2015年8月31日月曜日

(2668)ヤンゴン新国際空港 プロジェクト再延期へ

  8月30日のミャンマーニュースより。長い間滞っているミャンマーの国際新空港建設について、再度延期することが決定した。8月28日の公式発表によると、延期の理由は資金確保の問題だという。建設延期が決まったのは、ヤンゴン北部100㎞バゴーに近いハンタワディ国際空港プロジェクト。第2次世界大戦中は日本が使用していた。4つ目の国際空港として1994年に韓国の企業が起工したが、工事はすぐ中断された。その後2012年の民主化を機に、プロジェクトが再開した。2014年には日本とシンガポールの企業連合体であるYongnam-cape-jgccが建設権を獲得している。ミャンマー側によれば、ODAとの交渉が難航し、完成は2018年から4年後の2022年に延期したという。ミャンマーでは2015年500万人以上の外国人観光客を期待。

2015年8月30日日曜日

(2667)ミャンマー 気になる2つの動き

  ①8月29日のマーエクスプレスより。北京で9月3日に開催される抗日戦争勝利70周年記念式典へ、テインセイン大統領が出席する。大統領府は、「詳細は今後発表する」としている。同式典には、潘基文国連事務総長、プーチン大統領、朴槿恵大統領ら30人の首脳が出席する見通し。 ②8月30日の朝日新聞より。イスラム教徒と婚姻規制法成立。ミャンマーで、改宗や仏教徒女性と異教徒の結婚を規制する法律が成立した。多数派の仏教徒の間で、近年反イスラム感情が高まっており、イスラム教徒の男性と仏教徒女性の婚姻を制限する狙いがある。今回成立したのは、改宗法と仏教徒女性特別婚姻法。改宗や仏教徒女性の異教徒との結婚に際し、本人の意思に基づいているかなどについて当局の審査と許可が必要。国連は懸念。

2015年8月29日土曜日

(2666)ダウェイ経済特区 Shellとタイ企業が「LNGターミナル」を共同開発

  8月26日のミャンマーニュースより。「シェル」はイタリア系タイ開発企業とLNGプラス・インターナショナルとの間で、LNG(液化天然ガス)共同開発契約を締結。ダウェイ経済特区で展開される様々な事業の輸送用としてLNGが使用され、残りはタイとミャンマーに販売。締結式にはミャンマーとタイ両国の政府関係者も参加した。現地紙によると、今回のLNGの共同開発はミャンマーで初。日本、中国、韓国、インド、シンガポールも、ミャンマー政府と協議している。シェルは近年、ミャンマー国内で事業を拡大、同社のパートナーである三井石油開発は今年2月、ミャンマーの石油ガス公社と生産分与契約を締結。8年で122億ドルの投資を約束。LNG市場は成長を続け 国際原油価格が継続的に低迷していても、現在はゆるぎない強さを保持している。

2015年8月28日金曜日

(2665)ミャンマー水害寄付の現状 現地新聞より

  最近のミャンマーニュースより。このニュースは現地有力紙に掲載されたニュースを日本語に訳したもの。 ミャンマーでは北部と西部を中心に豪雨による被害が発生、被災者は135万人に上っている。 ①携帯大手のKDDIは24日、ミャンマー豪雨災害の救援金を募集すると発表。期間は8月21日から9月25日まで。同社ホームページに記載。  ②トヨタがミャンマー赤十字社を通じて10万ドル寄付。ミャンマーでは8月4日、テインセイン大統領がチン州、ラカイン州、サガイン管区、マグウエー管区の地方行政区に非常事態宣言を発令。 ③日本の国際NGOジャパン・プラットフォームが、人道支援プログラムの規模を拡大、寄付金の募集を開始した。被害地区はエヤワディ地区にも拡大している(以上)。当ブログでは(2658)(2644)でも報告済み。

2015年8月27日木曜日

(2664)109・110条 ちょっと誤解

  FACEBOOKを眺めていると時々ハッとすることがある。参加者の名前は本名が原則だが、最近はこの原則が崩れているみたい。先日、私が現役時代お世話になった人の氏名を発見、急遽お互いに連絡を取り合った、また職業欄について言えば、私の場合は109・110(ビルマ語ではタヤコー・タヤタッセ―)としておいた。全くふざけて書いたものである。ところがだ、なんと私と同じように、職業欄に109・110と書いているミャンマー人を発見した。私は最近ビルマ・ミャンマーの書籍を連日読みふけっているが、テイパン・マウン・ワ著(YDさん訳)のなかで、「110条」というタイトルを発見。ビルマの刑法で109条は 「浮浪者や挙動不審者」を、110条は 「常習的犯罪者や粗暴な者」を取り締まる刑法の条項をいう。私は 単に仕事の無い人と誤解していた。

2015年8月26日水曜日

(2663)その後の江口図書528冊の読書進捗状況

  入手した江口図書が何冊あるのか、正直のところまだわからない。江口氏の作成した一覧表によれば528冊だが、まだ余分にあるような気がする。10月2日に我が家に到着して以来、10か月余を要したが、今まで読了して紹介・あらすじ集(約100文字)に書き込んだのは、385冊で72・9%となった。残りは13章:文芸(27冊)、14章:戦記(57冊)、15章:食物およびルーツ(59冊)の3章のみ。のみと書いたが冊数が多く、おまけに危ない。何がと言うと文芸も戦記も私の大好きな分野で、たぶん夢中になって読むだろう。我を忘れ、時間を忘れて。でも何となく最終コーナに入ったなあと感じる。とりあえず最後の1冊まで読書を続けよう。前回、自費出版した「ミャンマー関連書籍226冊紹介・あらすじ集」との関連をどうするか問題ではあるが、いまはゴー

2015年8月25日火曜日

(2662)密林から人骨 ロヒンギャか 24人分 マレーシア

  8月24日の朝日より。タイ国境に近いマレーシア・ペルリス州の密林の地中から、新たに24人分の人骨が見つかったことが23日わかった。一帯は人身売買組織の中継基地があった場所で、警察はミャンマーから連れてこられたイスラム教徒のロヒンギャの可能性があるとみている。国営ペルナマ通信によると、警察が22日に20カ所の墓地を発見。このうち18カ所から人骨が見つかった(以上)。このニュースは6月9日付(2584)の当ブログに関連している。その内容は、ロヒンギャ族取引容疑 タイ陸軍中将(マナット・コンペ―ン)を逮捕、同中将は2012年から今年にかけて人身売買組織が手配したロヒンギャの密航や、身代金の要求などに関わった疑いがあるというもの。タイも軍政下にありトップクラスの陸軍高官がこの事件に関与していた模様。

2015年8月24日月曜日

(2661)ミャンマー夢は終わらない 聖火に誓ったメダル

  8月22日の朝日新聞夕刊より。アジア初の五輪開催地、東京に向かう聖火は1964年8月30日、ヤンゴンに到着した。聖火は国内のスポーツ選手ら64人がリレー、空港とアウンサン競技場の間を往復した。重量挙げ選手だったトゥンマウンさんもリレーに加わった。彼は52年のヘルシンキ五輪から3大会連続出場するも入賞を逃した。4度目の挑戦となる東京、しかし直前の足の負傷で現役引退を余儀なくされた。80代になった今も健在で、悔しさは消えていない。ミャンマーは独立直後の48年ロンドン大会から夏季五輪に参加したが、メダルは一度も得ていない。62年から始まった軍政で、スポーツはないがしろにされた。2011年の民政移管後 政権は選手強化に力を入れ始めた。同国五輪委事務局長は 「まずは東南アジアでトップを目指す」と話す。

2015年8月23日日曜日

(2660)政治関与続ける意向 ミャンマー国軍トップ

  引き続き8月22日の朝日新聞より。ミャンマーのミンアウンフライン国軍最高司令官は、11月の総選挙でどんな結果が出ても受け入れると断言した。民主化の試金石とされる選挙後の新政権への移行が、円滑になされる見通しが高まった。一方で、「いかなる政党が政権をとっても、法の枠内で行動しなければならない」と言及。軍の政治関与は続ける意向も明確にした。スーチー氏は憲法の改正が不可欠と訴えているが、この発言をけん制する意図があるとみられる。少数民族武装勢力による治安面の懸案がある以上、軍は政治から退けないと説明。また与党(USDP)内の人事(クーデター)については、「国軍は関与していない」と語った。なおミンアウンフライン氏は11年の民政移管時、軍政トップだったタンシュエ氏により 国軍最高司令官に選ばれた。

2015年8月22日土曜日

(2659)ミャンマー国軍トップ スーチー派勝利でも「結果尊重」

  8月22日の朝日新聞より。ミャンマー国軍最高司令官ミンアウンフライン氏は、11月の総選挙で野党(NLD)が勝っても「結果を尊重する」と明言した。国軍最高司令官は、現憲法下で大統領に匹敵する権限を持つ最高実力者で、例えば国防、内務、国境の3閣僚の指名ができ、また国家の非常事態に全権の掌握ができる。今回の選挙で優勢とされるNLDが政権を担うことに「心配はない」と述べた。国軍は1990年の総選挙でNLDが大勝した結果を認めず、権力を握り続けた。ただ軍は2011年に民政移管をし、民主化に舵を切った。その方向が続くことを明確にした形で、日系企業の進出にも追い風となる。一方で、国会定数の4分の1を軍人枠にするなど、軍の政治関与を認めた憲法の条項については、現時点での改正に否定的な考えを示した。

2015年8月21日金曜日

(2658)ミャンマーで大きな洪水被害、みんなで助けよう

  最近のミャンマー現地新聞4紙の話題。イオンワンパーセントクラブは14日、同国の被災者支援のため、2万ドル(約250万円)を災害対策本部に寄付した。同クラブは、従来小学校建設のために尽力、35校を建設した。ヤマトプロテックは、洪水被災地に非常用食料品をヤンゴンの消防局を通して配布した。これらの食料品は調理の必要がなく、お湯を注ぐだけで食べられる。米国のアメリケア財団(慈善団体)は在ミャンマーのパートナー団体と共に、緊急援助活動を開始した。2008年の「ナギリス」台風の時は15トンもの医薬品を届けた。一方ユニセフは被災者100万人で34万人が児童という。ラカイン州の難民キャンプでも被害を受けており、子供のためのシェルターも破壊された。500ほどある学校も被害を受けトラックやボートの提供など活躍中。

2015年8月20日木曜日

(2657)キリンビール大手を買収 ミャンマー企業697億円で

  8月20日の朝日新聞より。キリンHDは19日、ミャンマーのビール最大手「ミャンマー・ブルワリー」を約697億円で買収したと発表した。シンガポールの飲料大手フレイザー・アンド・ニー(F&N)から発行済み株式の55%を取得した。日本市場の縮小を背景に、海外市場の成長を取り込んでいく。キリンHDは海外展開を加速させており、2009年までに計3300億円を投じて豪ビールの大手ライオンネイサン(現ライオン)を、11年には約3000億円を投じてブラジルビールの大手スキンカリオール(現ブラジルキリン)をそれぞれ完全子会社化した。売上高に占める海外比率は、すでに3割を超える(以上)。日経によれば、F&Nの残りの株式はミャンマー国軍系複合企業ミャンマー・エコノミック・ホールディングスと共にミャンマー・ブルワリーを経営する。

2015年8月19日水曜日

(2656)ミャンマー 解任の与党党首、登院

  8月19日の朝日新聞より。ミャンマーの与党・連邦団結発展党(USDP)の党首の座を追われたシュエマン下院議長が18日、首都ネピドーで再招集された国会の本会議に出席した。党首を解任された12日夜から13日にかけて自宅軟禁になったとみられていたが、行動制限は解かれた模様だ。シュエマン氏は18日、上下両院合同の連邦院で本会議の冒頭、自身の党運営に対して非民主的などの批判があったことに触れ、「そのような意図はなかった」とする声明を読み上げた。シュエマン氏は17日、国会運営などで連携してきた野党党首アウンサンスーチー氏と会談した(以上)。昨日書いた友人情報も正しかったことが判明。また解任の理由として大統領側は、「党首は多忙なので下院議長に専念してもらう」と説明していた。いましばらく様子を見よう。

2015年8月18日火曜日

(2655)ミャンマー政変 どこまで本当なの?

  8月17日の日経電子版。USDPは17日ネピドーで緊急会議を開催、テインセイン大統領やテイウー党首、党幹部300人以上が参加、シュエマン前党首の処遇を話し合ったとの報道もある。同氏は会議を欠席し治安当局の監視下に置かれているようだ。再開議会で下院議長職も解任されるとの見方もある。次に8月18日の日経電子版。シュエマン氏は17日NLDのスーチー氏と会談、11月の総選挙に向けた協力の可能性を議論した模様だ。国会は18日に再開されるが、シュエマン氏が国会に出席するかが注目される。次に8月18日のミャンマー・日本語教室ブログ(中西先生)によれば、シュエマン議長はスーチーさんと17日議会内で会談。この結果、自宅軟禁では無かったことが明確に。なおシュエマン議長は18日国会に出席という 友人情報も。

2015年8月17日月曜日

(2654)日本語を指導しながら観光も楽しめるユニークツアーとは?

  8月12日のミャンマーニュースより。ミンガラバミャンマートラベル&ツアーは、日本語教師体験ツアーを提供している。ミャンマーで日本語を教えながら、自由時間はミャンマー観光もできるツアーだ。観光好きで日本語教師を希望している方や、すでに日本語ボランティア経験、あるいは日本語教師過程を受けた経験があり実践的に教えてみたいという動機を持っている方たちにおすすめのツアーだ。男女とも20歳以上。期間は5泊6日、13泊14日などの3コースがある。朝食付き1人部屋のゲストハウス宿泊代、指導教科書代、ホテル~空港までの送迎代などを含む(肝心の価格は不明)(以上)。なお、昨日書いた(2653)ミャンマー与党の変、イラワジ紙の解説基本編の出典は、勝田氏の「ミャンマーよもやま情報局」からのもので有難うございました。

2015年8月16日日曜日

(2653)ミャンマー与党の変、イラワジ紙の解説基本編

  8月15日のYK氏ブログより。今回の政変で多くの情報が発信されている。今回はたまたま入手したこのブログ情報を。〇今回の政変は、テインセイン大統領の地位を確固たるものにし、再選に向けたもの。〇USDP与党議長シュエマン氏が解任され、その後任としてテインセイン派のHTAYOoを任命。〇テインセイン大統領は来年3月に任期切れを迎え、第2期目の地盤を強化した。〇シュエマン氏は次期大統領の最右翼で、テインセイン大統領の最大のライバル。〇テインセイン大統領は心臓ペースメーカーを入れており、次期選挙に立候補しない、するとゴタゴタした。〇残るライバルは野党党首のスーチー氏のみ。但し彼女は憲法で大統領にはなれない。〇シュエマン氏は 軍の意向に反し彼女と協力関係を。〇テインセイン氏は 推薦だけで大統領に。

2015年8月15日土曜日

(2652)ミャンマー民主化に懸念 与党党首解任、軍が後押しか

  8月15日の産経新聞より。ミャンマーで大統領選の有力候補と目されていたシュエマン下院議長が軍系与党USDPの党首を解任され失脚した。ミャンマーは軍政から民政移管を果たしたとはいえ、軍が強い政治力を維持している。軍関係者集団内の「クーデター」は民主化進展の信頼性を揺るがしかねない。13日のシュエマン氏の党首解任と、党中央委員会からの除名は、今年11月の上下両院総選挙の候補者名簿の提出締め切り前日というタイミングで行われた。その後、行われる予定の大統領選ではシュエマン氏と再選を目指すテインセイン大統領の闘いになるとみられていたため、背景に両者の対立があったことは明白だ。シュエマン党首下のUSDPは軍部が求めていた元軍人の立候補を一部しか認めず 軍が解任を後押ししたとみられる。

2015年8月14日金曜日

(2651)ミャンマー総選挙 大きな問題が

  8月13日と14日の朝日より。「ミャンマー政権と与党亀裂」、「総選挙 大統領、与党から不出馬」(以上13日見出し)。大統領『スーチー派』粛清」、ミャンマー与党党首を解任(以上14日見出し)。テインセイン大統領は、11月の総選挙に与党・連邦団結発展党(USDP)からは立候補しないことが明らかになった。大統領側近閣僚も無所属から出馬すると見られ、政権首脳と与党幹部の亀裂が明確になった。背景には現党首のシュエマン下院議長との対立がある。USDPはシュエマン党首を解任し、同氏は自宅軟禁になった模様だ。野党(NLD)党首スーチー氏と連携してきたシュエマン氏の派閥を粛清した「党内クーデター」との見方が出ている。シュエマン氏の失脚で、総選挙は国軍を後ろ盾とするテインセイン氏とスーチー氏の争いとなる構図が鮮明に。

2015年8月13日木曜日

(2650)産学でモノづくりの日本語検定、海外の日系企業従業員向けに

  8月12日の日経電子版より。海外進出したメーカーの現地スタッフ向けに、モノづくりに特化した日本語検定が、来春にも始まる。海外の日系企業で働く人は、アジアを中心に約400万人に上る。日本語人材の育成を後押しし、英語や現地語への対応が難しい中小企業の進出を後押しする。官僚OBや学識者、日本技術者連盟など日本の産学が連携し、月内にも実施主体となる社団法人を設立。「モノづくり日本語検定」として来年から春と秋の年2回実施する。まずタイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム、ミャンマーで数万人の受験を目指す。1000点満点で読み書きと聞き取りの能力を判定、問題は「右ねじ」、「逆ねじ」などの現場作業の語彙や「改善」など日本式経営の考え方など。受験は有料だが、ネットで試験対策用の教材を無償提供する予定。

2015年8月12日水曜日

(2649)全国停戦協定交渉、締結日の立会国について合意が先に進む

  8月10日のミャンマー・エクスプレスより。少数民族上級代表団(SD)によると、8月6日、SDと政府側平和交渉チーム(UPWC)は、今後予定される全国停戦協定(NCA)の締結の際に立ち会ってもらう外国政府や機関などについて基本的な合意がなされたという。UPWCはインドとタイを承認、中国とアセアン、国連については受け入れるという。米国、英国、ノルウエー、日本、EUについては未承認。今回の合意はヤンゴンで2日間開催された第9回全国停戦協定交渉ミーティングの場でのこと。現在NCA締結に向け歩調を合わせているのは、カチン独立軍、カレン民族同盟、シャン州軍など15の武装勢力。一方、交渉さえ拒否しているグループに、コーカン族武装勢力、アラカン軍など6つの勢力で、政府との2者協議を拒否しているか 力が弱い勢力だ。

2015年8月11日火曜日

(2648)ミャンマー語検定試験、ヤンゴンで開催

  8月7日のミャンマーエクスプレスより。8月23日、ヤンゴンでミャンマー語の公開検定試験が開催される。主催はミャンマー語検定協会、会場はヤンゴン大学内。同試験は難易度の低いものから順にM1~M5までの5段階、回答はマークシート方式、リーディング、リスニングの2パートで構成、試験時間は2時間程度、受験料はM1:2500円、M2:3120円。両方受験の場合は4990円。第1回試験はM1・M2の2レベルのみ、今後年2回のペースで試験が実施される。マンダレーなどヤンゴン以外の主要都市や、日本など外国都市での開催を目指す。同協会のヘイマーアウン氏は「これまで外国人が自分のミャンマー語能力を客観的に示す手段はなかった」という。受付はFINALsec社(19番通り)、ココライズ・ジャパン社(サンチャウン郡区)8月17日まで。

2015年8月10日月曜日

(2647)IS(イスラム国)の魔の手がロヒンギャに迫る

  7月28日の朝日新聞に標題のタイトルで「注目されている記事」として小さく紹介された。その内容は7月4日のDr.Maha Hosain Azisのブログだ。過激派組織ISは、仏教徒が多数派のミャンマーで迫害されているイスラム教徒のロヒンギャを勧誘しようとしている。筆者は「宗派抗争の暴力が急激に悪化するだろう」と危惧している。概要は次の通り。ミャンマーはまだIS(イスラム国)の標的に含まれていない。最近新しい民主国家として賛されたミャンマ―の総選挙は11月8日だが、仏教徒過激派によるイスラム教徒大虐殺への決定的な引き金になる可能性がある。現在、ロヒンギャはバングラデシュ国境近くに居住するが、選挙の際仏教徒側は国外追放を訴えるだろう。そしてIS側は、戦闘員候補者として呼びかけるであろう。戦闘開始は目の前だ。

2015年8月9日日曜日

(2646)日米が危惧する「王国」の対中接近

  8月7日の日経電子版より。その「王国」とは立憲君主制下で、国王が一定の影響力を持つタイだ。タイ海軍は7月初め、中国から潜水艦を購入する計画を明らかにした。調達するのは3隻で、総額約1300億円、タイは購入候補國に韓国やドイツを挙げており、共に米国の友好国、ところが今夏になっていきなり中国から購入する方針を決め、米国に冷や水を浴びせている。もともとタイ軍と中国軍には、一定の協力が続いていた。陸軍が中心のタイは、海軍力をどう強めるかが課題で、1990年代には6隻の軍艦を中国から購入した。タイは昨年5月の軍事クーデターによって、米国との関係が冷え込み、選択肢が狭まって中国に傾斜するわけではないが、米国との安保関係を保つ一方で、中国との協力を増やし、タイは フリーハンドを広げようとしている。

2015年8月8日土曜日

(2645)独立のために日本軍と協力し、抗日に転じたアウンサン将軍

  8月4日の朝日より。見出しは他に「ミャンマーでは、日本軍の評価はいまも二つに割れる」。ヤンゴン中央部の丘の上に洋館が立つ。建国の父アウンサン将軍の邸宅だ。日本軍は42年1月援蒋ルートの遮断や資源獲得を狙い、タイから英領のビルマに侵攻、同年5月に全土を制圧する。共に戦ったのが「30人の志士」と呼ばれたビルマ独立義勇軍。しかしアウンサンは45年3月、連合軍の反撃に敗走を始めた日本軍に反旗を翻した。鈴木大佐は「良い日本人」。一方、「キンペイタイ(憲兵隊)は圧政の象徴」だ。今年はアウンサン将軍生誕100年。11月の総選挙には娘のスーチーさんも参加する。民政移管後、日本は経済開発を支援し、日本企業の進出も加速。対日イメージは悪くない。一方スーチー氏のルーツをたどれば日本軍の記憶に行きつく。

2015年8月7日金曜日

(2644)ミャンマー水害

  8月3日(夕)・8月6日の朝日より。ミャンマー北部で先月以来降り続いた大雨で、洪水や地滑りが起き、国連によると27人が死亡、15万6千人以上が被害を受けた。テインセイン大統領は、北西部チン州や、北部のザガイン管区を災害地区に指定。救援活動を行っているが、被害の全体像が把握できておらず、死者などが増える恐れがある(以上3日のニュース)。ミャンマー北西部で大雨で起きた洪水による被害が拡大している。5日までに62人が死亡、24万5千人が被災。北西部ザガイン管区カレー市では約5800所帯が避難を余儀なくされた。同市の住民男性は電話取材に、「隣町までボートでしか行けない状態だ」と話した(以上6日のニュース)。これらの報道はテレビニュースでもしばしば放映、世界の異常気象の一環として取り上げている。

2015年8月6日木曜日

(2643)もう一つの祖国ミャンマー編⑩ いつか祖国でおもてなし

  8月6日の朝日新聞(ミャンマー編・最終回)より。「民主主義獲得を!」。1988年、ミャンマーは一党独裁の打倒を目指すデモに揺れた。吉岡徳喜さんの孫で歌手キンワンさんの長女プインピュティさん(45)も、ピイの大学生でデモに参加した。吉岡さんは一党独裁に振り回されてきた。軍政は「闇商人に打撃を与えるため」と称して、87年まで3回も出された廃貨令では、突然祖父が箪笥に蓄えた高額紙幣の札束が紙くずになった。祖父は70年代にはミャンマー国籍を取らざるを得なかった。父キンワンさんが52歳で亡くなった2000年、母を養うため仕事を求めて来日。駅ビルで総菜販売の仕事をしているが、客を一番に考える「おもてなしの心」が大好き、民主化と経済的な「開国」が進む母国で、「いつか日本の接客を紹介したい」。そんな 夢を描く。

2015年8月5日水曜日

(2642)もう一つの祖国、ミャンマー編⑧⑨

  8月4日の朝日(残留兵、胸中に望郷の念)、8月5日の朝日(日本人になった三男)から。元日本兵の吉岡徳喜さんは「ヤンゴンの市場であった役人は、ミャンマー人というが何かおかしいんだ」とつぶやく。実は吉岡さんが会ったのは別の残留日本兵北村作之蒸さんだった。故橋田信介さんの著作によると、北村さんは戦後捕虜収容所を星吉男さんという男性と逃走、二人とも残留した。北村さんは後年、田舎の村で床屋をしていた星さんと再会、87年にヤンゴン郊外に並んで家を建て、仲良く暮らした。晩年吉岡さんとも交流を深めた。大阪府枚方市の吉岡さんの三男孝夫さんは故郷に帰る準備を始めた。高知の叔父の勧めで日本国籍を取った。大阪の貿易会社でミャンマー相手の仕事をしていたが右手を負傷、これまで障害者年金で暮らしてきた。

2015年8月4日火曜日

(2641)もう一つの祖国ミャンマー編⑥⑦

  ⑥は8月2日の朝日(挫折一転、人気歌手に)、⑦は8月3日の朝日(弟が継承、精米機で成功)より。1975年27歳のキンワンさんは画家としての成功を夢見て日本に向かった。しかし数か月で帰国、弟二人に「オレは歌を作る」と宣言、次第に自作のCDが売れ出し、3作目ぐらいで収入も安定してきた。しかし2000年突然の病気で逝った、享年52歳。父の吉岡さんが88歳で亡くなる8か月前のことだった。吉岡さんは自身の町工場「日本工場」の跡継ぎを次男のキントゥさんに決めていた。キントゥさんは17歳で工場の仕事を始めたが、精米機が大いに売れた。1日に数台売れた日も。しかし88年に社会主義体制が崩壊し、軍事政権が対外開放を始めると、外国製品に取って代わられた。工場は吉岡さんが80年代後半に売却し 暫らくして閉じられた。

2015年8月3日月曜日

(2640)政変 工場接収を覚悟 もう一つの祖国 ミャンマー編④⑤

  7月31日④。8月1日⑤「画家の夢追い父の国へ」。朝日新聞より。吉岡徳喜さんの次男キントゥさん(65)は思い出を語る。1950年頃は英国製の自家用車があったという。ピイでの「日本工場」は順調に成長し、60年代初めにはピイの4大工場に数えられていた。ところが62年にネウイン将軍が「ビルマ式社会主義を掲げ、企業の国有化を始めた。吉岡氏は工場の接収を覚悟し、家族に「日本に行こう」と提案した。しかしピイの工場はどこも接収されなかった。国有化は、中国とインドの資本の追い出しを狙ったものだった。長男キンワンさんは、父に買ってもらった絵具で水彩画を描き始めた。その後ヤンゴン大学に入学するも3年生で退学、結婚もした。「外国に行けば自分の絵も認められるかもしれない」と。75年キンワンさんは父の祖国に降り立った。

2015年8月2日日曜日

(2639)開いた小さな「日本工場」 もう一つの祖国・ミャンマー編③

  7月30日の朝日新聞より(昨日に続く)。1950年頃ピイの街に「ジャパンアロウヨウン(日本工場)」ができた。終戦後も帰国しなかった元日本兵・吉岡徳喜さん(33)が開いた機械の製造や修理の工場だ。吉岡さんは軍隊時代に培った機械の知識が役立ったのだ。妻との間に生まれた長女トゥさんを可愛がり、日本に帰らなかった理由の一つだった。ピイの街はしばらく共産党の勢力下にあった。ゲリラの銃の修理をしたため、当局や他の武装勢力に追われたこともあった。治安が安定すると、工場で最初に作った子供用三輪車が売れ始める。54年に日本と外交関係が結ばれ、ヤンゴン近郊の鉄工所に日本人技術者が来ると、町工場の経営は妻に任せて、数年間通訳として働いた。暮らしは豊かになって行ったが、60年代前半に危機が訪れた。

2015年8月1日土曜日

(2638)兵士の決断「ここに残る」 もう一つの祖国ミャンマー編②

  (2635)に続く。7月29日の朝日新聞より。日本軍の敗色が濃くなった1945年前半、所属部隊がピイから撤退を始める中、「ここに残る」と訴える兵士がいた。後に有名歌手となるキンワンさんの父吉岡徳喜さんだ。「命の保証ができない」と知り合いのミャンマー人に説得され、退却する日本軍敗走時の父の姿だ。ビルマ戦線で日本軍は14万人が戦死したが、吉岡さんは前線には行かなかった。吉岡さんは高知に妻子がいたが、ピイで暮らす間に地元女性と恋に落ちる。後に妻となるテインテインさんだ。退却直前に彼女は身籠る。吉岡さんの部隊はムドンで敗戦を迎え、英軍の捕虜になる。戦友らは日本に帰って行ったが、吉岡さんはピイに戻ってきた。「子が大きくなるまでは面倒を見ようと思った」 83年発行の雑誌「写楽」に残留した理由をこう語った。