2008年8月31日日曜日

(112)忘れてはいけない 惨害

(2008年8月31日)
  今朝の朝日新聞朝刊に「飢え 襲撃 白衣の苦悩」という見出しで第2次世界大戦中の日赤報告書の内容が発表された。その中にビルマ関係の記事があった。終戦の前年、44年4月ビルマ・ラングーンの北30キロの町の病院に、従軍看護婦、和歌山490班23人が配属された。その報告書には献立表があり「12月5日:朝食・油揚汁、昼食・ポークカレー、夕食親子丼」と余裕のある献立が並んでいた。しかしこれが最後の報告書で、45年1月に北約150キロの最前線に移り、4月には東のタイへの移動を試み、山脈を越え、大河を渡った。だが13人は敵の銃撃にあったり、急流に飲み込まれて死亡、2人は自ら命を絶った。生き残ったのは8人だけ。このほかにフィリピン、満州、パプアニューギニアなどの従軍看護婦の悲惨な状況が記されている。戦後63年が経過したいま、戦争の惨害を忘れてはいけない。

2008年8月30日土曜日

(111)羽ばたけ 平和の翼

(2008年8月30日)
  知人の在日ビルマ人から「平和の翼ジャーナル」という雑誌をいただいた。A-4判20頁で、特徴としてはビルマ語の部分もあるが、大部分が日本語で記載されている。明らかに日本人を主対象にしたビルマ人編集の雑誌である。ビルマ語の読めない私にとっては嬉しい限りだ。その12頁に私へのインタビュー記事がきれいな日本語で掲載されており、タイトルは「ビルマ難民たちへの補助金200万円を出した西田さん」というもの。なんとも面映い。さっそくBRSAの日本人メンバーに配り、牛久の会の皆さんにも郵送した。私たちのミンガラネットワークでも、10年前から日本語とビルマ語両方で書かれた雑誌「みんがらネットワーク」を発行しており、すでに26号となっている。これからも、日本語・ビルマ語併記の雑誌が出ると、両国民の絆がますます堅いものになるだろう。両国民の希望の架け橋を目指し羽ばたけ平和の翼。

2008年8月29日金曜日

(110)スーチーさんが危ない?

(2008年8月29日)
  ここ数日、スーチーさんに関する重大情報がインターネット上に飛び交っている。8月16日以降スーチーさんが食料の受け取りを拒否してるというもの。スーチーさんへの食料は毎日NLD関係者によって届けられているが、8月16日以降は受け取りを拒否した模様。その理由として、国連が2年後のビルマの選挙を公正に行うようにと、あたかも軍事政権側が作った新憲法を是認するような態度を示したことへの反発らしい(本ブログ105参照)。すでに相当な日数が経過しており、健康が非常に危ぶまれている。なお、スーチーさんはビルマの人々の自由のために我々は命を犠牲にしなければならないと述べているとの報道もある。アセアンの国会議員によるミャンマー議連では国連事務総長の早急なビルマ派遣を要望している。もしスーチーさんが倒れたらビルマの民主化活動に大打撃を与えるであろう。正確な情報を!!

2008年8月28日木曜日

(109)不法残留者をなぜ助けるの?

(2008年8月28日)
  昨日知人とコーヒーを飲みながら雑談した。その中で日本の法律を犯した不法残留者をなぜ助けるのかという質問があった。不法残留者でも、在日ビルマ人の場合は難民申請すれば、強制送還は原則なく、日本に合法的に在留できる。難民認定には1~2年かかるが、入管が難民または在留特別許可(定住・特定活動)を認めればビザは取得できる。問題は不法残留者として収容されてから難民申請した場合だ。この場合は、偽装難民の疑いが濃いので、数ヶ月から1年前後も入管に収容され、かつ、ビザをもらえる可能性はきわめて低い。このような場合、裁判で訴えるか、2回目の難民申請をするしかない。難民申請したため母国には帰れず、日本ではビザがなく法的に不安定で、劣悪な暮らしを余儀なくされる人が、もし病気にでもなったら誰が助けるのか? 人道的立場で、BRSAはじめ我々有志の出番だろう。

2008年8月27日水曜日

(108)日本語を学ぶ場 貧弱?

2008年8月27日)
  日曜日の朝日新聞に「国を開く」という欄があり、今週は「日本語を学ぶ場 貧弱」との見出しがついていた。在留外国人に日本語を教える場として日本語学校と日本語教室がある。日本語学校の主な目的は大学や専門学校への進学であり、現在4万4千人が在籍している。一方地域の日本語教室の主な目的は、日本での生活であり、学習者は4万1千人余といわれている。しかしプロの日本語教師は増えていないようだ。最初のころは月収4~5万円、夏休み中は無収入であり、社会保険もない。プロの教師の3分の2は非常勤であり、平均時給は1889円、給料が低いため生活を維持するのが大変だという。結局将来の見通しが立たず、途中でやめる教師が多いようだ。私たちのミンガラ日本語教室は生徒がすべてビルマ人という特色があり、ベテラン教師も常時20人いて、皆ボランティアだが長く続いている。

2008年8月26日火曜日

(107)アノワードって?

(2008年8月26日) 
  「U MINGALAR」という言葉について、検索サイトを探しているうちに、アノワード(ANOWORD)という言葉に初めて接した。アノワード?? 一体なんだろう。そこにはTBSニュースの紹介と並んで「U MINGALARのつぶやき」の中の幾つかが紹介されていた。クリックすると確かに私の打った文章が現れて来る。結局アノワードとは、検索サイトの一種で、グーグルやヤフーのものと同じようなものであるらしい。自分が打ったブログが世の中に広く紹介されるということは、作者にとって、とても嬉しいことだ。一方、ブログ本文にもコメントが常時見られるようになった。閲覧者のカウンターも恐る恐る8月4日に付けてみたが、以降今日までに510件以上となった。そういえば、初対面の人から「ブログ見てますよ」との声もかかって来る。そのせいか最近は私宛にビルマ関係の雑誌からの取材が立て続けに3件も来た。ブログも 加油!

2008年8月25日月曜日

(106)8月度役員会 BRSAよ加油!

(2008年8月25日)
  昨日は午前中ミンガラ日本語教室に顔を出し、日本に来たばかりで、日本語の分からない親子にアイウエオを教えた後、数人の生徒と雑談、1時10分に出発して巣鴨の大滝邸へ。そこでBRSAの十数人のメンバーと一緒に恒例の役員会に参加。主な議題は支援対象者への支援金支給方法、ささやかな予算の中から、希望者全員への仮放免保証金(30万円)の全額支援は無理ということは分かっているが、何とかして少しでも支援してあげたいという熱意から、実にいろいろな意見が出された。助けてあげたいが予算不足という現実に会長の顔には苦悩の色も。日本人とビルマ人、言葉の通じないもどかしさも双方に見られたが、こういう議論を続けることで、この会は発展していくだろう。折りしも昨晩は北京オリンピックの閉会式、確かに中国のオリンピック運営はすばらしい。比べることは無理としても、BRSAよ 加油!

2008年8月24日日曜日

(105)アレレ! スーチー女史と国連

(2008年8月24日)
  今朝の朝日新聞を見てアレレと思った。その要旨は「ガンバリ国連特使、外交手詰まり スーチー氏と軍政トップに会えないまま出国」というもの。国連特使が軍政トップに会えないことは以前にもしばしばあったし、また軍政側の強権によってスーチー女史と面会できないこともあった。今回もそうかなと思って読み出すと、どうも違う。今回はスーチー女史のほうが面会を拒否したのだ。この原因は、2年後に総選挙を実施し独自の「民主化」の既成事実を急ぐ軍政側の方針に対し、国連側が「公正な実施」を求めたため、スーチー女史の目には軍政の「民主化」を国連が認めたと映ったようだ。ビルマや北朝鮮などの独裁国の外交手腕はなかなかのもの。スーチー女史は自ら国際社会につながる窓口を閉ざした格好だ。外部の情報が遮断され、孤立状態のスーチー女史の判断は、今後どのような結果とつながるだろうか?

2008年8月23日土曜日

(104)いろいろな疑問

(2008年8月23日)
  私は品川入管に行くと、ときどき係官に質問をぶつけている。先日の訪問時には、「難民」での定住者と、「在特」での定住者の違いを聞いてみたところ、永住の申請をするとき「難民」のほうが配慮されるとのこと、これは納得しやすい。次に難民申請者が、「在特」を取得した後「難民」を取得することはあり得るかと聞いた所、この二つの決定は、全く別の判断で決まるので、あり得るとのこと。この答えにはびっくりした。私は「在特」というのは「難民」とは認められないけれど、人道的配慮で在留を認めると解釈していた。しかし同一人が、「在特」認定と、それに相反する「難民」認定を同時に取得できるのだ。今後もよく勉強していきたい。次に収容後難民申請した場合、収容期間はどのぐらいなのか? 昨年までは1年前後だったと思うが、今年は4ヶ月前後、短縮されるのは大いに結構、でも、恣意的決定はそろそろ・・・・。

2008年8月22日金曜日

(103)この差入 喜ぶかな?

(2008年8月22日)
  私は毎週水曜日に品川入管を訪問している。この入管に全部で何人ぐらいの外国人が収容されているのか全く分からない。一方、面会者は1日2~300人ぐらいか、多くの人は何かしらの差入品を持ってくる。それとなく観察していると、その多くが衣類や、書籍、化粧品などで、現金も少なくない。なお食品は差入禁止である。私の差入品は皆とちょっと違う。収容者が難民申請中で長期間(4ヶ月前後)滞在しているということもあり、もっぱら日本語教材を差入れている。日本語をほとんど話せない人にはアイウエオクラスの教材を、少し話せる人には4級~2級の教材だ。ときどき日本語能力試験の問題も差入れ採点してあげている。勉強の好きな人はとても喜ぶが、そうでない人は関心をあまり示さない。でも、日本で難民を申請した以上ぜひ日本語を勉強し、日本人社会に溶け込んで欲しい。彼女らの未来のためにも。

2008年8月21日木曜日

(102)日本も考えて!アムネスティ政策

(2008年8月21日)
  不法滞在者は17万4千人いて、政府が掲げた不法滞在者半減策も達成不可能と思われる【本ブログ(37)参照】。そこでいま政府が考えているのが、入国段階でのチェックの強化で、空港での両手人差し指の指紋採取。最近7ヶ月間で5百人余が入国拒否された。また、パスポートの代用に使っていた外国人登録証の管理はいままで各自治体で行っていたが、今後は法務省(入管)が各種情報を記録したICカードに切替えるので、管理の一元化が進む。不法滞在者はこのカードを取得できないので、日本滞在は極めて難しくなる。これを解決するには、帰国するか、難民申請するか、在留特別許可を得るかの方法しかない。しかし途中からの難民申請は認められにくい。長年日本社会に溶け込んでいる優良外国人は、不法滞在であっても日本政府の力で何とか助けてもらえないか。欧米の「アムネスティ政策」のように。

2008年8月20日水曜日

(101)仮放免の申請と認定

(2006年8月20日)

  昨日に引き続き今日も忙しかった。仮放免に関連して二つの事務処理が偶然重なってしまったのだ。新規の申請と、以前申請した人の仮放免認定の二つだ。不法残留等で入管に収容された後に難民申請した人が入管を出るには仮放免申請しかない。もし申請しないと理論的には延々と収容されることになる。申請内容のポイントは、出たら法律を守るということと、保証人がそれをチェックし、保証金(現在は30万円が多い)を支払うというもの。A君については昨日もこの欄で記載したが、今日は品川入管で、A君と保証人(私)が雁首を揃えて出頭、30分後無事仮放免の認定書をもらって万事終了。一方、新規に仮放免を申請したB君については、10枚ぐらいの仮放免申請書を揃えて提出する。以上2人の仮放免関連の仕事を終えた後、収容されている7人に面会、皆元気だった。入管は収容しない方法を考えて欲しい。

2008年8月19日火曜日

(100)しっかり踏んで! 日本の大地

(2008年8月19日)

  今日はなんとなく嬉しい日。約4ヶ月間入管に収容されていたA君が仮放免になる日なのだ。私は保証人として彼の叔母さんと一緒に牛久入管を訪れると、玄関前でBRSAの大瀧会長が待ち受けていた。早速、私は2階の総務課で書類記入後、大瀧会長の運転で龍ヶ崎の常陽銀行に向かった。タクシーだと往復6千円かかるが、今日は大瀧会長のサービスなので、嬉しい。常陽銀行で仮放免の保証金30万円を支払い、再び牛久入管へ。総務課で銀行からの領収書と引き換えに保証金受領書をもらう。その後待合室で待つこと40分、A君が元気な姿を見せた。ここで叔母さんや大瀧さんと固い握手を済ませて記念撮影、これで今日の儀式は終わる。なお明日もA君と一緒に品川入管に行き、そこで始めて仮放免が正式に認可される。A君は成田空港で難民申請したので、日本の大地は始めてだ。しっかり踏んで欲しい!


2008年8月18日月曜日

(99)あの目がいまも 毎日新聞ひと欄

(2008年6月18日)
  親友K.A.さんから8月16日の毎日新聞のひと欄に、「ビルマ民主の声(DVB)東京特派員」のティンアウン氏(在日ビルマ難民)が紹介されていたというコメントをいただき、それに記事全文が紹介されていた。我が家では朝日新聞なので、とても参考になった。記事の内容は以下のとおり。88年9月のヤンゴンでの学生デモのとき、すぐそばにいた友人が兵士に撃たれ、訴えるような目で倒れた。自分は逮捕を恐れ91年に来日、01年から前記の特派員の仕事を始めた。自宅は6畳一間、朝4時に起きてビル清掃の仕事をした後、午後3時まで飲食店で働く。記者を始めるのが夕方以降、国会議員や在日ビルマ人を取材、編集してノルエーの本部にメールで送る。報酬は1ヶ月3万円。「民主化に湧く国民の声を取材するまで諦めない、死んでいったあの目がいまも私を見つめている」と。 私も彼から一度取材を受けた。

2008年8月17日日曜日

(98)女子マラソン スタート

2008年8月17日)
  今朝のテレビでは、北京オリンピックの女子マラソンのスタート風景を放映していた。色とりどりのユニフォームを着用した各国の選手が百人近くいただろう。しかもほとんどがへそ出しルック、まさに平和の祭典といった感じ。日本選手はと気になったが、へそはナイナイ。これだけの各国選手が、一緒に走る光景を見て、世界平和の大切さをひしひし感ずる。もちろん北京にはかなわないが、実は私も毎週多くの国の人々と話をしている。場所は品川入管の面会待合室。中国、韓国、フィリピン、パキスタン、イラン、そしてビルマ人、各国の人々が、親戚や友人の安否を心配して面会に来ている。彼らは慣れない日本のお役所仕事にしばしば戸惑っているので、書類の書き方などを教えてあげている。私は入管面会はお手の物、自然と教えたくなってしまう。もちろんビルマ人を見つけると、進んで話しかけている。平和よ 続け!

2008年8月16日土曜日

(97)30年前の陸上選手たち

(2008年8月16日)
  今から30年前、私は中国南部を旅行した。目的地は山水画を髣髴させる桂林、璃江下り。当時中国人は青色のいわゆる人民服と人民帽をほぼ全員が着用しており、人だかりはまさに青一色、そしてポケットには皆赤い表紙の毛沢東語録を持っていた。そんな時代だった。桂林に行く途中、広州のあるホテルに宿泊した。そのホテルで出会ったのが、ビルマの陸上選手たち、男女10数人いた。この広州で南アジア陸上競技大会があったという。何しろ底抜けに明るく人懐こい若者たちで、私を選手達の部屋に招き入れ、身振り手振りで歓談した。どうやら競技は全員終わったらしく、砲丸投げの選手(身振りで推測)は頭上に3本指を突き出した。3位だったのかしら。この出会いが、私とビルマ人との最初の触合いだった。今日、オリンピック陸上もいよいよ始まった。30年前のビルマの選手達は、今頃テレビを見ているかしら。

2008年8月15日金曜日

(96)「終戦」と「戦争続行」

(2008年8月15日)
  今日は63回目の終戦記念日、私は当時旧制中学4年生だった。当日朝、隣のご主人(放送局勤務)から日本が負けた旨の噂を聞いた。その数時間後、ラジオから玉音放送が流れ、敗戦を実感した。そのとき私が考えたことは今でも明確に覚えている。泣きながら「自分のガンバリが足りず申しわけない」と。私がいくらガンバってもどうしようもないことが分かっていたのに、何故かそんな気持ちだった。以後、食べ物がみるみるなくなり、主食は芋やかぼちゃ、味噌汁の具には芋の葉っぱが続いた。一方、今朝読んだのは、ビルマの少数民族カレン族の殉難者の日に出されたカレン民族同盟議長のメッセージ。この中には政府軍に降伏するなと訴え、自分達の将来は自分達で決める権利を獲得し、カレン州の自治と連邦国家の設立を目指して、民族が一丸となって政府軍と戦おうというもの。ビルマに平和は来ないのか?

2008年8月14日木曜日

(95)日本の先住民族問題

(2008年8月14日)
  3日前の新聞に「アイヌ政策来夏に提言 有識者会議初会合」の見出しで、アイヌ民族の尊厳回復などを議論する政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」の初会合の概要が掲載されていた。アイヌ民族の代表者は、「これまでアイヌの人たちが辛酸をなめ、差別され、現在でもなお、そういう思いでいる人がいるということを、ぜひ認識していただきたい」と訴えている。また6月8日の中央日報(韓国)は、日本議会が「アイヌは先住民族」との見出しで、日本国会がアイヌに対して総合支援対策を進める決議文を採択したと論じている。その中で、「多数のアイヌ人が、差別され、貧窮を余儀なくされた歴史的事実を厳粛に受け止め、アイヌ民族を独自の言語、宗教、文化を有する先住民族として認めなければならない」と強調している。ビルマの少数民族問題を論ずるには、まずアイヌ民族を知る必要があろう。

2008年8月13日水曜日

(94)いろいろあった一日

(2008年8月13日)

  昨日はいろんなことがあったなあ。朝近くの津田沼中央総合病院で2ヶ月ごとの診察を受ける。特に問題はなく、恒例の胃腸薬をもらった。と、そのとき携帯のメールが鳴った。ビルマ人のA君からで、品川入管にいま収容されたので保証人になって欲しいとのこと、すぐOKと返信。このため病院から出て、習志野市役所で住民税証明書を、千葉西税務署で所得税証明書を、習志野市西部事務所で住民票を、千葉銀で残高証明書をもらった。家に着くと電話が鳴り、牛久入管に収容されていたB君が仮放免許可になったとのこと、またまた千葉銀に出向き30万円を引き出し、B君のおばに連絡、牛久行きの時間を調整した。この日はメールも多く、その中にややこしいのが1件あっててこずった。夕方我が屋を塗り替える塗装屋が来たが、肝心の色が決まらずイライラ。暑い1日だったが、もちろんリンピックもときどき観戦。

2008年8月12日火曜日

(93)イギリスからの2つの意見

(2008年8月12日)
  けさメールをチェックしていると、ビルマに対する日本の姿勢に、イギリスから2件の意見(苦情?)が入っていた。その一つは、「ビルマの軍事政権を支える保険産業の実態」と称する英国ビルマキャンペーンからの報告書である。内容は世界の保険会社が軍事政権に投資を保証し、軍政を財政的に支援しているというもの。その保険会社に、日本の有名な保険会社3社も入っているという。他の一つは、英国保守党人権委員会副議長のベネディ・ロジャーズ氏の論文で、「20年間ビルマ国民を裏切る日本の政策」という題で、日本政府は自らのビルマ政策を見直すと同時に、軍政への支援をやめるよう中国政府に働きかけるべきではないか。そして日本国民は、日本政府の道徳観を呼び覚ますよう、呼びかけて欲しいという。このような意見は、私も13年間何回も聞いており、一つの方策としてBRSAを立ち上げたのだが。

2008年8月11日月曜日

(92)ビルマ人支援+会長支援

(2008年8月11日)
  BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)は、山あり谷あり、しかし力強く発展している。会員各位、特に役員のご努力で、立派な団体に成長、8月8日に行われた炎天下の8888デモにも会員が積極的に参加するまでになった。このような行事に本来は私も参加すべきであるが、何しろ80歳の老人、健康面を考えると若いメンバーに頼るしかない。また、夜の会合にも不安があり、ここ5・6年はすべてお断りしている。幸い大瀧会長は取手在住にも関わらず、牛久に、巣鴨に、品川に、縦横に飛び回って、ビルマ人の支援に全力を尽くされている。困っているビルマ人から支援を頼まれたときは、誠心誠意話を聞き、的確に処理している。ビルマ人を常に信頼している会長の姿勢はまことに尊いものがあり、ビルマ人役員・会員は是非会長を今まで以上に支えて欲しい。そして在日ビルマ人諸団体の中で模範的な団体になろうョ。

2008年8月10日日曜日

(91)少数民族問題 中国、ビルマ そして

(2008年8月10日)
  オリンピックの開会式のなかで、それぞれの民族衣装で着飾った中国の55の少数民族の子供達が、きれいなハーモニーで、オリンピック賛歌をギリシャ語で歌っていた。少数民族の子供達が、一つにまとまってオリンピックのために歌い上げる姿はすばらしい。しかしながら、数多い少数民族がまとまっているとは到底考えられない。チベット族への弾圧、新疆ウイグル自治区のトルキスタン・イスラム党の不穏な動きなどが目につく。ビルマ同様、中国でも少数民族問題は国として大きな政治問題だ。ビルマでも多くの少数民族がそれぞれ自治を狙っている。一方、オリンピック開幕と同時にグルジア軍が南オセチア自治州に侵攻し、逆にグルジアの首都トビリシをロシア軍が爆撃、世界は一挙にきな臭くなってきた。ソ連時代、私はトビリシを旅行したことがある。両国は民族対立に基づく戦闘を即時中止すべきと考える。

2008年8月9日土曜日

(90)もう一つの8月8日

(2008年8月9日)
  今朝もいつもどおり7時に起きたが、眠い、暑い。たぶん皆さんも同じだろう。現地時間08年8月8日の8時8分から始まったオリンピック開会式のテレビ中継に見入ってしまったのだ。204カ国、一万人の選手が参加した世紀の祭典は、実に壮大、見事としか言いようがない。中国の威信をかけたイベントは成功裏に終わり、まずは拍手を贈りたい。私はビルマ選手団が入場行進をした所をカメラで撮影しておいたが、うまく写っているかしら。選手は8人だったが、健闘を祈る。ところで今朝の朝日新聞は、さっそく「もう一つの8月8日」という社説を掲載した。その後段に「北京五輪に沸く中国は、ミャンマー軍事政権に最も大きな影響力を持つ。(スーチーさんらとの)対話を実現させるため、責任ある大国として役割を果たしてもらいたい」と。世論はオリンピック一辺倒だが、中国はぜひ隣国ビルマの暗雲を取り除いて欲しい。

2008年8月8日金曜日

(89)悲しき合体!二つの8888

(2008年8月8日)
  テレビではオリンピックが開催されるきょう8月8日8時8分を8888として大々的に取り上げている。中国では8という数字は縁起の良い数字とされている。あと10時間も経てば、たぶん私もテレビの前に陣取り、4年に一度の祭典というか、中国式の8888の瞬間を見入ることになろう。一方、きょうの朝日新聞には、「ミャンマーの8・8 蜂起20年 弾圧なお 元学生ら帰国できず 軍政の崩壊信じる」との活字が躍っていた。その横には、ブッシュ大統領夫人がタイのメソットにある難民のための病院を視察する写真もあった。もう一つ、インターネットでの世界各国のビルマ人活動j家への呼びかけには、「中国はビルマ軍事政権への最大の支援国であり、各国の中国大使館前で軍政支援の停止を求める抗議集会を開こう」と呼びかけている。ビルマと中国、2つの8888が、奇妙なことに、こんなことで合体することになった。

2008年8月7日木曜日

(88)居心地は? 品川入管

(2008年8月7日)
  昨夜のテレビで品川入管の収容施設の内部が放映された。居室内部の放映なんて初めてではないだろうか?第一印象は「きれいだ」、「広い」。中央に大きなテーブルがあり、各人の持ち物は、オープンな棚に整然と並んでいた。数少ない娯楽の一つ、テレビは薄型で天井から吊り下げられていた。部屋には5・6人の女性がいて、食事はビニル製容器の弁当で、結構おいしそうに見え、病人用の特別食も用意されているという。自費で日用品は買える。この日はカップラーメンも食べており、唐辛子の粉を振り掛ける様子も微笑ましい。医務室も予想以上に整備されており、一応安心した。狭いが運動場もあり、この日はフラフープで遊ぶ風景が映し出された。オーバーステイで収容され、難民申請したビルマ人も、ここで4ヶ月前後は暮らすことになる。彼女らの苦情は、部屋の施設というよりも、同居する外国人関係が多い。

2008年8月6日水曜日

(87)あと2日 そしてあと何回

(2008年8月6日)
  今日は8月6日、「あと2日」とテレビが連呼している。でも私の考えている「あと2日」とは内容が違う。ちょうど20回を迎えた8888記念日があと2日に迫ったのだ。この記念日は、ビルマ人全員の頭にグサリ刺さった記念日なのだ。20年も経つのに何も展望が開けない現状を見ると、陰鬱な記念日といえよう。20年前の朝日新聞には次のように記載されていた。8月5日:「ビルマの実態 失業・困窮 あえぐ庶民 買いあさる富裕層」、8月6日:「ペグーでも暴動 ラングーンで149人逮捕」、8月7日:「ビルマ 地方でも抗議行動」 「ビルマ政権交代は政変 党大会でネウイン氏誤算」 「学生事前逮捕か ゼネスト控え緊張増す」 8月8日:「デモ各地に拡大 警官隊が発砲 死傷者も」 8月9日:「デモ 軍隊を包囲 ラングーン見事な統制 兵を威圧」と続く。ビルマ国民はこの陰鬱な記念日をあと何回迎えるのだろうか。

2008年8月5日火曜日

(86)豪で難民政策見直し 日本は

(2008年8月5日)
  新聞によると、豪州政府は、同国への難民申請者を強制的に収容所に隔離してきた政策を原則廃止し、「より人道的な対応を取る」と表明した。収容所に入るのは、社会に受け入れがたい危害を加えると認められた場合などに限るとし、子供と家族は収容所に送らないことも明らかにした。今後難民申請者は、審査期間中、移住者向けの定住促進用の住宅で暮らすことができるという。例外的に収容所に入った申請者についても、審査当局は3ヶ月ごとに必要性を証明しなければならない。国連によると07年の豪州への難民申請者数は3970人(日本は816人)。在日難民申請者にとっては一つの朗報である。日本では、収容される前に難民申請をすれば、多くの人は収容されないが、不法残留等で収容されてから難民申請した人は、数ヶ月以上も入管の施設に収容されている。「原則収容せず」の機運よ、高まれ!

2008年8月4日月曜日

(85)ビルマかミャンマーか それとも

(2008年8月4日)
  親しいビルマ人とビルマの民主化について話していると、彼はいきなり「ビルマの国名を変えなきゃぁ」と言い出した。彼の主張はこうだ。「ビルマという国名はビルマ族を主体に考えた国名だ。軍事政権は、少数民族を含めた国名としてミャンマーに変えたと称している。しかしこれはおかしい。ビルマとミャンマーは口語体と文語体の違いだけであって、中身は同じだ」。この問題はこのブログの(38)でも触れたが、突然ビルマ人から国名変更といわれるといささかショックである。日本にいる民主化グループのビルマ人の多くは「ビルマ」を愛用しているが、その理由は「ミャンマーという国名は軍事政権が勝手に変えたものであり、承知できない」というもの。私は「ビルマの竪琴」の印象が強かったせいか、あまり意味なく「ビルマ」を愛用している。さて、この友人はどんな新国名を夢見ているのであろうか?一度聞いてみたい。

2008年8月3日日曜日

(84)朝日特派員ブログへのコメント

(2008年8月3日)
  7月23日に書いた「(73)朝日新聞特派員のビルマ関連ブログ」で、彼(山本記者)のブログにコメントしたことを書いた。その後7人のコメントが公開され、その中に私のコメントもあったので紹介しておこう。 『いつも朝日新聞国際面で山本さんの記事を拝読。この氷山は、とてつもなく大きく、硬く、冷たいですね。私は戦争とか、暴力などは大嫌い、あくまでも平和裏に少しずつ溶かして、この氷山を小さくする方法を考えましょう。ペンは剣より強しといいますが、最強の武器を山本さんは持っていますよね。私が思うにASEAN憲章の修正が一番の近道かと。特に「内政不干渉」と「全会一致」の項目は多くの人が矛盾を感じ、イライラしてると思います。現在でもASEAN各国の多くは、この二つの項目の修正に賛成しています。こういう潮流の中、日本のマスコミが (・・中略・・) ペンの力は強いはず、大いに期待しています』。

2008年8月2日土曜日

(83)BRSAよ 飛躍しよう

(2008年8月2日)
  私たちのグループBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)が発足して4ヶ月が経過、まずは順調に活動を展開している。この団体は、日本人とビルマ人が相協力して難民(申請者)を助け合うというユニークな組織であり、その崇高な基本理念はみんなから高く評価されている。今後一段と飛躍するために、私は次のように考えている。①二つの国の人々が、協力して事業を進めるための相互信頼感の醸成 ②17人の役員の明確な分掌化 ③各専門委員会の立ち上げと真摯な討論 ④会員数の増加と全会員の把握(全会員が何らかの方法で参画する) ⑤活動の能率化(支援金徴収方法など) ⑥全会員宛の情報伝達方法 などなど。先日、難民不認定の通知書を貰ったビルマ人がいたが、その中に「BRSAに入会したとあるが、1会員として参加したに過ぎない」と書かれていたらしい。今後皆で力を合わせて頑張ろう!

2008年8月1日金曜日

(82)懐かしいなあ 十条の入管

(2008年8月1日)
  いま「本日も不法滞在」という本を読んでいる。副題が「入国管理局で会いましょう」というもの。2001年発行だから7年前の書籍だ。著者は韓国人女性で、舞台は十条にあった入国管理局第2庁舎そばの旅行会社。不法残留で収容されている韓国人や、入管に出頭して帰国する韓国人に格安の片道切符を売るのが商売。この間のやり取りがユーモラスに書かれている。この十条入管は、埼京線十条駅から15分の所にあり、2003年にいまの品川入管に移るまで使われていた。私も1996年から2003年まで何回もこの入管に足を運び、ミャンマー人に面会していたので、この本に描かれた情景がよく分かる。確かに入管の周辺には各国向けの安売りチケット販売店が並んでいた。いまの品川入管とは雰囲気がぜんぜん違い、温か味すら感じられた。十条入管はいずれ忘れ去られるので、この機会に取上げておこう。