2009年12月31日木曜日

(599)2009年を振り返って

(2009年12月31日)
 月並みだが、2009年は激動の年であった。ビルマ問題は米国オバマ政権が関与政策に切り替え、スーチー氏がこれに同調して従来の方針を転換した。このためビルマ本国での軍政反対グループの戸惑いが拡大し、シュエゴンダイン声明を発表したもののその落としどころが不明なまま停滞している。その結果、在日ビルマ難民たちもその影響を受けて気持ちの整理ができない状態だ。入管政策についても、民主党政権の友愛精神に大いに期待したのだが、逆に管理が厳しくなっている。次に私ごとだが、「黄色靭帯骨化症」と診断され、13年続けた「ミンガラ日本語教室」の業務を後輩に譲り、また2年近く続けた「在日ビルマ難民たすけあいの会」からも感謝しつつ手を引いた。共に申し訳ないが健康あってのボランティア活動であり、しばらく病状の進み具合を睨むことにした。今後の活動は自作マニフェストで進める。

2009年12月30日水曜日

(598)ネーウインの顔と似ている?

(2009年12月30日)
  年末なので書斎の大掃除を始めているが、本の間に古いビルマ関連の切抜きが出てきた。97年、98年の記事で枚数にすると3・40枚、記憶にない記事ばかりだ。今日あらためて読み出したが、その中には中西修氏の投稿もあった。私が神田でミンガラ日本語教室を始めた頃、同氏はヤンゴンでWIN日本語学校を始めた因縁で、旧知の間柄である。その頃のWIN日本語教室の情景やヤンゴンでの市民生活の様子がよくまとまって書かれている。また、やはり旧知のアジ研の工藤年博氏の記事「ミャンマーは経済発展が先か民主化が先か」も面白い。同氏も私たちと一緒にビルマ語を学んだ仲間で今もビルマ問題で活躍中である。その他ネーウインの名前や写真が頻繁に出てくるが、私の顔がネーウインの顔と似ているという話をビルマ人からよく耳にする。しかし当時の彼の写真を見ると私のほうが遥かに好男子である。

2009年12月29日火曜日

(597)ERIKO SCHOOL

(2009年12月29日)
  27日の読売朝刊(地方版)に「記者ノート2009」という欄があり、「娘の名 異国の学校に」というタイトルがあった。恵里子さんという日立製作所勤務の英語堪能な女性が南米ボリビアで事故死したが、その父親が思いを綴った本を紹介した記事だ。5年前に父親と恵理子さんがビルマを訪問、泊まったホテルの経営者アンさんと意気投合し、さらに2年前に今度は両親だけでこのホテルを訪問、アンさんから近所の小学校取り壊しの話を聞き、新しい小学校建設の資金をアンさんに託した。その後恵理子さんの悲報を聞いたアンさんから「小学校に恵理子さんの名前をつけたい」と申し出があり、父親は3たびビルマを訪問、他の宿泊客の援助も得て完成した木造校舎に「ERIKO SCHOOL」の名前を見た。父親は、「恵理子の名前を冠した学校ができる、そのことが心の傷を癒してくれた」と著書に記していた。いい話だ。

2009年12月28日月曜日

(596)ビルマ最前線 白骨街道生死の境②

(2009年12月28日)

  昨日に引き続きこの悲惨な戦記について感想を書く。この時期私はどうしていたのだろうか。終戦当時の私は17歳、都立5中(現在の小石川高校)に在学中だったが、その1年ほど前から学徒動員で板橋の造兵廠で鍛造工として働いていた。重い鉄の塊を炉に入れ、真っ赤にしてからハンマーで叩く仕事だ。ここは日本で有数の軍需工場なので、米軍機から爆弾を落とされ、その都度防空壕に逃げ込んでいた。昭和20年3月の東京大空襲の時には私の家(当時豊島区千川)のすぐそばまで焼け野原になった。今回読んだ戦記の著者は私より5歳年上、まさに生死の境を経験した方だが、国内に残っていた私たち市民も食べるものがなくなり、多少なりとも同様の経験をしてきたのだ。だから私たちの年代の人はこの戦記に共感を覚える。平和論議がいろいろ言われるが、まずこの書を読んでから議論を始めたらいかが。

2009年12月27日日曜日

(595)ビルマ最前線 白骨街道生死の境①

(2009年12月27日)

  昨日に続ききょうもビルマ関連の本を読んだ。昨日のは心温まる民話であったが、きょう読んでいるのは副題にもあるような悲惨な物語である。題名は「ビルマ最前線」、副題が「白骨街道生死の境」。著者は小田敦巳氏、光人社発行、発行日はなんと2010年1月20日(まだこれからだ)、定価760円。1943年9月に兵(つわもの)兵団の2等兵としてラングーンに上陸、1945年8月下旬終戦を知り、以後英印軍の俘虜となり1947年7月帰国、復員。その間イラワジ河渡河、ブローム街道突破、ペグー山系、マンダレー街道突破、シッタン河渡河など、敵弾、飢餓、雨、屍・・・・。想像を絶する敗残兵の姿を赤裸々に描いた鎮魂の戦記だ。20代の若者が祖国の繁栄と家族の平安を願い、無念の思いを残し散っていった白骨は朽ち果て、今も灼熱の太陽と風雨に曝されている。ビルマを語る原点がこの戦記にある(続く)。

2009年12月26日土曜日

(594)「ヤンゴン河の虹」が面白い

(2009年12月26日)

  今私は「ヤンゴン河の虹(ミャンマー民話集)」を読んでいる。原作者はマウン・フティン・アウン氏で翻訳者が野口栄一郎氏、2003年12月、文芸社より発行、定価1000円、野口氏は98年にヤンゴンに滞在し、WIN日本語学校で日本文化とビジネス日本語コースを担当していた。彼のあとがきによれば、ミャンマーの民話を探しに古本屋を訪れ、たまたま50年以上前に偉い学者が英文で書いたこの原作を購入し、少しずつ訳したとある。内容は11編に分かれ、どれも簡潔な楽しくなる民話ばかり、そして、ミャンマーの民話らしく、王子様や王女様はもちろんのこと、ワニやトラがたくさん出てくる。どれも短い話なのだが、悲しい運命の恋物語から心温まるものまで、ミャンマーの市民に伝わる民話の数々、どんでん返しの結末も楽しい。翻訳者はこのほかにも「ヤンゴン日記」を99年に出版しており、いずれまた紹介しよう。


2009年12月25日金曜日

(593)ビルマ今週のニュース(47号)

(2009年12月25日)
  BURMAINFOのニュース47号から抜粋。 ★岡田外相が1月6~7日ビルマを訪問し、タンシュエ将軍のほかスーチーさんとの会談の可能性を探っている。また石毛経済産業審議官がビルマを訪問し、22日にはテインセイン首相と会談した。 ★中国の習近平国家副主席がビルマを訪問し、タンシュエ将軍と初めて会談、水力発電所や石油パイプラインの建設など16件の事業に関する覚書を交わした。ビルマ中国間の石油パイプラインの建設・運営権は中国のCNPC が取得、ビルマ側は中国との国境地帯の安定維持も約束した。 ★ビルマの最高裁判所は21日スーチー氏の上告審理を開始することを決定、期日は未定。 ★スーチー氏はNLDの幹部3人と面会、党の中央執行委員会の改革を提案、幹部も賛同した、執行委員11人の大半が80から90代。 ★ビルマ出身米国人が刑務所で拷問を受けている。

2009年12月24日木曜日

(592)今年最後?の 至福のとき

(2009年12月24日)
 至福のときというのがこんなにたくさんあっていいのかしら。今日は東京入管に4ヶ月と2週間収容されていた2人のビルマ人女性が仮放免で出所する日だ。私はほぼ毎週彼女らに面会していたが、相当辛かったと思う。2人は食欲不振や、不眠、頭痛を頻繁に訴えていた。特に同時期に入所した人が先に出所しているので、今週こそ、今週こそとの思いが強かったようだ。また年末なので、年を越す恐れもあった。私は1時に入管に行き、タクシーで田町の三菱UFJ銀行へ、保証金60万円を納めて銀行脇をふと見るとコージーコーナーの看板が、きょうはクリスマスイブ、そうだ2人にクリスマスケーキをプレゼントしようと思い立ち、2500円のケーキを2個購入し入管に戻った。しばらく待っていると2人が笑顔で現れた。本当に長い間ご苦労様でした。事務的な処理が終わったあと、私はケーキの包みを二人にそっと渡した。  

2009年12月23日水曜日

(591)ODAによるメコン開発 問題は

(2009年12月23日)
  日本ではつい最近まで八つ場ダム問題が騒々しかった。この論争でダムの建設がマイナス面を含め、いろんな面で影響を与えることを学んだ。一方、本年は日メコン交流年と指定された中で、メコン河流域各国(カンボジア、タイ、ビルマ、ベトナム、ラオス)への日本からのODAは1962億円(2007年)に上り、さらに鳩山首相はメコン流域をわが国ODAの重点地域とし、今後3年間で5000億円以上のODAを供与する旨発表した。一方ODAによって実施される大規模なインフラ工事は、環境汚染や生態系破壊引き起こす。例えば漁業への打撃、水質悪化、数万人規模の住民移転など問題が山積している。過去のODAの検証なしに、巨額の支援を続けることはODAによる環境・社会影響を繰り返すばかりでなく、相手国の構造的な社会問題を助長する恐れもある。メコン流域の開発問題は多面的な調査が必要である。

2009年12月22日火曜日

(590)クビを長くして待っていた「仮放免」

(2009年12月22日)
  私は朝7時に起きてからずっとケイタイを握っていた。習慣にしている朝風呂の際は浴室のドアのノブにぶら下げ、10時からの病院での定期健診のときも電源を切断することなくそのまま診察室に入った。昼食の際も茶碗の横に置いておいた。もしきょう入管から電話が入らないと、私が保証人をしている2人のビルマ人女性の仮放免が正月を越すことになる。2人とも収容されてから既に4ヶ月と2週間を寂しく過ごしており、通常ならば出所可能な時期だ。入管はいったい何を考えているのか、いらいらしてくる。保証人である私の言動に何か問題があったのかしら・・・・。とそのときケイタイのベルが鳴り、入管の担当官からの聞きなれた声が飛び込んできた。「明後日24日の1時15分に2人の仮放免があるので来てくれ」とのこと。24日といえばクリスマスイブだ。早速2人のご家族に電話すると、共に声を弾ませ喜んでいた。

2009年12月21日月曜日

(589)楽しかった教室の忘年会

(2009年12月21日)
  昨日は夕方5時半から虎ノ門チムニーで「ミンガラ日本語教室」の忘年会が開催された。ここの店長が教室の生徒という関係で昨年に引き続き会場をお願いしたのだが、何しろ豪華で安くしかも貸切。ビルマ人も50人近く集まったがほぼ全員が顔見知り、特に「みんがらネットワーク時代」からの旧友にもお会いでき、懐かしさがいっぱい、すばらしい会合であった。私は健康上、この数年間夜の会合の出席は遠慮していたのだが、この会合だけは特別な思いがあるので夜8時半まで十二分に楽しませていただいた。私は11月から年末にかけて、牛久入管卒業生の会、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)、APFSなど多くの会からそれぞれご招待をいただき、81歳の誕生日を祝っていただいた。ご参加いただいたビルマ人、日本人の方々にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。皆さん、本当に有難うございました。

2009年12月20日日曜日

(588)牛久入管収容所問題を考える会

(2009年12月120日)
  昨日標記の団体代表の田中さんから年間活動報告会の資料集(20頁)を送っていただいた。この資料集を見ると、私の考えに近いところが随所にあり、一つひとつ「うんうん」とうなづきながら読み終えた。牛久の収容施設、正式には東日本入国管理センターというが、定員700名の施設に常時500人程度の外国人が収容されており、うち150人内外が難民申請者という。この会は面会行動を続け彼らをサポートしながら、わが国の外国人政策の問題点を抉り出している。この会の活動で私がショックを受けたのは、国籍を問わず面会活動を続けていることであり、私が知らないビルマ人でも助けようと決めたのは、このショックが大きく働いている。最近入管は「管理と排除」を徹底しだし、頼みの民主党政権下でも再収容、再々収容が急増している。「誰もが幸せに生きる権利」がある筈なのにそうでない人たちがそばにいる。

2009年12月19日土曜日

(587)写真集「ビルマの精神改革」

(2009年12月19日)

  昨日に引き続きビルマ関連の写真集を紹介しよう。私の書棚に「BURMA'S REVOLUTION OF THE SPIRT」 という112頁の英文写真集があり、副題には「民主的な自由と尊厳のためへの苦闘」とある。1994年の発行で、出版社は香港のAPERTURE社、私が購入したのは1995年ごろと思うが、いくらで購入したかは記憶にない。内容は最初のうちは平和なビルマの情景が多かったが、一転して88年当時のデモ風景となり、逃げ惑う市民や血を流す姿が多くなり思わず目を背けたくなる写真も出てくる。さらにスーチーさんの演説風景やNLDの活動家たちの生き生きとしたたくさんの顔が現れる。そして強制労働風景や焼け落ちた家、麻薬関連の写真に移り、少数民族の悲惨さを写し出している。そして最後はスーチーさんの笑顔と仏陀の写真で終わる。写真は歴史そのものを写し取って後世に伝える貴重な資料だ。

2009年12月18日金曜日

(586)軍政下のビルマを記録する写真家

(2009年12月18日)
  今朝の朝日朝刊に軍政下のビルマを記録するフォトジャーナリスト 宇田有三さん(46)の紹介記事が掲載されていた。彼の名前はしばしば耳にするが、彼自身の顔写真を見るのはこの新聞写真が初めて。彼は撮影した8万枚の写真を整理して「閉ざされた国ビルマ」(高文研)の出版の準備を進めている。彼の写真集が我が書棚にあるかなと思ったが見当たらなかった。ビルマ関係で有名な写真家としてもう一人山本宗補氏がいるが、彼は宇田氏と同じく反軍事政権の立場で活躍中だ。私の手元には、山本氏の写真集「ビルマの子供たち」があり、今その本を眺めている。主題が子供たちであるが、「あどけない」とか「かわいい」という形容詞よりも、「貧しいがたくましい」といったイメージが強い。また賛美歌を歌う子供、モスクの子供も紹介されており、とても参考になった。この写真集は2003年第三書房発行、2千円。

2009年12月17日木曜日

(585)国の印象を損ねる入管の対応

(2009年12月17日)
  標記のような見出しがきょうの朝日新聞朝刊の投書欄に掲載されていた。内容は、日系ブラジル人と一緒に横浜の入国管理局に行ったところ、係官の説明が高圧的で、納得できずがっかりした、また別の係官は間違った説明をしたにもかかわらず謝罪の言葉もなく、日本人として恥ずかしかった、入国していきなり不快な思いをさせない対応を望むというもの。私も入管(十条、品川、牛久、成田)にはずいぶん訪問したが、一部例外を除きそれほど印象は悪くない。ただお役所の通例で縦割り行政のため、担当以外の問題にはまったく無知の係官が多いのも事実、ある問題を相談に行ったところ、ぐるぐるたらい回しされ、呆れたことも経験している。それから気になるのが電話の繋がらないこと、東京入管に電話しても、「ただいま込み合っていますので後ほどお掛けください、ガチャン」の連続。この点は民間企業を見習って!

2009年12月16日水曜日

(584)仮放免で、いつ出られますか

(2009年12月16日)
  きょうは水曜日、東京入管でビルマ人女性と面会の日だ。いま16人収容されているので、きょうは8人に面会を申し込んだ、来週は別の8人となる。彼女らには日本語教育を勧めているが、この目的は、日本社会に早く溶け込むためであるが、同時に収容所内の有り余っている時間の有効活用であり、併せてストレス解消策でもある。といっても彼女らの最大の関心事は「仮放免でいつ出られるか」の一点。今までの経験で、私は彼女らに収容期間は2ヶ月~4ヶ月と伝えているが、人によりバラバラ、中には5ヶ月近くの人もいる。そこで4ヶ月近くになる人は、今日か明日かと祈るように吉報を待っている。私が保証人をしている2人は、共に既に4ヶ月1週間、私に祈るような眼差しで「まだですか」と訴える。私も辛い。面会後仮放免担当者に打診するが、「まだ審査中なのであと暫く待ってほしい」としか言わない。辛い。

2009年12月15日火曜日

(583)ミンガラ日本語教室 初期のイベント④

(2009年12月15日)
  昨日に引き続きミンガラ日本語教室の初期のイベントを記す。この教室ができたのは96年6月、その10月ごろからミャンマー現地研修会の話が出た。しかしミンガラ日本語教室は生徒2人からスタートしたばかりであり、体制も整って居らず、結局私が教室代表の形で参加することになり、チェリー先生はじめ「みんがらネットワーク」の日本人が主体となった。同年10月ごろから準備を進め結局12月24日からの7泊8日の日程を組み、羽田⇒関空⇒ヤンゴン⇒ペグー⇒バガン⇒マンダレー⇒ヤンゴン⇒関空⇒羽田の行程。当時は関空とヤンゴン間に全日空の直行便が就航し、ミャンマーは観光年、実にタイミングの良い時期だった。参加者は17人、チェリー先生以外は全員日本人、中には後藤さん、舟橋さん、志賀(旧姓和田)さん、宇野さんなど、今でも「みんがらネットワーク」で活躍中の懐かしい名前が揃っていた

2009年12月14日月曜日

(582)ミンガラ日本語教室 初期のイベント③

(2009年12月14日)
  さきに(569)(565)で紹介してきたがきょうはその第3弾。97年5月には江戸・東京博物館⇒東京都慰霊堂⇒安田庭園⇒国技館前(当日は大相撲の千秋楽)のコースで、ビルマ人生徒31人、日本人11名が参加、終了後ビルマ料理店「神田市場」でお疲れ様会を開催。次いで6月にはミンガラ日本語教室1周年記念とチェリービルマ語教室2周年記念パーティーを合同で開催、会場はチムニー半蔵門店(店長が生徒のヤンスーインさん)、日本人25人、ビルマ人25人参加。さらに9月には船(水上バス)で両国発、葛西臨海公園経由荒川、隅田川を通る東京一週コースをみんなで楽しんだ。参加者はビルマ人生徒29人、日本人10人。引き続き12月には日本語能力試験があった日にお疲れ様会(忘年会)を「神田市場」で実施、1年間の勉強の疲れを一気にふっ飛ばした。97年度も数々のイベントを実施したなあ~。

2009年12月13日日曜日

(581)ビルマ今週のニュース(46号)

(2009年12月13日)
  BURMAINFOのニュース46号からの抜粋。★スーチー氏と軍政の連絡担当相が9日3度目の会談を行った。詳細内容は不明、またビルマ最高裁は氏の上告申し出について21日に弁護側の陳述を聞いて正式に受理するか判断するとした。 ★世界29カ国の国会議員442名が国連安保理に書簡を送り、ビルマで軍政が犯した人道に対する罪について調査する委員会を設置し、軍政に対する国際的な武器禁輸措置をとるよう要請した。提案者の民主党の今野東議員は、ビルまでの残虐行為がダルフールに匹敵するのに安保理が沈黙してる事実を説明した。 ★オバマ大統領は10日、ノーベル平和賞受賞演説で、「国際法に反して自国民を痛めつける政府、ダルフール、コンゴ、ビルマは責任を取るべきと述べた。 ★世界人権デーで在日ビルマ人約300人が国連大学前で「すべての人に人権と自由を」と訴えた。

2009年12月12日土曜日

(580)ビルマ選挙に「各国が協力を」

(2009年12月12日)
  アジアでの民主主義の促進について議論する「バリ民主主義フォーラム」で、インドネシアのユドヨノ大統領と共同議長を務めた鳩山首相は、ビルマで来年予定されている総選挙について、「各国が関心を持って協力することがアジア全体の民主化プロセスに大きな影響を与える」と述べ、各国による積極的な関与の必要性を訴えた。同フォーラムは12月11日までの二日間の日程で、東南アジア諸国や韓国、中国、オーストラリアなど36カ国の閣僚や政府代表が参加、米国や英国などがオブザーバーとして参加。私が気になるのは、シュエゴンダイン宣言(当ブログ532,533参照)との関係が不透明なまま日本の首相が来年のビルマの選挙の実施を認めてしまったことだ。この発言により軍政側が力を得て規定方針通り総選挙を民主的と称して強引に進めるかも知れない。あるいは軍政側と何らかの交渉があったのかな

2009年12月11日金曜日

(579)各国の国会議員442人が

(2009年12月11日)
  昨日は世界人権デー、しかし昨日は目立ったマスコミ論調が見られなかった・・・・と思っていたら、夕方、インターネットを通じて大きな話題が飛び込んできた。その内容は、ビルマ軍政による少数民族への人権侵害を巡り、日本など29カ国の国会議員442人が10日調査委員会の設置や武器禁輸措置を求める書簡を国連安全保障理事会に送った。書簡はミャンマー国内で「3300以上の村落が破壊され、100万人以上の難民や国内避難民が発生している」と指摘し早急な対応を要請。さらに、安保理はルワンダ、ボスニア、ダルフールについて同様な措置をとってきたが、ビルマの状況も同程度に危機的だとしている。そして安保理が時間をかければかけるほどビルマではそれだけ多くの人が犠牲になると訴えている。この書簡は民主党の今野東議員と犬塚直史議員が呼びかけ世界各国の議員に賛同を求めたもの。

2009年12月10日木曜日

(578)きょうは世界人権デー

(2009年12月10日)
  きょうは世界人権デー、人権に関する世界宣言が1948年12月10日の第3回国連総会で採択されたことを記念して、毎年12月10日に記念行事を行うことを第5回国連総会で決議された。この内容は国際人権規約などによって明文化されているが、人権状況に問題がある多くの国は、これらの条約に署名していない。そのため世界人権宣言そのものの法的拘束力を認めるための議論が国連で行われている。宣言の冒頭には「すべての人は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である」と記載されている。私は現在多くの在日ビルマ難民(申請者)と接触しているが、彼らから聞くビルマでは深刻な人権侵害が続いており、同じ人間でありながら日本人とでは人権と自由の面での格差が大き過ぎる。きょう3時から国連大学前で在日ビルマ人がアピール行動を行うが、少しでも前進することを祈る。

2009年12月9日水曜日

(577)難民認定と在留特別許可

(2009年12月9日)
  不法滞在していた外国人が難民認定申請すると、入管で一般的には二つの取調べが平行して進む。一つは退去強制に係る調査であり、もう一つは難民として認めるか否かの調査である。収容者にしてみれば、ほぼ同時期に二つの取調べが進むので、同じ種類の調査と誤認しがちだが、実はこの二つの取調べは全然別個の調査であり、調べる担当部署も担当者も異なっている。難民と認められれば、通常1年または3年の定住が認められるが、難民と認められなくても人道的な理由で特別に在留を許可するという「在留特別許可(通称「在特」、SS)」という制度があり、資格としては「定住」だったり「特定活動」だったりする。難民を取得するには大変厳しい条件が必要で申請者の数%しか取得できないが、「在留特別許可」のほうは比較的多くの人が取得している。この際は難民申請者の経歴や家族関係が重要である。

2009年12月8日火曜日

(576)愚かなり 軍事政権

(2009年12月8日)
  きょうは大東亜戦争開戦記念日、真珠湾攻撃の日だった。首相は東条英機、当時私は小学校6年生、ガラス戸には爆撃による破片分散を防ぐため、斜め十文字にテープを張り、灯火管制用に電灯には黒い幕をかけ、消火用に竹竿の先に縄を結びつけて軒先に置き、各家庭は争って防空壕を掘った。隣組といって街の各ブロックごとに集団を作り、しばしば消防訓練に励んだ。ラジオからは意識高揚のために愛国行進曲が流れていた。ヨーロッパではヒットラーやムッソリーニなどが軍事政権を作り、日本と3カ国同盟を結んだ。日本軍は、中国を始めマレーシア、シンガポール、インドネシア、ビルマに侵攻し、シンガポール陥落のときは提灯行列が各地で行われた。しかしその後戦況は不利となり、都会は焼夷弾攻撃を受け我が家の寸前まで燃え広がり、最後は長崎、広島の原爆。軍事政権はあまりにも愚かだった。

2009年12月7日月曜日

(575)反軍政映画 在日ビルマ人が応援

(2009年12月7日)
  12月5日の朝日(夕刊)の「反軍政映画日本から発信 国逃れた監督 在日ミャンマー人が応援」という大見出しが目に入った。ビルマで軍事政権肝いりの映画やドラマの制作を拒み、国を逃れた映画人らが、日本に住むビルマ人らの協力を得て軍政を批判する劇映画作りを進めている。来年に予定される総選挙を前に軍政の監視をかいくぐって同胞らに届け、物語の力で母国を動かそうという試みだ。この映画の題名は「悲しいイラワジ」、監督はテイティさん、撮影場所は流山市の江戸川河川敷で同監督が「まるで母国のような景色」とロケ地に決めた。昨年5月にビルマを襲ったサイクロンで壊滅的な被害を受けた際の姉弟の悲劇を1時間半で描き、軍政を告発する。出演者は在日ビルマ人約80人が手弁当で集まり、週末を中心に撮影。この映画は年明けに都内で上映する。ビルマ支援関係者必見の映画であろう。

2009年12月6日日曜日

(574)ビルマ今週のニュース(45号)

(2009年12月6日)
  BURMAINFOのニュース45号から抜粋。 ★日本などが提出していた核兵器廃絶決議が国連総会の本会議で採択されたが、インドと北朝鮮が反対、ビルマや中国など8カ国が棄権。 ★ガンバリ国連総長特別顧問がダルフール担当に、ビルマ担当は今後決まるが、特使外交をやめて総長自らが軍政に働きかけをとの声もある。 ★英国の超党派のビルマ民主化議連は、ビルマの紛争地域で起きている人道に対する罪に対する調査委員会の設立を国連に呼びかけた。 ★ノーベル経済学賞受賞者のスティッグリッツ氏は14日からビルマを訪問、経済政策について講演する。 ★ヤンゴンのアメリカンセンター職員で英語教師が国外追放に。 ★ミンコーナイン氏ら3人の政治囚が診療を受けられず健康状態が悪化、緊急に治療が必要。 ★12月2日現在の政治囚は、2173人。BRSA第2回ワークショップは13日。

2009年12月5日土曜日

(573)ショック!東京入管職員の逮捕

(2009年12月5日)
  昨日の朝日夕刊は「東京入管職員を逮捕、収賄容疑、比女性審査で便宜」のニュースを流した。引き続き今朝の朝日は「女性らの情報を漏らす 入管職員、贈賄業者に」と報道している。東京入管といえば、収容されているビルマ人に面会するために私が10年以上も訪問を続けてきた法務省管轄の役所である。本来法律に厳格であるべき法務省傘下の職員が、このような不祥事を引き起こしたことに私は激しいショックを受けた。収容中の、あるいは仮放免で出所した外国人はもっと大きなショックを受けたに違いない。この事件とは別だが、外国人が日本に来るのに100万円以上もの大金を現地ブローカーに支払っていると聞く。この金額は現地では大変な高額なはずだ。しかしこのような大金を支払っても彼らは日本に来たいので、ブローカーの存在は必要悪という人もいる。しかし、この金はどこへ流れているのだろうか。

2009年12月4日金曜日

(572)「外国人包囲網」を読んで民主党に檄

(2009年12月4日)
  最近、「外国人包囲網」という題名の小冊子を読んだ。2004年10月の発行で、82頁、定価800円、発行所は現代人文社。当時は来日外国人による犯罪が多数報道された時期であり、あたかも外国人は犯罪者(予備軍)であるかのごとき誤った情報が流布されていた。このため、15人の有識者が立ち上がり、「外国人が増えて本当に社会は凶悪化したのか」、「誰が言い出したのか、なぜ信じるのか」、「移住労働者を必要としている日本」、「日本で留学生が暮らしづらいわけ」、「多文化・多民族の街」などを共同執筆したのだ。私はこのような書籍が発行された背景には、嘗ての自民党政権時代がそうであったように右翼的、国粋主義的な思想が芽生えて、日本国は日本人だけで十分とする論調が増えたためと思う。民主党はその点「共生」を強く謳っている。民主党よ ぜひ「共生」の精神で在日外国人を遇して欲しい!

2009年12月3日木曜日

(571)家庭経営チェックの第7弾 教材類の整理

(2009年12月3日)
  マニフェストの一環としてきょうは書斎の書類棚の整理を始めた。その多くがミンガラ日本語教室関係の生徒用の教材や問題用紙だ。原則として2007年以前のものはすべて廃棄と考えていたが、いざ実行となるとそうも行かない。朝9時に始めて、夕食時間までには全部終わらせようと計画したが、予定時間が大幅に伸びてしまい、終わったのが夜8時、棚1個分を空けることがやっとできた。整理作業を一番邪魔していたのが「情緒的、感傷的な思い出」だった。前回同様、家内の部屋に空の棚をさし上げたが、今回もニコッとし、早速彼女が所有している雑物の整理を始めた。考えてみると彼女の荷物整理のために、私の尻を叩いていた感がする。整理し終わってみると、彼女の部屋も私の書斎もすっきり片付き万々歳である、次は書籍でありその次が写真類、さらには心がワクワクするであろう切手の整理が待受けている。

2009年12月2日水曜日

(570)心地よい疲れ 入管訪問

(2009年12月2日)
  きょうはまたまたデートの日、水曜日だ。朝A君に電話したところ、眠そうな声で「きょう11時45分に品川駅でお願いします」という。彼は昨夜徹夜で仕事をしていたのでいかにも眠たそうだった。品川駅で約束時間ぴたりに彼と落ち合い、書類にサインして別れる。私はそのまま入管へ。先週3人が仮放免で出所、1人は牛久に移送、16人のうち8人と面会し難民支援協会作成のビルマ語による解説書を全員に差入。新しく入った人が体調不良との理由でまだ会えずちょっと気にかかる。8人との面会終了後、6階の仮放免の担当者に「いつごろ仮放免がOKになるか」と聞いたが、色よい返事はなかった。そのときBさんから電話が入り、いま一階にいるが定住資格の延長について一緒に2階へ行って欲しいと頼まれる。2階に行き、担当官に疑問点を投げかけたが結局は当方の勘違いもあり納得した。心地よい疲れが出た。

2009年12月1日火曜日

(569)ミンガラ日本語教室 初期のイベント②

(2009年12月1日)
  先に(565)で「ミンガラ日本語教室」の98年のイベントについて一部紹介したが、引き続き同年のイベントを追加紹介する。同年6月28日には「みんがらネットワーク設立総会」が小石川後楽園内の涵徳亭で開かれた。ここは由緒ある建物なので、受付のおばちゃんは消防法により定員以上は使えないと強い口調。我々は少し定員をオーバーしていたため、何人かは外で待つ覚悟をして涵徳亭に恐る恐る入ったが、そこではあまり気にしていない様子だったので、何とか無事に開催した思い出がある。このときは日本人とビルマ人が数十人集合していた。一方年末(12月6日)には恒例となった忘年会を神田の居酒屋「若大将」で開催、日本人21人ビルマ人50人が出席した。ここの料理長はビルマ人なので、豪勢な料理が山ほど出た記憶がある。以上で98年の主なイベントを紹介したが、次は97年の状況を紹介する。