2012年12月31日月曜日

(1693)全難連が選んだ2012年 難民十大ニュース

  12月31日の全難連からのニュース。◆2011年の難民認定率が過去最低(一次手続きで0.3%、異議手続きで1.6%)、◆ウガンダ難民事件で初の勝訴判決(国側が控訴、判決は2月の予定)、◆法務省入管、日弁連、なんみんフォーラムが覚書締結(三者の協働による取り組みが進行中)、◆名古屋難民支援室設立(東海地区での難民申請者の急増を受け支援体制の強化)、◆新在留制度開始(入国管理と在留管理が一元化、しかし仮放免者の社会サービスへのアクセスに懸念)、◆ルワンダ難民初認定、◆ロヒンギャの高裁判決(17人中1人だけ難民認定)、◆第三国定住、第三陣ゼロ(原因究明と支援の在り方に見直しを)、◆ホームレスとなる難民申請者が増加(冬を迎え緊急支援が必要)、◆難民申請者数が過去最高に(2千人を超える見込)。

2012年12月30日日曜日

(1692)読了133冊目:「ビルマの名将 桜井省三」

  副題は「泥まみれの将帥 その生き様の記録」、著者は上條彰、1992年2月・戦史刊行会発行、発売星雲社、定価2500円、387頁。著者は桜井省三とは一度も会ったことがないが、隣接した部隊での長であり、戦後多くの情報を探し当て、類まれな洞察力と、人情味の厚い名将軍の生き様を追い続けた。将軍は陸軍船舶の開拓者であり、上陸作戦の第一人者としてスタート、師団長として中支で活躍後ビルマに侵攻、ラングーンやエナンジョンを制圧、慰霊祭が行われたが、その際桜井師団長は英印軍の慰霊碑も作れと命じた。当時の鬼畜米英という環境下では考えられない命令であった。その後アラカン作戦、インパール作戦、イラワジ会戦、ラングーン撤退、シッタン渡河、抑留生活と続く。戦闘中でも多くの短歌を残し、戦後は、隠遁生活を続け96歳で大往生。

2012年12月29日土曜日

(1691)カチン族の本拠地を攻撃 ミャンマー政府軍

  12月29日の朝日。政府軍とカチン族の政治組織カチン独立機構(KIO)との戦闘が続くミャンマー北部カチン州で、政府軍によるKIO本拠地ライザへの攻撃が本格化している。政府軍は28日、ライザ近郊で空爆を断続的に実施、死傷者が出ている模様だ。今月に入り、攻勢を強めていた政府軍は、KIOに対し、今週中にライザを明け渡すよう要求。KIOが拒否したため、ライザへの攻撃を開始し27日には4人が負傷した。ライザにいるKIO報道担当者は、「28日朝から正午までの間、政府軍の攻撃機5機とヘリコプター2機がライザから12~14キロの地点で断続的に空爆を続けた、周辺には数千人の政府軍兵士がいる」と話した。両者は1994年以降、停戦協定を結んだが、昨年6月に政府軍が攻撃を再開、ライザには戦火を逃れてきた数千人の避難民がいる。

2012年12月28日金曜日

(1690)ミャンマー関連記事

  最近のミャンマー関連新聞記事。◆三菱UFJ、ミャンマー銀と提携、日本企業の進出支援(日経、12月28日)、◆大成建設、日揮がミャンマー新国際空港建設に(時事28日)、◆東芝が来年度中に販売会社設立、家電製品発売(時事28日)、◆三菱商事がダーウェイ港の開発に(東洋経済27日)、◆NECと富士通が、ミャンマー事業加速(産経ビジ26日)、◆ミャンマー旅客機がヘーホー空港で誤着陸、炎上(朝日26日)、◆タイ・インデックス、ヤンゴンで本格的なイベントを受注(NNA24日)、◆ヤマハ発動機、ミャンマーに二輪販社来年にも(時事21日)、◆ミャンマー開発協力で来年1月国際会議ネピドーで(時事21日)、◆世銀の成長率、中国8.4%、タイ5.0%、ミャンマー6.5%(NNA20日)、◆明電舎、ミャンマーの大手変圧器企業と提携(時事18日)。

2012年12月27日木曜日

(1689)読了132冊目:「ミャンマーの女性修行者ティーラシン

  副題は「出家と在家のはざまを生きる人々」、(ブックレット《アジアを学ぼう》22)、著者:飯国有佳子、2010年11月・風響社発行、62頁、800円+税。内容は、①出家と在家のはざま、②出家動機の変容、③ティーラシンの生活、④比丘尼サンガ復興運動の背景。ミャンマーの街を歩くと、僧侶ではないが、剃髪し、薄桃色の衣をまとった女性集団に会う。これがティーラシンで出家している。しかし男性と異なり、女性は比丘尼(僧侶)とは認められない。男女同権が叫ばれていても、上座仏教では厳としてこの差別が存在する。ミャンマーではティーラシンであったドーティッサワディ氏が、スリランカで2003年に比丘尼として認められ大問題となった。ミャンマー仏教界の長老たちは彼女の行動に激怒し追放した。男女同権思想よりも、上座仏教の掟の方が遥かに強い。

2012年12月26日水曜日

(1688)ミャンマー北部 10万人避難

  12月26日の朝日、標記の見出しのほか「政府と戦闘続くカチン族」、「国際支援なく食料・薬不足」、「守られぬ停戦指示」、「〈民族のため〉志願兵増」。ライザ村近くのプンルムラン避難民キャンプは、現在1614人が暮らす。仮設住宅は竹を編んだ壁と床に防水シートをかぶせた簡素な造り、定期的に配給されるのは米と塩、それに時々配られる食用油だけ、KIOによると自派支配地域に30か所以上の避難キャンプがあり、6万5千人が、政府支配地域には3万5千人が避難生活を強いられている。94年に再度停戦協定が結ばれ、カチン州(人口120万人)の多くの地域でKIOの実効支配が認められた。しかし昨年6月、政府軍が発砲し戦闘状態に。KIOの軍事組織KIAには数千人の兵がおり、現在も志願兵を教育中。彼らは「民族のために頑張るしかない」という。

2012年12月25日火曜日

(1687)日本で祝う カチン族のクリスマス

  12月23日の日経電子版で、見出しは「日本で祝う、ミャンマー・カチン族のクリスマス」。12月になると早稲田にある東京平和協会にカチン族の若者たちが安らぎを求めて毎週集まり、クリスマスを祝い、日本の正月のような雰囲気となる。カチン族は約140年前に米宣教師によってキリスト教が伝えられ、英国植民地時代に広がった。軍政の弾圧強化で今も10万人以上が避難生活を強いられている。ポウヤム・ドエブさん(45)も混乱を逃れ、出産間際に来日、一家は帰化を望んだ。長男のダニエル君(12)は自宅近くの小学校に通うが、先日、駅伝大会で銀メダル。長女のパトリシアちゃん(7)も日本で生まれ、子供二人は教会で開かれるカチン語教室に通い続ける。16日の日曜日、二人は「清しこの夜」などをカチン語で歌った。子供へと文化の継承が始まった。

2012年12月24日月曜日

(1686)ミンガラ日本語教室忘年会

  12月23日の夕方5時半から、虎ノ門にあるチムニーで、ミンガラ日本語教室の忘年会が開かれた。ここはミャンマー人女性が店長の店で、彼女も教室の卒業生。1996年に教室を創立したその年から、忘年会は毎年開催しており、今回は17回目。例年通りミャンマー時間で6時からスタート、50人ぐらい集まったかしら。みんなで飲み、食い、しゃべった。何しろ私にとって1年に1回の再会という友人もいて、懐かしく、みんな盛り上がった。途中から出席率の良い生徒への表彰式などをまじえながら会は進行、恒例のビンゴゲームに移った。私は早めにリ-チまで達したが、あと一つが出ず、結局は敗退、そのあとのジャンケン大会もあっさり負けた。歳のせいかな。最後に出たサモサとスープがおいしかった。準備をしてくれた皆さんに厚くお礼を申し上げる。楽しかった。

2012年12月23日日曜日

(1685)ミャンマー、警察署襲撃で3人死亡

  12月19日の日経新聞電子版、標記の見出しが目に入る。ミャンマー北部カチン州パガンで18日、少数民族武装勢力「カチン独立軍(KIA)」のメンバー約80人が警察署を襲撃、警察官ら3人が死亡したと、国営紙が19日報じた。ミャンマー政府は国内計11の少数民族武装勢力との和平交渉を進めているが、KIAとは交渉が難航しており、唯一停戦が実現していない。国営紙によると、KIAは18日早朝、警察署を襲撃して破壊、警察側も発砲して応戦した。KIAはその後、警察署付近の橋に地雷を仕掛け、橋の一部を破壊した。橋は通行できない状態になったという(以上)。そもそもの原因は11日朝、パカンでビルマ政府軍が武器を持たないカチン人女性(17歳と20歳)が市場に向かっていた時に、兵を見て驚き、逃げ出したため銃殺したことが原因のようだ。

2012年12月22日土曜日

(1684)読了131冊目:「ミャンマー現代短編集1」

  南田みどり編訳、1995年2月・大同生命国際文化基金発行、243頁、定価は不詳。編者は14の短編小説を選び出したが、その基準として、作中に何らかのインパクトが感じられ、書き手のメッセージが明確で、日本人がミャンマーを知る手掛かりが得られやすい作品に絞った。そのために、作家を男女半々とし、ヤンゴン派とマンダレー派も半々とした。そしてミャンマー式の生、働、老、病、死そして政治、経済、社会の実相も紹介している。この1冊を読めば、1980年代を中心としたミャンマーの人々の姿がよく理解できる。掲載作品は、落書き病、借家、誰のせいだって!、蝉、同類多数、夢の河、雲間浮遊、甘い微笑、輿入れ支度、国中安泰、漂流果実、生類解放、かぐわしき接吻を、ああ…笛吹きよ、の14編。翻訳が見事なのでどの作品もすらすらと頭に入る。

2012年12月21日金曜日

(1683)ミャンマー支援 現地で会合

  12月21日の朝日に、標記の他「日本・中国などへ参加要請」との見出しが。昨年3月に民政移管したミャンマーに対する初めての支援国会議が、来年1月19・20日に、ネピドーで開かれる。議長を務めるテインセイン大統領は、自らが主導する改革を促進させるため、国際社会の一層の支援を取り付けたい考えだ。会合は閣僚級で、主催するミャンマー政府は、先週、日本をはじめ欧米諸国や国際機関に参加を要請した。こうした支援会合にほとんど参加したことがない中国も今回は参加の意向。ミャンマー政府は2030年までの長期的な開発計画を策定中で、会合では途上国援助(ODA)の方向性が論議される。日本政府は来月、ミャンマーへの円借款を再開し、今年度中に500億円程度の新規供与のほか、無償資金協力と技術協力も、200億円に上る見通し。

2012年12月20日木曜日

(1682)「牛久入管収容所問題を考える会」

  私が「畏敬の念」をもって接しているグループの一つに「牛久入管収容所問題を考える会」がある。通称「牛久の会」だ。私は難民問題に首を突っ込んだのは1996年からだが、2006年12月にたまたま牛久入管に面会訪問した時、この会のリーダー田中さん、大滝さん、細田さんに初めてお会いし、その真摯な面会活動ぶりに触れて感動し、その後の私の活動も大きく影響した。それまでは顔なじみのミャンマー人だけに面会してきたが、その後は、ミャンマー人ならば、面識のない人でも全員に面会することにした。ただ私の能力の問題で、女性だけに限り、男性は大滝さんや細田さんにお任せした。たまたま昨日、田中さんから年次活動報告会の資料が届いた。2010年12月に、東京弁護士会から人権賞を授与されただけあって一段と充実した活動内容であった。

2012年12月19日水曜日

(1681)ミャンマー問題(各マスコミから)

  ◆イラワジ(12月11日):ザガイン管区の銅山開発抗議のデモに参加し、10日間刑務所に拘留されていたガンビラ師が釈放された。 ◆イラワジ(12月11日):ビルマ国軍とカチン民族の軍との戦闘が激化、数十人のカチン人が国軍により死亡、現在も10万人以上の人々が国内避難民キャンプに居住している。◆DVB(12月13日):ヘロインとケシの生産がアフガニスタンで減少、このためミャンマーでの麻薬取引が増大する懸念が増大。 ◆イラワジ(12月14日):タイム誌の「今年の人」トップテンにスーチー氏とテインセイン大統領が登場。 ◆ウォールストリートジャーナル(12月13日):シンガポールがミャンマーの難破船のロヒンギャ―生存者受け入れを拒否。 ◆ミジマ(12月17日):ネ-ピ-ド-で自然資源委員会が発足、民間セクターと協力するシステム。

2012年12月18日火曜日

(1680)野外コンサート 5万人が楽しむ

  12月17日の朝日夕刊。昨春の民政移管後、民主化に取り組むミャンマーのヤンゴンで、16日夜、米有名歌手のジェイソン・ムラーズ氏らが参加した大規模野外コンサートが開かれ、5万人の市民が集まった。同国では半世紀近く軍事政権が続き、集会の自由が制限され、欧米の制裁が科せられていた。海外アーチストが出演する大規模コンサートは史上初めて。主催したのは、米エンターテインメント専門局MTV。人身売買に反対するキャンペーンの一環で、ムラーズ氏のほか、地元の人気歌手ピューピューチョーテインさんらが出演。仏教の聖地で観光名所のシュエダゴンパゴダの人民公園で、ミャンマーをはじめ、周辺国で起きている人身売買や児童労働に反対しようと訴えた(以上)。ヤンゴン市民は民主主義や自由のありがたさを、この夜満喫したであろう。

2012年12月17日月曜日

(1679)自公320超 民主壊滅的敗北

  昨日は投票日、今朝の朝日の見出しは「自公320超、安倍政権へ」とあった。朝日の14日の議席予測と今日17日の獲得議席数を比べてみよう。自民285(予測)⇒293(実績)、民主76⇒57、維新46⇒54、公明30⇒30、みんな18⇒18、未来10⇒8、共産8⇒8、社民2⇒2、大地1⇒1、国民新1⇒1となった。自民と維新が予測より伸びたが、いずれも、予測の幅の範囲内である。しかし、民主の減少は予測の幅(63~88)の範囲を飛び出してさらに減少している。予測した時、態度を明確にしていない人が4-5割いたようだが、それにしてはよく当たっている(以上)。日本の世論調査の腕は大したものだ。今日は日本の右傾化がスタートする日ともいえよう。難民支援は当面いばらの道が続くであろう。公明党が自民の右傾化を抑えるといっているが頼むよ。

2012年12月16日日曜日

(1678)法の支配とミャンマー

  12月24日の朝日窓欄に標記の見出しが。この度来日したミャンマー最高裁長官トゥントゥンウー氏が、慶応大で自国の司法事情について講演、印象に残った言葉が二つある、一つは「裁判所における汚職や不正行為の撲滅」、もう一つは「法の支配の確立」だ。何しろ裁判所が「法の下の平等に反する」と指摘したにもかかわらず、国会は放置を続け、ついには憲法に違反する議員定数配分のまま、衆院選が行われるのだ。どの政党も選挙戦で詫びるでもなく、反省するでもない。「法の支配」などどこ吹く風だ。軍事独裁から生まれ変わるべく、問題を見つめ、乗り越えようとしている国と、問題があることを自覚しているのかさえ疑わしい国と。道が開けているのは、さてどちらなのか、心配になる(以上)。確かにどの政党も触れていない。今日は投票日だが・・・・。

2012年12月15日土曜日

(1677)総選挙、自公で300議席超の予測

  いよいよ明日は総選挙、各マスコミの事前調査が花盛りである。朝日によれば、推計議席数は自民285(公示前118)、民主76(230)、未来10(61)、公明30(21)、維新46(11)、共産8(9)、みんな18(8)、社民2(5)、大地1(3)、国民新1(2)、新日0(0)、改革0(0)、諸派(0)、無所属3(10)。過半数は241議席なので、自民単独で過半数を確保しそう(以上)。この予測が当たるとしたら、以前の自民党政権が復活し、首相は安倍さんになるであろう。そこで気になるのが日本の右傾化だ。日本には外国人なんか不要と言い出し、在日難民を迫害するのではないか不安だ。幸い山公明党党首は、右傾化は防ぐとテレビで叫んでいた。公明党政策集には難民保護を訴えている。みんなの党は、難民保護法を打出している。誰にするかは今夜寝ながら考える。

2012年12月14日金曜日

(1676)難民申請者がホームレスに

  12月10日の全難連情報(共同通信記事)。日本で難民認定を申請する外国人が過去最多となり、政府による生活費や宿泊施設の提供が遅れ、ホームレスとなって野宿を強いられる人が続出していることが分かった。人権団体はすでに50人以上を確認しており、「命にかかわる異常事態だ」と政府に緊急対策を求めている。外務省は困窮している申請者には1日1500円の生活費と、アパートを提供しているが、今年の申請者は1~10月までに2004人(昨年1年間で1867人)に増加しており、対応しきれていない。難民支援協会の場合、朝事務所を開くとアフリカ系の申請者10人が飛び込み、レトルトのカレーを貰い、床に転がって休む。同協会が閉まれば駅や公園で寝る。同協会では「セーフティーネットは政府の仕事、速やかに保護費を支給してほしい」と強調。

2012年12月13日木曜日

(1675)読了130冊目:「破れ狼」

  「破れ狼」副題はビルマ戦線狼山砲第二大隊指揮班長の記録」、著者福谷正典、1995年3月・連合出版発行、286頁、定価2200円。この部隊は朝鮮京城で編成され、昭和19年釜山港を出港、シンガポールを経てマレー縦断、ペグーからマンダレーに入り、さらに中緬国境のワンチンで陣地を構築、米軍指揮下の雲南軍と対峙した。しかし制空権を握られ、物量の差はいかんともしがたく、バモーに転進、ここではインド遠征軍に叩かれた。いわゆる「断」作戦である。ここで著者は敵弾を受けて負傷、野戦病院に運ばれた。1か月後原隊に復帰しマンダレーの戦いに参加するも、結局メイクテーラまで後退、ここで英印軍機甲部隊と最大の決戦、阿鼻叫喚の地獄図絵となる。さらに各地で戦いつつ退却を続け、タトンで終戦、捕虜生活を経て帰国。壮絶すぎる記録だ。

2012年12月12日水曜日

(1674)平均年齢82歳のつどい

  昨日は「きらく会」といって、ライオン研究所で一緒だった同僚7人の忘年会が銀座であった。何しろ入社時からの同僚であり、現役時代が38年間、退職後が24年間、合計62年間のお付き合いメンバーだ。これだけ長いと、みんな成長してると思われるだろうが、あにはからんや、誰も成長なんかしていない。現役時代と全く同じだ。メンバーはいわゆる昭和一桁族であり、日本を成長させたのは我々であると自負する(誤解する)面々だ。昨日は総選挙寸前、候補者を勝手にけなし、○○はバカ、△△もバカと叫びだす。私はこの『バカ』という言葉が大嫌い。そのうち話題は病気に飛び、最後は葬式とお墓に移る。こうして2時間の忘年会は終了。私が続けているブログには賞賛の渦、しかしお世辞が半分。ついでに、ビルマ関連書籍の読破目標2百冊も紹介しておいた。

2012年12月11日火曜日

(1673)シットウェ― 居座る閑古鳥

   12月9日の朝日の特派員メモ欄。「お客さんが多くて忙しいよ」。11月に訪れたヤンゴンで旅行業を営む友人は流ちょうな日本語でつらそうな声を上げた。でも顔には笑みが浮かぶ。まさに「嬉しい悲鳴」だ。改革で注目を集めるミャンマーには外国人が押し寄せている。特にヤンゴンは軍事政権時代に閑古鳥が鳴いていたホテルがビジネスマンや観光客で埋まり、宿泊代金は3-4倍に跳ね上がっている。だがこのブームとは無縁の地域がある。5月末以降、民族間の衝突が起きているラカイン州の州都シットウェ―とその周辺だ。同市で旅行会社を経営するTさんは、昨年11月は94組のツアー手配をしたが、今年11月は6組。多民族国家ミャンマーでは、少数民族問題が国境地帯を中心に未解決のまま残る。中央の活況から辺境が取り残されやしないか心配だ。

2012年12月10日月曜日

(1672)各政党の難民関連政策

  12月7日の全難連資料より。2012年衆議院議員選挙・各党の難民関連政策は以下の通り。民主党、自民党、日本未来の党、日本維新の会、共産党、国民新党、新党大地、新党日本は言及なし。公明党「難民保護の拡大に向けた施策の推進、国際基準に沿った適切な審査、難民申請中の人へのセーフティネットの確立、定住者への支援など」、みんなの党「難民保護法を制定し、難民(政治亡命者)に対する保護を充実させる」、社民党「人道的見地から医療・公的扶助・在留資格付与、就労許可等の支援を講じ、申請・認定・自立のプロセスが円滑に進むようにする。難民条約が順守されるよう政府を監視する」(以上)。11党のうち僅か3党しか難民関連政策に触れてない。また、右傾化が懸念される自民・維新は、難民政策に反対であろう。投票先は決まった。

2012年12月9日日曜日

(1671)まちあるき ミャンマー@高田馬場

   12月7日朝日夕刊。「生活と食 民族の拠点」、「ビルマ語教育、故郷の絆」、「少数民族の礼拝」、「豆腐もあれば虫揚げも」などの見出しが。日本に住むミャンマー人の4人に1人、約2千人が新宿、豊島両区、中でも高田馬場周辺が多い。毎週日曜、小学生から高校生までの8人が日本ミャンマーカルチャーセンターに集まる。自宅ではビルマ語をわずかに話せるが、読み書きはできない子供たちだ。祖国の言葉や伝統文化を教えている。日本人向けのビルマ語講座には現在30人ほどが学んでいる。早大近くの東京平和教会早稲田チャペルの中にはカチン伝道所がある。国民の9割が仏教徒のミャンマーで、カチン族の多くはキリスト教徒。シャン料理店ノングインレイ、カチン料理店オリエンタルキッチン・マリカ、ビルマ料理店マンミャンマーなどを地図入りで紹介。

2012年12月8日土曜日

(1670)民族対立 憎悪の村

  朝日12月17日。標記の見出しの他「焼かれた村(何もしてない)」、「(助けて)記者にこっそり手紙」、「無国籍、招いた差別」などが並ぶ。民主化と経済ブームに沸くミャンマーの辺境の村パリンで、イスラム少数民族と、多数派の仏教系民族の対立が続いている。5月末以降178人が死亡し、のべ10万7千人が避難民となった。憎悪と恐怖が渦巻く西部ラカイン州の現場の村に入った。10月22日仏教系ラカイン族の暴徒数千人が、石油の入ったペットボトルを投げて家々に放火、500戸の家屋のうち204戸が焼けた。住民は「自分たちは何もしていないのに」と。軍兵士が20人駐屯しており、「軍がいるからここにいられる」、夜「ラカイン族を殺せ」という叫び声も、聞こえるという。スーチー氏は「暴力は双方によってなされており、私はどちらの側にも立たない」という。

2012年12月7日金曜日

(1669)読了129冊目:「ミャンマーの土着ムスリム」

   副題は「仏教徒社会に生きるマイノリティの歴史と現在」、著者斉藤紋子、(アジアを学ぼう21)、2010年11月・風響社発行、67頁、定価800円+税。第1章:仏教徒社会のなかのムスリム、第2章:バマー・ムスリムという主張とその背景、第3章:現代のバマー・ムスリム、第4章新しい世代に向けた教育。著者によればミャンマーにはヤカイン州に住むロヒンギャやカマンの他、パンデー(中国系)、パシュー(マレー系)、インド系ムスリムが存在している。全人口に対するムスリムの割合は93年の調査では162万人、(3.8%)とされているが、実際には10%を超えるとの意見も多い。西暦700年頃ヤカイン州にアラブやペルシャの交易船が到達して住み着いた。彼らは周りの仏教徒の中で生活せざるを得ず、積極的にミャンマー国民として生きる道を探している。

2012年12月6日木曜日

(1668)ファミマがミャンマー進出 2年内めど

  12月4日のSankeiBizより。ファミリーマートが今後2年以内にミャンマーとマレーシアに進出する。所得水準が上がり、日系企業が相次いで進出する両国での売り上げ拡大が見込めると判断した。両国では現地企業と合弁会社を設立し、フランチャイズ形式で店舗を展開する方針。出店後2・3年で店舗数を数百店規模に拡大したい考えだ。ミャンマーは6000万人以上の人口を抱え、民主化の進展で大消費地への成長が期待されている。日系企業の進出の動きも活発化しており、大手コンビニでは、ローソンが今年度内の出店を予定している(以上)。コンビニの海外店舗数は、もともと米国発祥のセブンイレブンの3万2千店は別としても、ファミマは1万2千店近く、ミニストップも2千店以上、ローソンは435店と出遅れている。「チャイナ―+1」の動きに注目しよう。

2012年12月5日水曜日

(1667)Letpadaung銅山における暴力的弾圧を非難

  12月3日のPFB情報。PFBは「市民社会及びコミュニティグループはビルマのLetpadaun鉱山に抗議する人々に対し行った暴力的な弾圧を非難する」(11月30日発表)との抗議に賛同した旨発表した。同グループは国際的な54団体からなり、東南アジア諸国も加入している。この銅山は、中国の企業と、ビルマ国軍が所有している企業の合弁であり、平和的に集まっている抗議者に対して放水、催涙ガスを用い、キャンプを炎上させた。負傷者には僧侶も含まれる。またこの事件に関連してヤンゴンの6人にも逮捕状が出され、彼らは身を隠している。この抗議文は、「国際的な人権基準を満たさない法律の廃止や、国際的な専門家を加えての調査など」を訴えている(以上)。抗議に参加した54団体もの名称が明らかになっているが、これだけ並ぶと頼もしく、壮観。

2012年12月4日火曜日

(1666)読破128冊目:「ミャンマー現代短編集②」

  編訳は南田みどり、1998年9月・大同生命国際文化基金発行、292頁。この書は18篇の短編より構成されており、それぞれ、4つの場面にまとめられている。第1場:街角で(1頭の馬・他3編)、第2場:女・子供(小さなエーちゃんの告白・他5編)、第3場:生きるために(腹は主張する・他4編)、第4場:周縁から(蓄音機回しの物語・他2編)。これらの短編はいずれも訳者が月刊ジャーナルなどから選び出したもので、1990年前後のミャンマーの民衆の日常の暮らしを紹介したもの。これらを通して読むと、多民族国家ミャンマーの町、村、山に住む民衆の生きざまや、心の営みがよく理解できる。貧しさを描いた作品が多いが、一方知恵を働かせて、たくましく生きる人々が紹介されている。ミャンマー人を理解する上で役立つ作品だ。なお短編集①は後日紹介する。

2012年12月3日月曜日

(1665)ミャンマーデモ強制排除 スーチー氏ら調査へ

  11月3日の読売オンライン。ミャンマー北部サガイン管区で、銅山の開発中止を求める地元住民の抗議デモを治安部隊が強制排除した問題で、ミャンマー政府は、NLDを率いるスーチー氏をトップとする調査委員会を設けた旨国営メディアが1日報じた。強制排除は11月29日に行われ、AFP通信によるとデモに参加していた住民や僧侶など約百人が負傷した。調査委は、スーチー氏のほか、民主化勢力「88年世代学生グループ」のリーダーで元政治犯のミンコーナイン氏や、上下両院議員ら30人で構成され、デモの背景や抗議活動の状況、開発継続の是非などを調査して、今月末までに報告書を提出する(以上)。この件は(1662)にも記したが、調査委員にミンコーナイン氏が含まれていることにびっくりした。どのような報告書が発表されるのか、興味津々だ。

2012年12月2日日曜日

(1664)民主化進むミャンマーへ31年ぶりに帰郷する

  12月2日の朝日ひと欄、マウンミンニョウさん(64)は、日本から母国の民主化を求めてきたリーダーの一人。難民として認められて19年が過ぎた。ミャンマー政府が8月末、ブラックリストの解除を発表、ところが旅券再発行を在日大使館に申請すると、この間の「税金」300万円以上を求められた。「とても払えない」とテインセイン大統領に直訴状を送る。待たされた末、やっと入国許可の連絡が来た。4日、故郷へと発つ。国際労働組合総連合がヤンゴンに新設する事務所の副所長に就く。所長は日本の連合出身でILO元理事の中嶋滋氏。事務所開設が認められたこと自体が、この国の変化の表れだ。彼は1981年に来日、名古屋大で水産学を学んでいたが88年の騒動では仲間と怒りの声を上げた。11年前から連合が支援する「ビルマ日本事務所」の事務局長。

2012年12月1日土曜日

(1663)難民診療所への支援を 来日したカレン族医師

  11月30日の朝日ひと欄のシンシア・マウンさん。ミャンマーと国境を接するタイ・メソトのメータオ・クリニックには昨年15万人が助けを求めてきた。スタッフ600人、年間入院患者のべ8千人、出産3千人。1988年の民主化運動弾圧でこの地に逃れ、7人の仲間と翌年開設した。皮肉なことに母国の民主化が喧伝されて以来、寄付が滞る。政府への援助に集中したいという国、もはや医療や教育は政府の仕事と割り切るNGO…。職員の僅かな給与もカットし、窮状を訴え、支援を求めてこのほど来日した。夫や4人の子供と診療所内で暮らす。修羅場の連続の半生だが、闘士の顔より慈母か菩薩の風情だ(以上)。彼女のことは11月23日の(1655)でも取り上げたがその活動には頭が下がる。先週ささやかではあるが、渡邊彰悟先生を通じ、寄付させていただいた。