新たな訪問先を検討、テインセイン大統領と会談し、民主化支援や経済協力について意見交換する考えだ。現職首相の訪問は、1977年の福田赳夫氏以来36年ぶり。安倍政権はインフラ輸出など「経済外交」でミャンマーを重視し、政府の途上国援助(ODA)をテコに日本企業の進出を後押しする方針、首相自身の訪問により、ミャンマーと関係の深い中国を牽制する狙いもあるとみられる(以上)。程としては5月25・26日のようで、4月中旬にはスーチー氏を招待し、東京で会談したばかり。ミャンマーを重視していることがよく分かる。なお6月には、G8首脳会議(英国)及びポーランド、スロバキア、ハンガリーを訪問予定。

2013年4月26日金曜日

(1809)読了148冊目:「ビルマの死闘」

  原書房・100冊選書の一つ。著者は越智春海(陸軍大尉)、昭和42年(1967年)・原書房発行、297頁、450円。目次は、第1章:方針無き戦線拡大、第2章:連合軍の先制攻撃、第3章:インパールの悲劇、第4章:「昆」集団の奮戦、第5章:敗走また敗走。本書はビルマ作戦全期を展望している。ビルマは陸の決戦場と呼ばれたが、その実態は余りにも痴呆状態だった。忠良な日本国民が、なんと夥しく乱戦死闘の果てに、散っていった。日支事変で成功した「敵を包囲して歓声を上げて突貫すれば、必ず勝利する」といった迷信みたいな作戦を最後まで捨てず、その都度跳ね返されていた。そもそも制空権の問題、武器・食料の補給路の問題などがあるにもかかわらず、インパール作戦を実行したため、34万人の青年がビルマの土を踏み、帰国者は7万人という。

2013年4月25日木曜日

(1808)日本とミャンマー 最近関係を親密化しているのはなぜ(中国メディア)②

■展望は不透明(昨日に続く)。ミャンマーはいまなお国連の認定する「後発発展途上国」の1つであり、1人当たりの所得は715ドル(約7万円)に過ぎない。先んじてミャンマーを訪れた日本企業は、皆電力不足、道路不足、物流の不整備に不満を訴えた。地価と賃貸料の暴騰にも企業の投資コストをすでに大幅に高め、外国人投資家の自信を深刻な影響を与えている。AP通信はミャンマーへの投資リスクは依然高いとした、電気を使うことのできる人は人口の4分の1のみ。こうしてみると、日本が期待している対ミャンマー投資の動きは、中国やインドに遅れを取っていると分析。このため、経済的利益のために、ミャンマーが政治的に日本に従属する可能性は低い(以上)。ミャンマーにとって最善の方法は各国の間を渡り合って自国の利益の最大化を図ることと指摘。

2013年4月24日水曜日

(1807)日本とミャンマー 最近関係を親密化しているのはなぜ(中国メディア)①

  4月19日のRecord China 。最近日本とミャンマーの政界、経済界は頻繁に交流し、両国関係は親密さを増しいる。1月に麻生副総理がミャンマーを訪問し、債権の解消を発表、外務省は3月28日ミャンマーに510億円の円借款供与を発表、また日本の大手商社はミャンマー事務所の職員を8-9倍に増やし、ティラワ経済特区の建設協力を決定した。2月19日には、日本財団笹川会長が「ミャンマー国民和解担当政府代表」に任命。日本は豊富な石油、天然ガス、労働力、市場などの分け前を狙い、ミャンマーを「民主化模範国家」にすることで、地域における政治大国の基礎の強化を狙う。米国のアジア戦略の側面支持の考えもある。一方ミャンマーは、民主化と経済発展を狙う。スーチー氏は在日ミャンマー人に「日本で学んだことを、祖国建設に発揮して」と講演。

2013年4月23日火曜日

(1806)EU、ミャンマー制裁解除へ

  4月23日の日経電子版。EUは22日の外相理事会で、ミャンマーに対する制裁について、武器禁輸措置を除いて解除することを決める。政治犯の釈放や、報道の自由などの面で、民主化が進んでいることを評価した。EUは昨年4月、制裁の一時停止を決め、政府幹部らのEU域内への渡航や天然資源の取引などを解禁、1年かけて、民主化が後退しないかを判断し、最終的に制裁の解除を決める方針だった。EUは制裁解除で、民主化をさらに後押しするとともに、欧州企業の進出も促す狙いがある。ただ、国内の少数民族に対する人権問題は残ったままで、人権団体からは、制裁解除でEUが改革を促す力が落ちかねないとの懸念も出ている(以上)。スーチ―氏は来日の際、「正しい支援」を望むと強調。日本の支援は「正しい支援」なのか、見直すときだろう。

2013年4月22日月曜日

(1805)読了147冊目:「悲風ビルマ戦線」

  藤井重夫著、1971年8月・番町書房発行、311頁、650円。著者は朝日新聞陸軍報道班員、類書の多くは直接戦闘に加わった軍人の執筆が多かったが、本書は民間人の執筆。内容は①国境線に戦雲動く、②北ビルマ蛮界の密林戦、③難攻不落のモール要塞、④万骨枯るインパール、⑤雲南の全員戦死と続く。主要なビルマ戦線を駆け巡り、特にウインゲート空挺部隊との死闘の様子は凄まじい。また、別見出しで「永遠の愛号」という記事を30頁ほど掲載している。中国雲南省の拉孟(らもう)での戦闘にかかわる話だが、主題は朝鮮系の従軍慰安婦6人の暮らしと、対敵専用の卑猥な絵が描かれたビラの配布活動が描かれている。多分フィクションと思われるが、スーチー氏をはじめ近年社会的に批判されている問題なのでハラハラしながら読み終えた。

2013年4月21日日曜日

(1804)難民という人生 チョウチョウソーさんに聞く

  4月21日の日経電子版。標記の見出しの他「人の痛みに敏感に」、「ミャンマーへ郷愁募る」も。いま東中野で「異国に生きる」との映画が上映されているが、その主人公がチョウチョウソーさんだ。彼は在日ミャンマー難民のリーダーの一人、88年の民主化運動に参加し、身の危険を感じて91年に来日、98年にやっと難民と認定され、バンコクに逃げていた妻を迎えに行き、東京でビルマ料理店を開いた。東日本大震災の時は、被災者支援のために、多くの在日ミャンマー人とともに被災地を3回訪問し、喜ばれた。本当に帰国できたら、小学校の教師になって教育で国づくりにかかわりたいという。現在、ビルマ語雑誌「エラワンジャーナル」編集長であり、NHKビルマ語放送アナウンサーである(以上)。先日の水かけ祭りでは舞台で美声を張り上げ熱唱していた。

2013年4月20日土曜日

(1803)読了146冊目:「自由」

  アウンサンスーチー著、マイケル・アリス編、ヤンソン由実子訳、副題は「自ら綴った祖国愛の記録」、1991年12月・集英社発行、422頁、2000円。この本はスーチー氏のノーベル平和賞受賞が決定したのち、スーチー氏の夫でありながら別離を強いられていた米ハーバード大学客員教授のマイケルアリス氏が編集したもの。スーチー氏が自ら書き、語りかけたものを、第1部(私が受け継いだもの)と、第2部(私はなぜ戦っているのか)に、他の人が寄せてくれた文章を、第3部(アウンサンスーチーを支えるもの)に収録してある。発行前年の1990年の総選挙で、NLDが議席の4分の3を獲得したにもかかわらず、軍は頑として政権の座を譲らず、反対分子を捕え居座り続けている。本書はそのような時期に発行され、「自由」や「民主主義」の大切さを訴え続けた。

2013年4月19日金曜日

(1802)民主化支援で一致 首相、スーチー氏と会談

  4月19日の朝日。安倍首相はスーチー氏と官邸で会談、首相は「改革が進めば豊かになると国民が実感し、改革が進展するような支援」、「国民が選択する国づくりへ、ミャンマーに適した形での支援」、「ODAによるインフラ整備と、民間投資の両輪による支援」、「日本企業の投資をミャンマーの発展につなげる支援」などを表明。一方、17日の東京大学の講演で、スーチー氏は「援助は体制側を強化するだけのものであってはならない」、「NLDが政権を取ったら、日本政府と最良の関係を築ける」とも述べた(以上)。スーチー氏は今日帰国する。今回の来日で、彼女の本音をより多く知ることができ、また、日本人の彼女への関心の高さも知った。一方、彼女は大統領就任を望んでいるが、後継者を育てていない点が不安だ。NLDとして影の内閣を考えてはどうか。

2013年4月18日木曜日

(1801)スーチー氏に現実主義の顔 憲法改正めざし軍に配慮

  4月18日の朝日電子版。スーチー氏は理想を追う民主化運動指導者の印象が強かったが、日本では、妥協の重要性を訴えるなど、現実主義の「政治家」の顔を見せている。17日の東大での講演では、「民主化は国軍が受け入れて初めて不可逆的な変化になる」と言い切った。全議席の25%が割り当てられている軍の協力が不可欠だとの認識を示した。事実、先月末に首都であった国軍記念式典に初めて出席し、その式典でミンアウンフライン国軍最高司令官は「軍は政治を主導している」旨宣言しており、憲法改正に軍が応じる見通しはまだない。スーチー氏は軍とも良好な関係を保ちながら、憲法改正⇒大統領就任を目指している。一方、民族・宗教の衝突問題については、法の支配の確立が不可欠と述べるにとどまった。なお現大統領への批判も若干述べた。

2013年4月17日水曜日

(1800)スーチーさん 東京に戻る

   来日中のスーチーさんの活動ぶりが連日報道されている。4月16日の朝日夕刊。東宮御所で皇太子さまと面会、1983~85年英オックスフォード大留学中、同じ大学にいたスーチー氏夫妻が招かれた夕食会で同席、今回はスーチー氏が皇太子さまへの表敬訪問を希望した。4月17日の朝日。スーチー氏は16日夜岸田外相と会談、同氏はミャンマーの現状を「大きなチャンスであるが危うい時期でもある。良い方向に進むには正しい支援を受ける必要がある」、「政治、社会制度の発展が必要」と説明。岸田外相はミャンマーの進展に支援すると発言。このほか、NHKはじめ各テレビでも数多く放映された(以上)。私のささやかなブログも今日で1800回。この数字に意味があるのかどうかよく分からないが、2008年5月以降約5年一日も欠かさずよく続いたものだ。

2013年4月16日火曜日

(1799)スーチーさん 京都でいろいろ

  来日中のスーチー氏は、4月14日午前京都に到着、05年に初めて1級河川に設置した小水力発電所を視察、そのあと錦市場を訪問した。15日は1985年から約1年間、客員研究員として通った京都大学で講演し、ミャンマーでの女性の政治的な立場を高める必要性などを訴えた、また京大はスーチー氏に「名誉フェロー」の称号を授与した(以上15日朝日夕刊)。15日は、さらに龍谷大学を訪問、学生ら2千人が大歓迎した。そのほか堺市を訪問、茶道裏千家・今日庵で堺平和賞授賞式に参加した(以上16日朝日)。以上のようにスーチー氏は多忙であるが、テレビなどでは、京都のお寺で一休みしたり、楽しそうにお茶を点てたりしているシーンが流れ、外務省も気を使っているなと思う。19日の帰国までのあと数日の間、お元気で日本の春を楽しんでもらいたい。

2013年4月15日月曜日

(1798)スーチーさんの発言が逐一分かった

  13日に来日したスーチーさんは東京渋谷で、2千人近い在日ミャンマー人との交流会に出席し、講演と質疑応答を行った。その状況は、新聞各紙とテレビで報道された。私も1995年からミャンマー人支援活動を続けてきたが、一つの山場を迎え感動した。ところでもう一つ感動したことがある。交流会場でのスーチーさんの発言内容が逐一理解できたことだ。当日私は自宅におり、会場では通訳がつかなかったのに・・・。それはミンガラ日本語教室のN先生とT先生が、それぞれ日本語の上手なミャンマー人(いずれも元生徒・日本語能力試験N1級合格者)と組んで、スーチさんのビルマ語を元生徒が日本語に訳し、それを先生方がFacebookやブログを利用して、我々に流してくれた。公式な発言内容はいずれ外務省が流してくれるだろう。何だか嬉しい一日だった。

2013年4月14日日曜日

(1797)スーチー氏都内で発言 公正な総選挙へ 憲法改正が必要

  4月14日の朝日7頁。27年ぶりに来日したスーチー氏は13日、都内で開かれた在日ミャンマー人との集会で、早期の憲法改正が必要との考えを示した。また、国内で民族・宗教をめぐる衝突が起きていることを念頭に、民族間の融和の重要性も強調した。スーチー氏は「現憲法下では公正な総選挙は出来ない」、「多くの民族が我が国の多様性を形作っている。団結が不可欠だ」と訴えた。また「仕事がないのが我が国の最大の問題なので、仕事を生み出す形の投資を」と要望した。また同紙38頁には「歓迎集会に1700人、在日ミャンマー人」の見出しも。「日本の良いところを学びなさい」、「日本にいても祖国のためにできることを考えてほしい」など(以上)。会場にいたA.N.さんからスーチー氏の発言内容が逐次日本語でフェースブックに報じられ、大感激した。

2013年4月13日土曜日

(1796)社説:スーチー氏来日 民主化を促す支援こそ

  4月13日の朝日社説。NLDの党首スーチー氏が今日、外務省の招待で27年ぶりに来日。軍事政権に計15年間も自宅軟禁されながら、獄中の同志とともに、民主化を訴え続けたその不屈の闘いに敬意を表したい。軟禁解除から2年5か月、民主化の象徴として各地で大きな注目を集めてきた。一方、1年前に下院補選で当選して以来、政治家として困難な現実に直面し、批判も聞かれる。例えば、少数民族問題への消極的な対応、銅山開発の問題で現地からの怒号、軍人参加の式典で「軍が好きだ」との発言、イスラム教徒と仏教徒との騒乱など。忘れてならないのは、軍政時代日本の政財官界は、欧米に比べて民主化勢力への支援に消極的であった。いま日本は、企業進出を競っている。国民の生活レベルを高め、民主化を後押しする支援に知恵を絞ろう。

2013年4月12日金曜日

(1795)スーチー氏 来日の胸中は

  4月12日の朝日。標記のタイトルのほか、「27年ぶり、明日到着」、「85年京大で研究」、「軍政時代、日本に不信?」などの見出しが並ぶ。スーチー氏が日本政府の招待で、明日13日から19日まで滞在する。民主化のさらなる進展や、国民生活向上のための支援を、日本に要請する見通しだ。85年から約1年間、京都大学の客員研究員として日本で暮らした経験もある。13日は在日ミャンマー人との交流会、15日は関西在住ミャンマー人との交流会と京都大学、龍谷大学での講演会、16日は参院議長らを表敬訪問、17日は東大での講演会と日本のNGO団体との交流会及び記者会見、18日は衆院議長らを表敬訪問、19日帰国の予定(以上)。待ちに待った来日だ、私が首を突っ込んだのが1995年、18年目にしてこのような輝かしい日を迎え、正に感無量だ。

2013年4月11日木曜日

(1794)大和、ミャンマー証取開設で、人材支援 東大大学院と連携

  4月8日の日経電子版。大和証券グループ本社は東京大学大学院と連携して、ミャンマー政府の若手幹部職員らを10月から日本に招き、証券市場について学ぶ機会を提供する。証券法制や資本市場の仕組みに詳しい幹部職員を増やすことで、ミャンマーが進める証券取引所の開設準備を後押しする。具体的には、ミャンマーの財政歳入省や、中央銀行で働く20~30代の若手や、ミャンマーがこれから設立する証券市場を監視する行政機関からも招く方針。半年の期間で、1回につき3~5人を受け入れていく。東大大学院でアジア各国の証券関連法制の他、「マクロ経済学と資本市場」などの講義を予定。大和は1日付で「大和日緬基金(年間5千万円)」を設立し招待費用を拠出。経団連は2月、ミャンマーの日系企業で活躍できる人材の育成を支援すると発表。

2013年4月10日水曜日

(1793) ミャンマー難民帰還候補地に調査団

  4月4日のNHKニュース。長年にわたる内戦で大量の難民が出たミャンマーの少数民族地域で、日本からの調査団が将来、帰還してきた難民を受け入れる候補地を本格的に調べ始めた。この調査は、ミャンマーにおける民主化の進展に伴って、国外で暮らす40万人とも言われるミャンマー難民の間で、帰還しようという機運が高まったことを受けて、JICAが行う。3日、60年以上内戦が続き、大量の難民が発生したカレン州北部に初めてJICAの調査団が入った。そして受入れ候補地になっている地区のリーダーを集め、難民を受け入れる住居や、内戦時代に埋められた地雷の数などを聞き取った。この地区のリーダーは長期的に働けるよう仕事づくりへの支援を要望。調査団長は「戦闘が激しかった地区も状況は好転しており、有効な支援につなげたい」と強調。

2013年4月9日火曜日

(1792)民主化で復活の息吹(人形劇)

  4月8日の朝日。ヤンゴン郊外の国立芸術文化大学での操り人形を専攻する学生の授業風景の紹介記事。この大学は伝統舞踊や美術などを学ぶ芸術系の最高学府として20年前に創立、だが軍事政権は、学生の反政府運動を抑えるため大学を首都から郊外に相次いで移転させた。この大学も1996年、20キロ離れた現在地に移った。民政移管して2年、キャンパスにも新しい風が吹き、新入生も2ケタに。一方マンダレーは操り人形が生まれた町で、かつては数グループが人気を競ったが、いまは1グループのみ。88年のクーデターで始まった軍政下で、公演が困難になったのだ。この道60年のパンエーさん(82)は、「伝統文化を絶やさないように頑張らなければ」という(以上概要)。私も現地で数回見たが、話の筋がわからず困惑。観光客対策も考えて欲しい。

2013年4月8日月曜日

(1791)日比谷公園で水かけ祭り

  4月7日、日比谷公園小音楽堂周辺の広場で、恒例の水かけ祭り(ティンジャン)が開催された。天気予報では爆弾低気圧のため大雨、強風への警戒情報が頻繁に流され、外出を控えた人も多かったのでは。参加者の声がいろいろ聞こえてくる。演壇で歌う「時の人」チョーチョーソーさん、彼がこんなに歌が上手とは知らなかった。例年に比べさらに元気が出てきたような、アウントゥーさんらの掛け合い漫才、渡辺弁護士とウ・シュエバに「みんがらネットワーク会報」を預けて、来週来日するスーチーさんに渡してもらうように託したこと、会いたかったニャン君に会えたこと、宇田有三氏からサイン入り写真集2冊を購入できたこと、岡田さんに「きらく会会報」を渡せたこと、「ミンガラ日本語教室」のブースの売り子り声が活力に満ちていたことなど、素晴らしいお祭りだった。

2013年4月7日日曜日

(1790)スーチーさん来日 ヒロインが背負う重い現実

  4月7日の朝日(ザ・コラム)欄。今日日比谷公園で多くの在日ミャンマー人が集う。彼女は13日に来日、東京で大規模な歓迎式典があるが、歓迎の輪に背を向ける人たちもいる。カチン民族機構(日本)のメンバー約280人は、式典に出ないと決めた。北部カチン州で一昨年6月、政府軍が17年続いた停戦を破り、自治組織を攻撃した。彼女はこの事態に言及していない。歓迎の輪に加わりたくてもかなわぬ人たちもいる。ロヒンギャ族だ。政府はロヒンギャ族を不法移民として国籍を与えていない、暴動をきっかけに仏教徒やビルマ族は、彼らに強い拒絶反応を示す。彼女が政治の世界に足を踏み入れたことで、かつての同志から、「落胆」や「失望」の声も上がる。銅山開発問題では、住民から怒声を浴びた。理想を実現するための隠忍自重の毎日かもしれない。

2013年4月6日土曜日

(1789)本邦における不法残留者

   法務省入国管理局3月27日発表。平成25年1月1日現在の本邦における不法残留者は62009人で、前年に比べ5056人(7.5%)減少した。国別では韓国156百人、中國77百人、フィリピン57百人、台湾40百人、タイ35百人、マレーシア21人、シンガポール13百人、ペルー11百人、ベトナム11百人、スリランカ10百人。次に、不法残留となった時点での在留資格は短期滞在439百人、日本人の配偶者等42百人、留学28百人、興業24百人、定住者20百人。次に不法残留者のうち、すでに退去強制令書の発付、または出国命令書の交付を受けている者は3030人で、難民認定手続き中の不法残留者は913人(以上概要)。不法残留者の国別ワースト10の中に、ミャンマーの国名はなく喜ばしいが、少数とはいえ難民認定手続き中の残留者がいる。

2013年4月5日金曜日

(1788)ロヒンギャ民族 避難民に長期隔離の恐れ

  3月26日のヒューマン・ライツ・ウオッチのリリースより。ミャンマー政府はアラカン州のロヒンギャ・ムスリムに関して、人道援助を組織的に規制し、差別的な政策を継続している。同国政府は、人道機関に自由なアクセスを与え、ムスリム系住民への援助を許可し、隔離政策をやめるとともに、避難民の帰還計画を推進すべきと発表。12年6月以降のアラカン民族による一連の暴力には、州治安部隊と州職員が後押しをしており、12万5千人のロヒンギャ族と、カマン民族ムスリムが元の土地に戻れず、人口兆密なキャンプでの生活を余儀なくされている。彼らの大規模キャンプはシトウエーに15か所ある。複数のキャンプは低地にあり、これから雨期に入り、トイレがあふれ、感染症の蔓延が懸念される。シットウエ―市内では、ムスリム住人は完全に隔離されている。

2013年4月4日木曜日

(1787)チョーチョーソーさんの記録映画

  東京の在日ビルマ人の中で、チョーチョーソーさんを知らない人はまずいない。彼の14年間の記録が映画「異国に生きる」となり、3月30日から東京の「ポレポレ東中野」で一般公開される。監督・制作は土井敏邦氏、4月3日の夜のNHKBS1でも紹介された。またこのブログ(1778)でも紹介した。土井監督は、日本でのチョーチョーソー氏の生き方の「まっすぐさ」に驚いたという。彼は自分のためだけに生きることもできるが、一番大切なことは「他人の痛みを感じ取ること」、「ビルマで暮らす同胞たちは自由も豊かさもない、自分だけそのチャンスを独り占めすることはできない」。単なる記録映画ではない、日本人が自身の生き方を映し出し、自らに問いかける(写し鏡)なのだ。離れ離れになった妻(ヌエヌエチョーさん)や、年取った父上との再会シーンがすごいと聞く。

2013年4月3日水曜日

(1786)2012年の難民認定者数等に関する声明

  標記の件、(1772)に取り上げたが、4月2日に全難連(全国難民弁護団連絡会議)は声明を発表。18人という難民認定者数、0.56%という難民認定率、4.07%という庇護率が、他の先進国の水準に比し、著しく少ない。また、日本での申請者数の多い国籍のうち、ミャンマー以外の難民認定者がいずれも0人であるという状況を鑑みれば、日本における難民認定制度は、もはや機能していない。このような問題点について、国際機関などから指摘されてきたが、最近の難民認定者数の水準は、参与員制度導入前に戻っており、同制度の導入が、日本の難民認定制度の改善に繋がっていない。全難連は、難民条約の実質的な履行確保のために、国際難民法の水準を踏まえた抜本的な制度改革を求めると共に、難民を支援する関係機関・団体と協力していく。

2013年4月2日火曜日

(1785)ミャンマー、民間の日刊紙復活

  4月1日の朝日から。ミャンマーで1日、民間の日刊紙がほぼ半世紀ぶりに復活した。この日に発行されたのはビルマ語紙4紙だが、政府は16紙に発行許可を出している。改革を進めるテインセイン政権下で、言論の自由が広がっている。発売が開始されたのは、民間企業が発行する「ボイス」、「スタンダード・タイム」、「ゴールデン・フレッシュ・ランド」と、与党・連邦団結発展党の「ユニオン」で、一部150~200チャット(約15~20円)。ヤンゴンでは早朝、街角のニューススタンドに新聞が届くと、短時間で売り切れたという。同国では1962年に軍がクーデターで権力を握って以降、新聞社の弾圧や国有化が進み、60年代末には国営紙だけとなった。出版物の事前検閲制度が続いたが、テインセイン大統領は昨年制度を廃止。民間の週刊誌の発行が増えていた。

2013年4月1日月曜日

(1784)ミャンマーの難民たらい回し、日本が打開を

  4月1日の朝日「風」欄。木造の漁船に130人のロヒンギャ男性を載せて1月10日にラカイン州を出港、2月19日にスリランカ海軍が発見したときの生存者は僅か33人、救出された人はコロンボの入管施設に収容された。昨年6月と10月、ラカイン族とロヒンギャ族の民族衝突が起こり、住民同士が襲撃や放火を繰り返し、170人以上が殺され、10万人が避難民となった。今年に入り船で脱出したロヒンギャ住民は7千人、タイ、マレーシア、インドネシアに向かった。しかしミャンマー政府の対応は鈍い。初の外遊先に東南アジアを選んだ安倍首相は、基本的人権尊重などを外交の原則にうたうが、次は行動だ。日本の代名詞「NATO」(有言不実行)を返上するためにも(以上)。例の第三国定住もできない日本には到底無理、今度も「NATO」という恥の上塗りだ。