2008年11月29日土曜日

(202)気楽な会 「きらく会」

(2008年11月29日)
  昨日2時から銀座で「きらく会」の忘年会を開催、8人が集合した。私が長年働いていたライオン研究部の同期生の集まりで、みな80歳前後、私が定刻5分前に会場に入るとすでに着席していた全員から、「おめでとう!」の声と拍手で迎えられた。「ありゃなんだ?」と一瞬戸惑ったが、「200回おめでとう!」の声でやっと理解した。参加者の多くが私のブログを見ていたのだ。嬉しいなあ。出席者から、ビルマも北朝鮮もとんでもない国だなあとの意見がでたので、いま私は22日の朝日の記事を読み直した。国連総会で北朝鮮非難決議案に賛成95、反対24、棄権62で採択、ビルマの政治犯解放を求める決議案も賛成89、反対29、棄権63で採択、中露は両決議案共に反対票を投じた。このような決議案は毎年可決されるが、中露の反対で最終的にはいつも棚上げ。多数決では決まらない国連なんてむなしいなあ。

2008年11月28日金曜日

(201)毎日新聞に出たL君の言葉

(2008年11月28日)
  我が家では朝日新聞を取っているが、昨日はたまたま外出し売店で毎日新聞を買って広げた。その中に「難民問題を考えよう」という見出しが目に飛び込んできた。その内容は難民問題を身近に考えるため「表参道ジャック2008」が開かれたとあった。「ジャック」とはハイジャックのように「襲う」という意味もあるが、今回のは「JAC」という在日ビルマ31団体の統合体の名称の意味だ。この記事の中に94年に来日し今も難民認定されていないビルマ出身のLさんが「兄は軍事政権に拘束されたまま死亡した。私も帰国すれば危険だ、私のような人間が日本に多くいることを知ってほしい」と訴えた。彼はBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の中心的人物であり、仕事の合間に誠心誠意ビルマ難民を助けていることを私はよく知っている。彼のように真面目に軍事政権と闘っている人物に対し早く難民と認めてほしい。

2008年11月27日木曜日

(200)ワッハッハ! 200回だ

(2008年11月27日)
  やったー。なん、なんと200回の大台だ。ということは200日続いたということだ。こんなに順調に続くなんてダアレモ思わなかったのでは。私だって思わなかった。このブログの特徴は、①テーマを『ビルマ人関連』に絞り、ビルマ問題、難民問題、入管問題、BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)、ミンガラ日本語教室など得意分野に限ったことだ。さらに②字数を私のパソコン画面上でピタリ10行に決め1字たりともプラスマイナスのないようにしたこと、そして③毎日書くことである。問題は②の字数の問題であるが、結構頭を使うので頭の体操にはもってこいだろう。しかし読者数だが今の所延べ3000人程度、ブログ界では少ないほうだ。ブログランキングを見ると1ヶ月で10万人以上というお化けのようなブログも多数存在している。もちろん私のブログも熱心なファンの励ましに応えるべく300回は頑張りたい。

2008年11月26日水曜日

(199)私も貝になりたい

(2006年11月26日)
  中居正弘主演の「私は貝になりたい」が盛り上がっている。私は50年前にフランキー堺主演の映画を見て感激した記憶がある。米軍捕虜を上官の命令で刺殺した結果、米軍側の軍事裁判で死刑になるストーリーだ。ところで今朝の朝日新聞に「ミャンマー軍政 民主活動家160人禁固刑 『秘密法廷』連日開く 総選挙控え封じ込めか」と大きく出ていた。160人というのはこの1ヶ月間の数字であり、いずれも65年の禁固刑などの長期刑である。このような重罰を受けたのはNLD党員の他、昨年9月のデモを主導した元学生運動家、僧侶たちだ。裁判は刑務所内で連日行われ、短時間の審理で、弁護士や家族の立会いはなく「秘密法廷」そのものであったらしい。被告への弁護を試みた弁護士8人も法廷侮辱罪で拘束されたという。根拠のない罪状で長期刑を科するのは不当であり、みんな「貝になりたい」と思うのでは。

2008年11月25日火曜日

(198)外国人受入 日本語教育は

(2008年11月25日)
  一昨日の日経新聞の社説欄に「人材開国を考える 50年後を見据えて『外国人政策』を」というやや硬い文章が目に入った。その内容は、途上国の人材育成に貢献することを目指した研修、技能実習制度が低賃金で受け入れる裏道として利用されており、その改善のためには政府の「単純労働力は受け入れない」という前提から、「人手不足を外国人労働者で補う」という発想に転換し、期間3年程度の就労ビザを発給したらどうかというもの。50年後には日本の人口は4000万人も減り、生産年齢人口は半減するとの厳しい指摘もある。自民党の議員連盟は今後50年で1000万人の移民を受け入れようとしている。そのためには外国人向け住民台帳の整備や日本語教育の体制整備など今から足元の課題に対応することが必要としている。ミンガラ日本語教室もこの観点からの心の準備がいまから必要な気がする。

2008年11月24日月曜日

(197)新聞報道 10年前は

(2008年11月24日)
  20年間続いているビルマ問題は近年明らかに軍事政権側の圧力が増大している。果たして10年前の今日はどんな状況だったのだろうか。興味があったので1998年11月23日と24日の朝日新聞の切抜きを読んでみた。まず11月23日の新聞であるが、「軍事政権はNLDが要求している90年に選出された議員らによる独自の国会開催を阻止するために幹部ら467人をなお拘束している」というもの。また「NLDの12支部が解散し党員千四百人が離党した」とも報じていた。次に11月24日の朝日新聞であるが、「スーチーさんが自宅で記者会見し、NLDの解散や離脱は軍事政権が圧力を掛けているためで、軍政が圧力を掛けるほど民主化勢力の意志は高まる。NLDは非合法化されても活動を続ける」としていた。失われた20年の丁度中間時点でのビルマ問題であるが、徐々に悪い方向に進んでいることがわかる。

2008年11月23日日曜日

(196)ビジネスガイド ミャンマー

(2008年11月23日)
  いま書棚から一冊の本を取り出した。ジェトロ発行のビジネスガイド「ミャンマー 秘められた可能性の国」というタイトル。1997年3月、日本貿易振興会(ジェトロ)発行、340頁、2575円。約10年前の発行であり、当時のビルマの政治、経済、産業、投資、対日経済関係、投資の実務、ビジネス関連法規などが詳述されている。当時ビルマはまさに秘められた可能性の国であり、日本も関西空港からヤンゴンまでの直行便を開設した時期である。当時、ビルマはアジアの新しい投資先として世界の注目を集めており、本書は日本の各企業への呼びかけを意図したと思われる。しかし軍事政権による民主化運動の弾圧が国際的な批判を浴び、欧米各国との貿易が衰退し現在に至っている。もし軍事政権なかりせば、今頃ビルマはアジアの中核となり、国民も平和を謳歌していたかもしれない。失われた20年は残念だ。

2008年11月22日土曜日

(195)2年間 ビルマを凝視しよう

(2008年11月22日)
  BURMAINFO(ビルマ情報ネットワーク)によれば、先週から始まった民主化活動家や僧侶への長期の禁固刑判決が今週も続き、これまでに70人以上が刑を宣告されている。判決を受けた活動家の多くは、遠隔地の刑務所に移送され、家族などが食料や薬を差入れるのが困難になった。軍政が2010年に予定している総選挙を前に反対意見を徹底的に抑え込む姿勢を打ち出したとみられる。この暴挙に対し欧米政府が非難の声明を出したが、日本政府も外務報道官談話として「深く憂慮している」とした。また今日の朝日によれば、軍政は有名な慈善家であるコメディアンのザガナル氏に禁固45年の刑を言い渡したと報じた。BRSAがサイクロン支援品を依頼したチョートゥー氏の身も心配だ。政府に反対意見を言えない国は民主国家ではない。我々は投票までの2年間、みんなで目を見開いてビルマを凝視しよう。

2008年11月21日金曜日

(194)よく続いている日記(家計簿)

(2008年11月21日)
  私は13年間日記(兼家計簿)を毎日書いている。何しろA‐4の紙に1か月分を記入するのだから、1日分は2行程度の簡単なもの。日記を始めたのは、ビルマ人と接触を始めたので、何か記録に残しておきたいという気持ちと、「みんがらネットワーク」や「ミンガラ日本語教室」の公の部分の収支と、私個人の収支がごっちゃにならないように記録しておきたかったから。最初の日記は96年の11月からで、その中身を見ると、今ヤンゴンのウイン日本語学校の中西校長の送別会をしたとか、ふれあい会館の会場取りのため並んだとか、神田駅そばのビルマレストラン「神田市場」で食事をしたとか懐かしい思い出がいっぱい。当時は、不法残留の話題もあまりなく、難民申請の話も聞こえてこなかった。たぶん、私自身にそういう問題意識がなかったせいだろう。日記には、ビルマ人生徒の名前が次々と現れる。懐かしいなあ。

2008年11月20日木曜日

(193)次々と めでたい話が

(2008年11月20日)
  先日の牛久の女性の会では、おめでたい話がいっぱいあった。新しく赤ちゃんが3人出席して花を添えたが、どの赤ちゃんも実に可愛い(もちろんお母さん方も可愛いが・・・・)。出席できなかった赤ちゃんも含めると6・7人の赤ちゃんが我々のグループに参加したことになる。こんな話題が盛り上がると話の流れは自然と次は誰の番かなとなる。〇〇さんは妊娠2ヶ月らしいとの噂話が出ると、みんなから歓声が上がる。じゃあその次はとなると、今度は結婚の話題。Aさんは11月2日に日本の青年実業家と新潟で挙式、その際の写真を見せて頂いていると、そばにいたたBさんが負けじと12月に式を挙げるとのこと、お相手は私もよく知っているビルマの好青年、さらに1月の結婚式の招待状を私に手渡してくれたのがCさん、いやはや、おめでたい話が続きそうだ。在日ビルマ人よ、皆でしっかりしたコミュニティを作ろうね。

2008年11月19日水曜日

(192)モータウチェ図書館に乾杯!

(2008年11月19日)
  今日の読売新聞を見ると「時代を変える、図書館サミット」という記事が載っていた。内容は、図書館と出版界が抱える問題点を浮き彫りにしたもの。たまたま私は、高田馬場のさかえ通りにあるモータウチェ図書館を訪問する機会があった。この図書館は当初板橋にあって、AHHARA(アハーラ)図書館と称していた。AHHARAとは「栄養」という意味で、頭の栄養という意味のようだ。2004年に今ある下落合に引っ越し、MOE THAUK KYE(モータウチェ)図書館に改名した。モータウとは明け方という意味で、チェは星、すなわち明けの明星という意味だ。6千冊のほぼ全部がビルマ語の本で、きれいに整理されている。ここは本を読みたいビルマ人が集る場所だが、同時にビルマ出身の文化人の講演会活動も活発に行っている。また月刊誌「モータウチェ」も発行し、民主化活動も活発。遠い異国での文化継承の努力に乾杯!

2008年11月18日火曜日

(191)ビルマの情報ルート

(2008年11月18日)
  ビルマ軍事政権は情報管理を強めているから、軍政に不利な情報は流れてこない。そんな状況下でも「ビルマ市民フォーラム(PFB)」や「ビルマ情報ネットワーク(Burmainfo)」からの情報はしばしば参考になる。「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」からも得難い情報が飛び込んでくる。最近入手した情報の中には、「2007年9月の抗議行動参加者に相次ぐ厳刑」というタイトルで、不当な審理を受けている70人の活動家のうち14人に65年の懲役刑を宣告したことを伝えている。このほか、逮捕者のグループ別や、逮捕者氏名なども報じられている。これは2010年の複数政党制に基づく総選挙対策の一環であり、活動家を一掃し、何が何でも2010年の総選挙を成功させようとする意志の現れであり、今まで以上に基本的権利の侵害を図るものと懸念される。民主国家では考えられない暴挙であり、ビルマ国民が可哀想だ。

2008年11月17日月曜日

(190)誕生祝 牛久女性に囲まれ

(2008年11月17日)
  昨日モウタウチェ図書館での礼拝会が終わった後、こんどは高円寺の居酒屋「黒潮」に飛び込んだ。牛久入管に収容されていたビルマ人女性たちが、私の誕生祝いを催してくれたのだ。用意された会場は満席状態で、たぶん30人近く集ったと思う。昨年と大きく違ったのが、赤ちゃんが何人も現れたこと。全員の元気な笑顔がとても懐かしく、皆さんと握手していたら、女性に触れると65年の懲役だという野次も飛んでいた。会は「ハッピーバースデイ」の合唱で始まり、クリスマスケーキのろうそくの火を吹き消し、豪華な食事に移った。その後、ビルマの童謡「モーユワイン」「アポージーオーオー」を合唱したり、傘寿、米寿、白寿の説明をしたり、本当に楽しいパーティーだった。私の時代はそろそろ幕がおりそうだ、これからは、集った皆さん方、さらにそのお子さん方の双肩にかかっている。どうか皆さん、元気でお幸せに!

2008年11月16日日曜日

(189)年寄りを敬う儀式

(2008年11月16日)
  今日はモウタウチェ図書館グループの主催で、日本とビルマの老人に感謝し、敬意を表す仏教儀式が行われるという。私は5日前に80歳の大台に達したから、まあ老人といわれてもおかしくないが、もうひとりの老人は誰であろうか? そんなことを考えながら、高田馬場駅で待っていると、なんとウーシュエバ氏(田辺寿夫氏)が現れたではないか。田辺氏は65歳ぐらい、老人といっては失礼な感じもするが、ビルマ人から見ると仏様のような存在なのであろう。他に70歳位のビルマ婦人が二人で、参集者は約30人。既知の人が多く、楽しい会合となった。まず最初にティンティンウインさんから挨拶があり食事に移った。ウーシュエバが例によってジョークを飛ばしたので食事の席も和んだ。ついで、ソーウインシェイン氏のリードで、隣室で行われた儀式も無事終了、引き続き全員で記念撮影、温かさを感じるひとときだった。

2008年11月15日土曜日

(188)読ませる 熊切氏のブログ

(2008年11月15日)
  アウンミャウインさんは、牛久の入管に収容された後難民に認められ、私たちのミンガラ日本語教室で学んでいたことがあるビルマの好青年だ。その後、難民枠のある関西学院大学に入学、勉学中だ。その青年が発行している「平和の翼」という雑誌にこのたびBRSA副会長の熊切さんが投稿した。題名は「隠された子供たち」。私が読み始めてまず驚いたのが、ペルシャ大王の出生にまつわる伝説から文章が始まっている。学がなければこのような引用はまず無理。読んでいるうちにカレン人およびカチン人にまつわる「隠された子供たち」の実話に移る。短い文章だが少数民族に対する軍事政権の横暴さがひしひしと迫ってくる。そしてブログの終わりには、奪われ秘匿された子供たちが、いつか一人の威厳に満ちた王として親元に凱旋してほしいと結んだ。読み終わって、少数民族の親子に幸あれと祈らざるを得ない。

2008年11月14日金曜日

(187)お荷物持ちましょうか?

(2008年11月14日)
 若いビルマ人と付き合っていて、ときどき「オヤッ、日本の若者とちょっと違うかな」と思うことがある。教室の行き帰りにビルマ人生徒と一緒に歩いていると、誰からともなく「先生、お荷物持ちましょうか」と親切な言葉が聞こえてくる。特に若い女性に多いようだ。私の荷物の中には書籍類が多く、なんとなく重い。そう言われたとき私は「チェーズベー(ありがとう)」とお礼を言って持ってもらうことにしている。もし私が日本人の若い女性と歩いていたら、たぶんこんな優しい声はかからないだろう。そもそも日本では、男性の荷物を女性に持たせるなんて男の片隅にも置けないという風潮があり、私もいままでそう思い込んでいた。しかし、よ~く考えてみると、私が荷物を持って若い日本人女性と一緒に歩いた経験が少ないから議論にはならない。まあいいか、もう80歳た。「お荷物持ちましょうか」の言葉はとても美しく嬉しい言葉だ。

2008年11月13日木曜日

(186)遠隔教育で日本語を!

(2008年11月13日)
  昨日はワクワクの水曜日、例により品川入管の入口を急ぎ足で通り抜けた。私のカバンの中には先週宅下げされたビルマ人女性2人の日本語問題集の回答が入っている。Aさんは4級の問題で80点台、Bさんは4級の問題が90点台で3級の問題は80点台、いずれも60点以上が合格であるから、すべて合格している。昨日はCさんから4級の問題が宅下げされ、今ざっと見たところ90点台でこれも合格間違いなし。これらの問題集は戻ってきたら点数をつけ、誤りは訂正のうえ本人に戻している。そのほか漢字の練習帳も2人から戻ってきたが、いずれも上手に書かれており、一部気になるところは赤字で修正のうえ本人に戻した。このように私は、日本語の遠隔教育を牛久時代から続けており、皆さんから喜ばれている。何しろ入管の中は時間がありすぎ、鬱々と暮らす外国人が多いが、ビルマ人は頑張ってほしい。

2008年11月12日水曜日

(185)誕生日に何たることを

(2008年11月12日)
  PFBの情報によれば、ビルマ軍事政権が民主化活動家14名に懲役65年の刑を言い渡したという。軍事政権は昨年のサフラン革命以降、民主化活動を行っていた学生リーダーや市民の身柄を拘束し続け、昨日の11月11日午後1時にインセイン刑務所での非公開裁判で、この刑を言い渡した。昨年8月のサフラン革命の際、88世代学生グループは国民が直面している経済的な苦境を打開するよう声明文を発表し、翌日以降88世代学生グループを中心に平和的な行動を起し、その後、市民や僧侶が続いて行動したのがサフラン革命であった。軍事政権の容赦ない姿勢を示すものであり、民主化グループとの対話を封じ込めている。終身刑に匹敵するこの処分は、民主化への挑戦であり直ちに釈放することが望まれている。 ところで11月11日は私の誕生日、軍事政権は何たることをしでかすのか。いま怒っている。

2008年11月11日火曜日

(184)やぁ~ 80歳だ!

(2008年11月11日)
  今日11月11日は私の80回目の誕生日、こんなに充実した誕生日を迎えることができたのは久し振り、私を取り巻くすべてに感謝、感謝。満60歳のときはライオンを定年退職したときで、翌日から記念に戴いた旅行カバンを手に夫婦でエジプトへ、満70歳のときは、記念に人間ドックに入り、前立腺肥大が見つかった日、それぞれ思い出がある。今朝からたくさんのビルマ人から、お祝いの電話やメールをいただいた。昼食は家内と豪勢にかっぱ寿司へ。しかし今朝の朝日新聞を見ると「圧政・貧困、国捨てた タイ国境のミャンマー人」とあった。国境のタイ側の街メソトに逃れてきたビルマ人難民は15万人以上と言われ、みな劣悪な環境で暮らしている。掲載写真にはゴミ山で働く少女の姿があった。東京にいるビルマ人難民は、経済的にはまだマシであろうが、心の中は果たして・・・・。私の仕事はまだ当分続きそうだ。

2008年11月10日月曜日

(183)O弁護士の事務所開き

(2008年11月10日)
  一昨日は、私たちが大変お世話になっているO弁護士の事務所開きの日。3時前に駒込駅に到着し、地図を見ながら方々を探したが、方向音痴の小生、目当てのビルがなかなか見つからない。やむを得ず、事務所に電話した所、大川先生が自ら駅前まで迎えに来ていただき申し訳なさでいっぱいだ。事務所にはすでに先客が来ており、私の顔なじみのビルマ人女性や、未知の4人のご家族、そしてつい最近難民の定住ビザを貰ったご夫婦のご主人が見えた。本来奥さんも見えるはずだが、生まれて3週間の赤ちゃんがいるので、失礼したとのこと。彼の保証人はO先生であり、奥さんの保証人は私ということで、彼は満面の笑みを浮かべながら挨拶に回っていた。O先生は現在25人のビルマ人の難民申請者を抱え、裁判で頑張るとのこと、また、難民申請だけではなく、もろもろの問題にも対応するのでよろしくとのこと。

2008年11月9日日曜日

(182) うれし~い! 最高の喜び

(2008年11月9日)
  1年で何回か最高に嬉しいと思うことがある。今日は日曜日、教室でいろんな人とだべっていたとき、突然NIさんから「西田先生、ちょっと来て!」と声がかかった。なんだろうと思って教室に入ると、まさに帰ろうとしていた生徒が、改めて着席しなおしていた。生徒は30人ぐらいいただろうか。NIさんが私にプレゼントするための風呂敷を手に、ビルマ語で何やら説明しだした。たぶん80歳の誕生日のお祝い品贈呈のことだろう。中をあけてみると立派な色紙が8枚も。いずれも日本語やビルマ語でお祝いの言葉がいっぱい目に入ってきた。中には、生徒のお子さんのメッセージも入っていた。こんなにうれしいことはあまりない。この8枚の色紙は、かつて病気見舞にいただいた千羽鶴や,牛久入管時代にいただいた塗り絵の葉書と一緒に私の棺桶に入れるよう家内に伝えた。本当に嬉しい。NIさん、皆さん 本当にアリガトウ。

2008年11月8日土曜日

(181)YES WE CAN と言える?

(2008年11月8日)
  「YES WE CAN」という怒涛のような叫びと共にアメリカの長い長いお祭りは終わった。オバマさんはなんとなくやりそうな雰囲気がある。一方、日本では11月30日に投票があるはずだったが、どんどん先延ばしの状況で、いつになるかは不透明。ビルマはというと2年後の2010年に総選挙があるはずで、軍事政権は民主化ビルマの第一歩と位置づけている。軍関係者が4分の一を占めること、野党のスーチーさんが大統領になれないことが予め決まっている選挙なんて珍しい。軍による大政翼賛会形式の住民対策も進んでおり、いわゆるUSDA(軍政を支持する住民組織)が2千万人以上といわれている。先日、来日ビルマ人からこのUSDAの濃い緑色の手帳を見せてもらった。この手帳が無いと、生活上の不利益が生ずるようだ。こんな状況で、ビルマ国民は「YES WE CAN」と心から叫ぶことができるの?

2008年11月7日金曜日

(180)宗教とビルマ

(2008年11月7日)
  このブログ(161)で紹介したサヤガドボエは仏教儀式であり、感銘を受けた。私たちの周辺のビルマ人のなかには、毎朝仏に祈る人が多く、無信仰の私は彼らを尊敬せざるを得ない。一方、少数民族の人たち、特にカレン、カチン、チンなどの人たちはキリスト教信者が多い。ある統計によると、仏教89%、キリスト教5%、イスラム教4%、その他となっている。仏教のみ政府が保護しており、事実上の国教といえる。ビルマの民主化の問題は、軍政対民主化グループという構図の他、軍政対少数民族、軍政対宗教という構図も見逃せない。最近難民申請者の中でキリスト教信者が多いのもその一つの現れであろう。従来軍人は、僧侶(仏教)を尊敬していたが、昨年9月のサフラン革命で、この僧侶たちが迫害されている生々しい映像が流れた。結局、僧侶をはじめすべての人の上に軍人がいるという構図に変わっている。

2008年11月6日木曜日

(179)ブログを読んでくれる人

(2008年11月6日)
  私の母が105歳で亡くなったのが丁度1年前、今日は1回忌ということで子や孫達が板橋の慈光寺に集った。母は生前、私のビルマ関連のボランティア活動を高く評価してくれ、関連する写真や記事を見せるととても喜んでくれた。母の笑顔を思い出しながら無事1回忌の行事が終わり、別室で会席が始まった。私は親戚一同に読んでもらうために、取材を受けたビルマ関連の雑誌のコピーを持参したが、いつの間にか話題が私の書いているブログ「U MINGALARのつぶやき」に移った。全然知らなかったが、姪の二人は、なんと毎日読んでいるという。しかもその内容が高度ですばらしいとの褒め言葉。その中の一人は、千葉市内で、住民への福祉関連のボランティア活動を、もう一人は旅行関連のボランティアを一生懸命やってるという。ボランティアが大好きな同志が私の身近にいることを知り、なんとなく嬉しい1回忌だった。

2008年11月5日水曜日

(178)水曜日 Aさん頑張る

(2008年11月5日) 
  今日は恒例の品川入管訪問の日、いつものように赤ちゃんを乳母車に乗せたビルマ人女性Aさんと一緒に、難民申請中の女性4人と面会、楽しく話し合った後、Aさんが一人に難民申請書の翻訳文を渡した。引き続き待合室で待ってると、顔見知りのビルマ人が続々現れた。一人は、牛久で毎週面会していた女性、彼女も赤ちゃんを乳母車に乗せていたが、区役所で書類上のトラブルが発生したとのことで、Aさんが支援を約束。次に品川入管で面会していたカレンの女性が現れ、難民申請の翻訳の件でAさんに相談、さらに男性が現れ、ビザが下りたのでイタリヤ料理店に持参する履歴書の記入方法をAさんが教えた。次に、ご主人が収容され、乳飲み子を抱えた女性がその赤ちゃんの仮放免許可を今日取得し、かつ、悩んでいたご主人の保証人と保証金をBRSAの熊切副会長が引き受ける件、Aさんに感謝していた。

2008年11月4日火曜日

(177)みんがらネットワーク会報1号

(2008年11月4日)
  BRSAの会合で雑誌発行の話がなんとなく出てきた。実現すれば会の活動のPR、ビルマ語、日本語併記による日本人支援者の拡大、難民申請者支援の一環として反軍事政権を謳う記事掲載の場の提供など用途は広い。こんなことを考えているうちに、10年前(1998年6月)に私が中心になって発行した「みんがらネットワーク会報」の第1号を改めて読んでみた。表紙はお馴染みの後藤さんによる踊るビルマ女性の写真、内容としては、ビルマ語、日本語が多く使われており、会則案、参加の呼びかけ、祝辞、各グループの活動報告、毎月1回のイベント紹介、飲食店紹介、日本人向け参考情報、図書コーナーにある書籍紹介、新聞情報、会員からのエッセー、漫画、編集後記と続き、結構充実してる24頁。この第1号が原型となり間もなく27号が発行される。このような雑誌が、BRSAでも発行されることを夢見ている。

2008年11月3日月曜日

(176)やっぱり多忙な日曜日

(2008年11月3日)
  昨日は日曜日、秋葉原のミンガラ日本語教室にビルマ人生徒が集る日である。昼ごろ叔母・甥の関係にある2人のビルマ人が来て、保証金の一部をいただき、ビルマ・タイ国境地区での活動状況を聞いた。その後授業に出席している生徒のお子さん(小学校3年生)の宿題を見てあげる。国語と算数で結構多量だったが、自分でぐいぐい答えを出しており、いずれもほぼ100点だった。とても利発なお嬢さんで、日本語はおそらくご両親より上手かと思う。2時ごろ生徒2人が仮放免申請に必要な書類を持参し説明を受けた後預かる。15分後には、大瀧さん(BRSA会長)が初めて来室し、預かったその書類を渡した。その後、通訳・翻訳のできる日本語の上手な生徒を紹介、さらに教室の授業風景を見ていただいた。夕方帰宅後、度々私の入管訪問に同行していただく女性から依頼された翻訳のチェック2件を片付けた。

2008年11月2日日曜日

(175)半年経った サイクロン被害

(2008年11月2日)
  サイクロンがビルマ南部を襲って6ヶ月を経過、死者・行方不明者約14万人を出した大惨事であったが、その後現場はどうなっているのだろうか。 我々のBRSAとミンガラ日本語教室から贈った合計100万円以上の寄付金は全部支援者に手渡しできたようだ。今日の朝日新聞には、「届かぬ援助、遠い復興 ミャンマーサイクロン半年」という見出しで、現況が報じられていた。それによると、5月の支援国会議以降軍事政権は2千以上の援助団体に入国査証を発行、被災地への行き来は自由になったという。国連のまとめでは、必要とされる資金は470億円だが、国際社会が応じたのはまだ半分。一方軍政は、「復興はすでに終わった」と話す。国連によればコメの収量は昨年比3-4割減、幸い感染症の発生は避けられたようだ。支援について政府側、反政府側から各種情報が飛び交ったがまあまあというところか。

2008年11月1日土曜日

(174)二つの ミンガラダディン

(2008年11月1日)
  「ミンガラダディン」とは「幸せなニュース、めでたいニュース」という意味。昨日は年甲斐も無く朝からドキドキ、ワクワクしていた。品川入管へ行くのは毎週水曜日と決めていたが、昨日は金曜日、いても立ってもいられなくなり、午後1時に入管3階に駆け込んだ。そこには、10日前に生まれたばかりの赤ちゃんを抱えたご両親が見えた。事前に入管から写真を4枚ずつ持ってくるように言われたのを知っていたので、八割がた安心はしていたのだがまだわからない。そのうち、赤ちゃんを抱えて部屋を出てきた2人はすばらしい笑みを浮かべ、「トンニ!トンニ!(3年!、3年!)と叫んでいた。その後赤ちゃんの申請手続きのため、一緒に2階を巡った。私が赤ちゃんを見るのはもちろん始めて、髪の毛が黒々とたくさんあり、なかなかのハンサムボーイ、将来の日緬の架け橋になることを夢見ながら、私も二つの幸せを満喫した。