2015年8月4日火曜日
(2641)もう一つの祖国ミャンマー編⑥⑦
⑥は8月2日の朝日(挫折一転、人気歌手に)、⑦は8月3日の朝日(弟が継承、精米機で成功)より。1975年27歳のキンワンさんは画家としての成功を夢見て日本に向かった。しかし数か月で帰国、弟二人に「オレは歌を作る」と宣言、次第に自作のCDが売れ出し、3作目ぐらいで収入も安定してきた。しかし2000年突然の病気で逝った、享年52歳。父の吉岡さんが88歳で亡くなる8か月前のことだった。吉岡さんは自身の町工場「日本工場」の跡継ぎを次男のキントゥさんに決めていた。キントゥさんは17歳で工場の仕事を始めたが、精米機が大いに売れた。1日に数台売れた日も。しかし88年に社会主義体制が崩壊し、軍事政権が対外開放を始めると、外国製品に取って代わられた。工場は吉岡さんが80年代後半に売却し 暫らくして閉じられた。
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キンワンさんの52歳での急死。父親にとっては大変なショックでしたな。
返信削除数奇な人生を送られた吉岡徳喜氏、尊敬できる日本人として感慨一入…。
K.A.
K.A.さん
返信削除私たちも戦後の苦しい生活を知っている。吉岡徳喜さんを中心とした戦後もずいぶん苦しかったと思う。立派な生き方だ。