2011年2月28日月曜日

(1021)就農決まった第三国定住者27人

(2011年2月28日)
  昨年9月に来日した第三国定住27人のビルマ人は、当初日本で農業をやりたいと言っていた。そこで、私は難民事業本部の担当者に情報開示の問題のついでに就職先を聞いた。その際、農業は年間を通しての売り上げにばらつきがあり、収入のない時期も長いので無理と否定していた。しかし一昨日のブログでは、日本での就職先は八街市と鈴鹿市の「農業法人」と書いた。しかし「農業法人」の意味が不明なのでインターネットで調べてみた。その結果、簡単に言うと企業的な経営を行っている組織化された農家とあった。「農業法人」への就職は、農業を始める入り口として、独立するまでの技術習得の場といえる。給与を貰いながら技術も身につけられるので、生活を安定させた後、何年かして独立したいという若者に、うってつけの「就農スタイル」との説明が。彼らの当初の夢が叶ったのだ。みんな頑張って!

2011年2月27日日曜日

(1020)難民認定者数(平成22年)発表

(2011年2月27日)
  法務省の発表によれば、昨年の難民申請者は1202人で前年比186人減。国別では51カ国あり、ミャンマー342人、スリランカ171人、トルコ126人、ネパール、インドと続く。申請時の在留態様は正規在留者は668人(56%)で不正規在留者は534人(44%)、不認定処分に対し異議申立てをした人は859人(前年比297人減)で、このうちミャンマー人は375人。難民認定の処理は1455人(前年比393人減)、難民認定者は26人(1.8%)、異議申立て者451人のうち認定された者は13人、結局難民認定者は合計39人(ミャンマー37人)。難民とは認められなかったが、人道的な配慮として在留を認めた人は363人(難民認定処理者の25%)で、実質的な庇護者は39人を加えた402人(12カ国ありミャンマー356人)。なお仮滞在許可者は65人。以上であるが、このほかに第三国定住者が27人いる。

2011年2月26日土曜日

(1019)難民に嬉しいニュース2つ

(2011年2月26日)
 ①昨年9月から10月にかけて、第三国定住の第一陣5家族27人がタイ・ビルマ国境の難民キャンプから来日したことは(870)などで書いた。その後東京で日本語などの研修を受けていたが、外務省は25日彼らの就職先が決まったと発表。2家族12人は千葉県八街市で葉物野菜や落花生などを生産する農業法人で、3家族15人は三重県鈴鹿市でシイタケを生産する農業法人で、それぞれ農業に従事するという。新天地で頑張って! ②ユニクロで有名なファーストリテイリング社は、UNHCRと難民問題でパートナーシップを結んだと発表。活動の一環として6月から衣料店「ユニクロ」で、在日難民(在留特別許可者も含む)が働きながら研修できるインターンとして受け入れる。研修では1ヶ月の職業体験の場を与え、希望者には日本人と同条件で選考試験を行い社員登用への道も開く。みんな挑戦してみては・・・。

2011年2月25日金曜日

(1018)水曜日 なんとなく嬉しくなる

(2011年2月25日)
  きのうの続きだ。面会の帰途品川駅をCさんと歩いていると、急に彼女が立ち止まった。なんと私が以前から会いたかったJさんがいるではないか。早速駅そばの喫茶店に戻り、妹さんのKさんを呼び寄せた。JさんKさん姉妹は1998年ごろのミンガラ日本語教室の生徒であり、とても懐かしい。私がヤンゴンを訪問したとき、お二人の下の妹さんたちがパテインから一泊して会いに来ていただき恐縮したことを覚えている。JさんKさん姉妹はその後牛久入管に収容され、私は毎週励ましのために面会した。難民申請がダメで裁判になり、結局お姉さんは難民に認められたが、妹さんは認められず、この悲劇は新聞各紙に大きく取り上げられた。今回、妹さんも在留特別許可(定住)が認められたばかりなのだ。また、昨日Dさんの容態を書いたが電話で「病院に行ったが問題なし」とのこと。なんとなく嬉しくなるではないか。

2011年2月24日木曜日

(1017)水曜日 なんとなく悲しくなる

(2011年2月24日)
  昨日は水曜日、面会受付で待ってると、Aさんが隣りに来た。彼女は2008年1月に入管に収容され、7月に出所した女性で、私はその間毎週面会していた。聞くと友人Bさんの面会に来たという。そのうちいつも一緒に面会してくれるCさんと、一昨日出所したばかりのDさんが到着、3人で面会室に入る。Dさんは先週はガラスの向こう側にいたが、今週はこちら側、皆と話が弾んでいた。彼女の場合3週間ほど前に倒れ、入管側の診断で脳梗塞の疑いがあるといわれ早めに出所したようだ。彼女はすこぶる元気だったが、私は念のため病院で検査するよう強く勧めた。さて面会予定者のうちEさん、Fさんの姿が見えない。2人とも品川に4ヶ月収容されていたが、数日前に牛久入管に送られた。噂だが収容されてから難民申請した人は牛久に送られると聞く。難民申請したビルマ人が日本で長期収容とは悲しくなる。

2011年2月23日水曜日

(1016)入管による「在特問題」を民主党が調査

(2011年2月23日)
  2月17日の毎日新聞によれば、入管が難民認定を求めて係争中のミャンマー人に、裁判外で在留特別許可(在特)を与えるなどと打診していた問題で、民主党の国会議員でつくる同党難民問題ワーキンググループ(WT)が16日、同局から聞き取り調査をした。同局は06年にミャンマー人団体幹部から情報収集し、難民認定を求めて係争中であっても団体が「在特でもかまわない」と思うメンバーの名前を挙げさせ、各団体が挙げた約10人を個別に審査し、詳しい資料を提出した人に約1ヶ月で「在特」を与えたと説明、その上で「在特という結論ありきで打診したことはない」、「裁判の取り下げを条件にした在特付与はない」などと問題を否定。「敗訴例を増やしたくなかったのでは」という弁護士の指摘も否定した。WTは今後も聞き取りを続けるという(以上概要)。民主党はゴタゴタ続きだがこの件はすっきりさせて!

2011年2月22日火曜日

(1015)「アウンサン将軍と三十人の志士」

 「アウンサン将軍と三十人の志士」、副題「ビルマ独立義勇軍と日本」、ボ・ミンガウン著、田辺寿夫訳編、1990年7月、中央公論社発行、中公新書、192頁、540円。著者は1920年に生まれ、学生時代から活動家として活躍し、1941年に英領植民地ビルマを脱出、「30人志士」の一員として日本軍から軍事訓練を受け、日本軍とともに祖国に進軍、日本支配時代はアウンサン将軍の副官となり、独立後は各大臣を歴任、83年に死去。主な目次は、●アウンサンビルマを脱出、●南機関誕生、●箱根の桜、●海南島での軍事訓練、●ビルマ独立義勇軍の結成、●祖国への凱旋、●対日反乱にむけて、●アウンサン暗殺、●アウンサン亡き後のビルマ、●43年後の対決(以上)。この30人の中にはネウイン大統領も含まれ全員が日本名を所有。こういう歴史を読むと今後とも日緬友好を続けたい。

2011年2月21日月曜日

(1014)NDBとスーチーさんの電話会談

(2011年2月21日)
  いやぁ~世の中ずいぶん変わったものだ。ツイッターやフェイスブックによって、中東各国で発生した独裁政治反対の民主化運動は、おとなり中国にまで飛び火しそうだ(今朝の朝日新聞他)。一方、在日ビルマ人民主化活動団体(NDB)のメンバーと、ビルマにいるスーチー女史とが電話で会談し、質疑応答までした状況が、1時間弱の映像として日本人誰もが見られる時代となったのだ。 まさに衝撃的な快挙である。これを発案し、実施した人々に拍手を贈りたい。壇上には私たちが日ごろよく見かけるNDB幹部(各団体の代表者)十数人が並び、全員が質問や激励の言葉を贈り、それに対しスーチー女史が一つひとつ丁寧に説明してたようだ。残念ながら私はビルマ語がわからなかったが、どなたか要点だけでいいから日本語に翻訳していただけないか?(http://www.youtube.com/watch?v=BZ4Q0omq7w0

2011年2月20日日曜日

(1013)ビルマ今週のニュース(1107号)

(2011年2月20日)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★国営紙は13日、スーチー氏とNLDが対ビルマ制裁についての見解を改めなければ「悲劇的な結末を迎える」との論説を掲載。国営紙がスーチー氏を直接批判するのは氏が解放されて以来始めて。 ★週刊英字新聞「ミャンマータイムズ」の最高経営責任者だったロス・ダンクリー氏(豪州籍)が11日ヤンゴンで逮捕され、刑務所に収容された。入管法違反の容疑だが、同紙の支配権を巡って軍政と親しいビルマ人共同経営者ティントゥンウー氏と争っていた。15日にティントゥンウー氏が最高経営責任者に就任。 ★ノルウエーのアフテンポステン紙が、ビルマ駐在米国大使館の公電を掲載、サフラン革命の際僧侶に発砲したのはタンシュエとマウンエイが命令、また「キルギス」により甚大な被害が出ているのに外国からの支援を拒否したのはタンシュエの命令によるとした。

2011年2月19日土曜日

(1012)全難連が決めた昨年の10大ニュース

(2011年2月19日)
  全国難民弁護団連絡会議が決めた2010年の10大ニュースは以下の通り。①伊藤和夫代表が逝去(在日ビルマ人難民申請者弁護団代表を兼務、享年81歳)、②第三国定住のパイロット・プロジェクトを開始(3年計画約90人)、③鶴見大学が庇護希望者への歯科治療プロジェクトを始動(毎週1回の治療+緊急ケース)、④「難民研究フォーラム」設立(難民研究の活性化など)、⑤難民保護費の増額(2010年度予算1億円以上増額と問題点の浮上))、⑥庇護希望者の収容問題(3月に西日本で、5月に東日本でハンスト、5月に収容代替措置の国際会議を韓国で開催、7月に収容所等視察委員会発足など)、⑦福岡で連続勝訴(ロヒンギャ、カチン族)、⑧エチオピア難民不認定取消し訴訟で勝訴、⑨20人のロヒンギャ集団訴訟で判決(東京で2人勝訴、18人敗訴) 、⑩無国籍難民への退令を違法とする判決。

2011年2月18日金曜日

(1011)読みました 「謎の仏教王国パガン」

(2011年2月18日)

  本というものは不思議なもので、一冊読み終わるとまた次の本を読みたくなる。まるで小向嬢が愛用する「クスリ」みたいなものかな。こんど読み終えたのは「謎の仏教王国パガン」、副題は「碑文の秘めるビルマ千年史」、著者は大野徹氏(大阪外大名誉教授、1935年生まれ)、日本放送出版協会(2002年11月)発行、283頁、定価1070円+税、私は10年前に3回パガンを訪問し、その都度いろんな感動を覚えた思い出がある。この本の目次などは次の通り。●微笑みの国ビルマ、●パガン5千坊を歩く、●碑文が明かすビルマ族の謎、●仏教王国パガンの栄華、●パガン王国の実像、●王国滅亡 異民族の下で、●ビルマ族王朝の再興と終焉、●近代化に向けてビルマの心、と続く。パガンはビルマ族最初の王都であり、そのビルマ族はどこから来たのか、現在の少数民族問題を考える上でも貴重な資料である。

2011年2月17日木曜日

(1010)水曜日 帰りのカバンが重たい

(2011年2月17日)
  昨日は品川行きのルンルン日、いつもは我が家からバスで津田沼駅まで行くのだが、今日は珍しく家内が車を運転して送ってくれた。入管につくと携帯が鳴り、Aさんが玄関そばで会いたいと言う。彼女は日本で生まれた10歳の子どもがいて、苦労しながら家族3人が日本で生活している。先日口頭陳述(いわゆるお台場)があり、かなり厳しかった状況を話してくれた。面会時間が来たので別れ、いつも同行してくれるBさんと合流。Bさんは幼い子ども二人を育てながらビルマ人のために活動し、2日前に日本語能力試験N1級の合格証書を貰った才女だ。この試験制度は変わったばかりで、N1級は従来の1級よりさらに難しいレベルだ。一緒に面会室に入り、女性7人と面会、Bさんの通訳で爆笑を交えて進む。終了近く皆もじもじしながら渡すものがあるという。帰りのカバンはバレンタインのチョコレートで重かった。

2011年2月16日水曜日

(1009)名もなき英雄たちよ ビルマからの手紙②

(2011年2月16日)
  毎日新聞2月6日号に掲載された「ビルマからの手紙」(スーチーさん執筆)の№2をSTさんから送って貰った。副題は「良心の番人」今も囚われの2200人。内容は以下の通り。子どもたちの多くはピノキオを知っている。その中に登場する良心の象徴であるジミニーに興味を引かれた。表現や思想の自由という普遍的な権利を守るためにわが身を犠牲にした人たちを「良心の囚人」という。ビルマでは2200人以上の政治囚が投獄されたままだ。そのうち有名人は20人ぐらいで、その他の2000人余は黙々と民主化運動を支えてきたにもかかわらず、賞賛を受けたことのない英雄たちだ。バザーの際、収監中の同志たちが作った芸術品も販売した。塀の外で彼らよりよい生活をしている私たちに最後まで頑張れといってるようだ。ジミニーは明るい。「良心の番人」も自身の不遇にも係らず周囲に安らぎを与えている。

2011年2月15日火曜日

(1008)制裁継続要求 NLDに警告

(2011年2月15日)
  今朝の朝日新聞に標記のような見出しで、スーチーさんが率いるNLDが、欧米諸国の軍事政権に対する経済制裁の継続を求めたことに関し、ミャンマー国営紙は14日「スーチーさんやNLDは悲劇的な結末を迎える」と警告する記事を掲載した。NLDは制裁継続を求める声明を2月8日に発表した。昨年11月に自宅軟禁から解放されたスーチーさんは、軍政批判を控えて対話を呼びかけてきた。軍政側は一定程度スーチーさんの活動を認めてきたが、今回の国営紙の記事は、軍政の利益に反する動きは認めない、との姿勢を示したものと見られる(以上概要)。私はこの記事を見て「早くも来たな」と感じた。スーチーさんが率いるNLDは既に解党され、政治的発言はできない状況と理解していたからだ。多くの国民に慕われているスーチーさんは「早急に悲劇の女王」を目指すのでなく、ここ暫くは我慢してほしい。

2011年2月14日月曜日

(1007)読みました「豚が沐浴する国」

(2011年2月14日)

  このユニークな標題の書籍は数年前から読みたいと思っていた。副題は「ビルマ感傷旅行」、著者:田村旅人、新潮社(2000年1月)発行、定価1470円。 著者はカメラマンであり一人で、ヤンゴン、インレー湖、マンダレー、バガン、メッティーラ、ヤンゴン、バンコク、コーソンと自由気ままに歩き回り、それぞれの地区で出会ったエピソードを楽しくまとめており、特に人物描写に力を入れ、随所に美人の話が出ている。写真も多く掲載され、確かに美人が多い。目次を見ると、●追憶の湖へ、●聖なる子どもたち、●千年王国行きスローボート、●山里の美女、●泥海に浮かぶホテル と続く。彼がビルマを旅行したのはビルマ観光年とあったので、1998年ごろか、私がビルマを訪問したときと一致しており、その意味でもとても懐かしく一気に読み終えた。ただ彼が訪問したときは雨季であり、連日の豪雨で大分参ったようだ。

2011年2月13日日曜日

(1006)ビルマ今週のニュース(1106号)

(2011年2月13日)

  BURMAINFOのニュース1106号より抜粋。 ★テインセイン新大統領が提出した閣僚候補者名簿は全会一致で承認。閣僚30人のうち民間出身者は4人、残りは元軍人、全員が男性、内閣発足日程は不明。 ★ビルマ民主の声(DVB)の映像記者マウンマウンゼヤ氏は禁固13年。 ★NLD発表、「経済制裁が課せられたのは人権状況を改善し、民主化を支援するためであり、これらの問題が解決すれば制裁解除に繋がる」、「すべての政治囚の解放も制裁解除の重要な要件」とし、現段階での解除は時期尚早と読み取れる。 ★前原外相は「新大統領の指導力の下、新政府がより一層開かれた民主的なミャンマーに向けて、前向きな措置を講じていくこと、わが国を始め国際社会との関係が一層強化されることを希望する」と。 ★産別労組JAMと在日ビルマ市民労組(FWUBC)はスーチー氏と電話で会談した。

2011年2月12日土曜日

(1005)第三国定住難民 第2弾

(2011年2月12日)
  東京新聞はじめ各地方紙は、共同通信が発信した「ミャンマー難民の面接開始、日本受け入れの第2弾」というタイトルで、日本が2010年に始めた第三国定住について記載している。この問題は私のブログでも(826)から(872)まで8回取り上げている。共同の記事によれば、日本政府の調査団がタイのメソトに入り、メラキャンプに住む難民に対し面接を始めた。調査団はUNHCRが作成した候補者リストを対象に聞き取り調査を行い、定住の意思や、適応能力を確認、9月に来日する予定。メラキャンプにはカレン族を中心に約5万人が生活、既に数万人が同制度でアメリカなどに移住したが、国内の情勢不安から、新たな難民の流入が続いている(以上概要)。第1陣の27名は3月まで研修を受けるというが、情報は全く流れてこない。難民を支援したい人々の心情は無視された格好だ。こんなんでいいのかしら。

2011年2月11日金曜日

(1004)「王様」は変わらない?

(2011年2月11日)
  朝日新聞に「記者有論」というコーナーがあるのを初めて知った。きょうその欄にアジア総局バンコク支局の古田大輔記者が登場し、標記のような見出しでビルマ政局を書いていた。その主旨は次の通り。記者の見立てでは大統領にトゥラシュエマン(軍政序列№3⇒下院議長に就任)がなるものと思っていたが、結果はテインセイン(軍政序列№4)だった。ビルマ国内では事前予想の報道は一切なかった。問題はタンシュエ氏の去就だが、①USDP名誉総裁として院政、②国軍司令官にとどまる、③完全引退などの情報はあるが分からない。新大統領が選ばれた翌朝の国営紙の1面トップにはタンシュエ氏の写真つき演説記事が掲載されており「王様」のようにも思えるが。新大臣予定者30人のうち26人が軍人出身者であり、民政とは言い難い。スーチー氏は経済制裁の続行を支持しており、再拘束の危険は高い。

2011年2月10日木曜日

(1003)バラバラにいろいろ頼まれました

(2011年2月10日)
  昨日の水曜日は恒例のデートの日、今日は皆に何を話そうかいろいろ考えたが短い面会時間では多くは無理。結局、発表されたばかりのビルマ新体制の首脳陣7人の名前と役職、軍政での序列の一覧表を用意し、意気揚々と品川入管へ。面会受付で、ときどき同行してくれるAさんと出会ったが、今日は別のところへ行くので収容者から頼まれていた書類と手紙を渡された。さて7人と面会するのだが、私の希望として、3人と4人の2組に分け、各15分ずつでお願いしたが、同一時刻に他の人と面会するダブルブッキングがあると崩れてしまう。そんなことで、きのうは7人がバラバラに入室し、各人15分経過すると係員が現れ、退室となる。その間みなからいろいろ依頼され、折角用意しておいたビルマ新首脳の一覧を説明する余裕がなかった。なお依頼された5件は帰宅後それぞれ処理した。面会者が少ない!

2011年2月9日水曜日

(1002)ビルマ今週のニュース(1105号)

(2011年2月9日)

  BURMAINFOのニュース1105号から抜粋。 ★昨年11月に行われた総選挙に基づく議会が31日に召集され、、テインセイン首相が大統領に、ティンアウンミンウー元大将とシャン民族の医師サイマウカム氏が副大統領に、シュエマン氏が下院議長に、いずれもUSDP所属、タンシュエ上級大将とナンバー2のマウンエイ副上級大将は大統領候補に含まれなかった。 ★報道関係者の議事堂への入場や議事堂近くでの取材は認められなかった。 ★日本外務省は「如何に運営され、如何なる議論がされていくか、民主化勢力や少数民族政党の活動状況を含め、今後の動きに注目していく」と発表。 ★ビルマで「人道に対する罪」が起きている疑いについてベルギーが国連調査団の設置を支持。公式に支持するのは14カ国目。 ★ビルマの国民民主連携(NLD)のウエブサイト、29日から公開、資料・映像等を掲載。

2011年2月8日火曜日

(1001)新政権は民主化へ行動を

(2011年2月8日)
  (1001)と打ち込むと新鮮さと同時にやる気がふつふつと湧いてくる。次の(2001)と打つのは2年9ヵ月後の2013年11月だ。はてさて、どんなブログを呟いているだろうか。今朝の朝日は社説でミャンマー新政権の進むべき道を標記の見出しで次のように説いている。新首都に建設された壮大な議事堂、そこで開かれる初めての国会、華やかなこけら落としのはずなのにメディアは建物にさえ近づけない。この国には大統領以上の権力を握るポストがある、国軍司令官だ。タンシュエ議長は現在国軍司令官を兼務しており、もしそのまま居座れば民政移管はとても認められない。日本政府は経済制裁解除の問題には新政府の対応を待つ必要があり、また新政府とスーチー女史との対話の問題、約2千人とされる政治犯の釈放の問題などに、新政権が行動を開始するよう周辺諸国とともに働きかける要がある。・・・と。

2011年2月7日月曜日

(1000)やったあ~ 万歳! 1000回だあ!

(2011年2月7日)
  とうとうやったあ~。 「U MINGALARのつぶやき」が1000回だぁ。最初のうちは勝手が分からず数日あけてつぶやいていたが、08年5月20日の第6回目のつぶやきからは連日発信を続けている。しかもテーマの中心を「ビルマ」関連に絞り、字数を370±5文字に固定するなど、ちょっと冒険的なブログだ。おかげで1日当たりの読者は40人前後、延べ読者は37000人に近い。特に最近3年間は、ビルマ軍政による憲法制定と国民投票、引き続き上院、下院などの総選挙があり、今まさに長年の軍事政権からいわゆる民主・文民政権に変わろうとしている。我々から見ると軍服からロンジーや背広に変わっただけだが、ビルマの近代史では特筆すべき変革であろう。一方、民主化の希望の星だったスーチー女史は、手足と翼がもぎ取られ、政治的な発言ができない状態に堕ちた。私はしっかりビルマを注目する。

2011年2月6日日曜日

(999)あと1回で1000回だ!

(2011年2月6日)
  このブログは明日でとうとう1000回だ。2008年5月19日に最初のブログ「避けたい力の分散、矮小化」を書いたが、内容は北京オリンピックの際の統一されたチベット族の旗の色に対比して、在日ビルマ反政府グループの旗がバラバラであることを指摘していた。皮肉なことに今回の選挙で、反政府グループの完敗が明らかとなり、きょうの朝日には、「ニュースの顔」として新大統領に選出されたテインセイン首相(65歳)が華々しく紹介されていた。彼は軍政高官につき物の汚職の噂がないとされている。67年に国軍士官学校卒業、97年にタンシュエ議長のもとSPDC委員に、04年第一書記、07年に首相と軍政の中枢を歩んできた。昨年11月に軍を退役し連邦団結発展党(USDP)党首となる。首相として外交経験を積んできたことで安定感があると評されているが、一方、心臓病を抱え健康不安説も流れている。

2011年2月5日土曜日

(998)ビルマのトップが続々決まる

(2011年2月5日)
  一応ビルマの首脳陣が決まったようだ。2月1日の日経新聞は他の報道とちょっと違った表現で「候補者を三人に絞り込めず結論を持ち越し」とあった。副大統領候補者に上院2名、下院2名がそれぞれ立候補(軍人枠は1名)した時のことだ。結局翌日5名から3名に絞れたが、その間何があったのだろうか? 投票の結果、与党からの候補者が当選したが、野党からも副大統領候補が出たことに私は意外な感じがする。票数を知りたいところだ。きょうの朝日は、「軍の権力構造を分散、強い後任回避策か」とあった。いままで軍、立法、行政すべての権力をタンシュエ議長一人が握っていたのを三権分立による「民主化」の体裁を整えると同時に、自らの身の安全も考えたとあった。なお、軍司令官の地位には、タンシュエ議長留任という噂のほかに、50代の中将クラスを宛てるという情報もある。なお流動的、注目したい。

2011年2月4日金曜日

(997)ビルマ正副大統領 3人とも軍政系

(2011年2月4日)
  副大統領候補は二日に決まる筈だったが一日遅れた。上院(民族代表院)はシャン族出身のサイマウンカン医師(60歳)に決定、下院(人民代表院)はテインセイン首相(65歳)に、軍人枠からは軍政序列第5位のティンアウンミンウー(SPDC第一書記・元大将・60歳)が決定した。この3人から大統領が選出されるが、軍政序列第4位のテインセイン首相の大統領就任がほぼ確実だ。残りの2人は自動的に副大統領になる。軍政序列第3位のトゥラシュエマン(前国軍統合参謀長)は下院議長に、キンアウンミン文化相が上院議長に決定、問題の軍政序列第1位のタンシュエ議長は翼賛政党USDPの名誉総裁に就任するらしい。同じく立候補しなかった軍政序列第2位のマウンエイ(SPDC副議長)の去就は不明。正副大統領3人が全員軍政系だが国民多数が賛同した憲法に則った選挙結果という意味は大きい。

2011年2月3日木曜日

(996)水曜日 心配だった彼女ら・・・

(2011年2月3日)
  昨日は水曜日、私の心が躍る日だ。いつもより30分早く家を出て、品川駅構内の喫茶店でビルマ人女性Aさんと落ち合い、仮放免延長の書類にサインしてあげた。この仮放免というのは、入管に収容された外国人が、社会に復帰するために必要な手続きであり、収容後だいたい4か月後に30万円の保証金を納入すれば許可され、その後3ヶ月ごとに入管に出頭して、仮放免の延長を申請する制度である。先週入管を訪問したとき一人(Bさん)が200前後の高血圧で面会できず、面会した6人のうちニ人(Cさん、Dさん)は難民申請不許可の決定を受けた直後のためか大粒の涙が流れていた。気にかかっていたこの3人も、昨日は笑顔がこぼれておりひとまず安心。ただEさんは、風邪でせきが出るため、一人部屋に移動されていたという。流感でなく単純な風邪なので近日元の大部屋に戻るらしい。こちらも一安心。

2011年2月2日水曜日

(995)テインセイン首相が大統領か

(2011年2月2日)
  きょうの新聞は、「軍政トップ大統領就かず、国際批判考慮か」との見出しで、軍政トップのタンシュエ議長が副大統領候補に含まれていないとし、大統領に就任する可能性がなくなったと報じた。このため、2月中旬といわれる大統領選挙では、軍政序列第4位のテインセイン首相が最有力候補との見方が強まった。ヤンゴンの外交筋はタンシュエ議長が横滑りしないのは「見せかけの民主化という批判をかわすため」と見ている。同議長は現在国軍司令官と国防相を兼務しており、新体制でどうなるか注目されている。一説には「USDP」の名誉総裁との見方もあるが、次第に第一線から退くとの観測も出ている(以上概要)。知り合いのビルマ人にタンシュエとテインセインについて聞いてみたが、顔をしかめて「どちらも同じ」という返事。それよりもエジプトの例を挙げて、いずれ民衆の力でいなくなるだろうと呟いていた。

2011年2月1日火曜日

(994)きょう副大統領選出

(2011年2月1日)
  今朝の朝日によれば、昨日(1月31日)新議会が召集され、上下両院の議長選出が行われた。下院議長に軍政№3のトゥラシュエマン前国軍統合参謀長(63)が、上院議長にキンアウンミン文化相が就任した。2月1日には副大統領候補が上院、下院、軍人枠から各一人、計三人選ばれ、その中の一人が大統領に就任、残った2人が自動的に副大統領になる。いまのところ、大統領にはタンシュエ議長か、テインセイン首相のどちらかが有力だ。軍事政権は、今回の議会召集を「民政移管」と位置づけるが、もし軍政トップのタンシュエ議長が大統領に横滑りすれば、内外の強い批判を呼ぶのは必死だ。しかし、影響力を失えば「しっぺ返し」を受ける恐れもある。最大の権力を持ち続けるのが安全と考えるようになったとの説もある(以上概要)。この一ヶ月はビルマの歴史上大変革の時だ。我々は注意して見つめよう。