(2008年8月16日)
今から30年前、私は中国南部を旅行した。目的地は山水画を髣髴させる桂林、璃江下り。当時中国人は青色のいわゆる人民服と人民帽をほぼ全員が着用しており、人だかりはまさに青一色、そしてポケットには皆赤い表紙の毛沢東語録を持っていた。そんな時代だった。桂林に行く途中、広州のあるホテルに宿泊した。そのホテルで出会ったのが、ビルマの陸上選手たち、男女10数人いた。この広州で南アジア陸上競技大会があったという。何しろ底抜けに明るく人懐こい若者たちで、私を選手達の部屋に招き入れ、身振り手振りで歓談した。どうやら競技は全員終わったらしく、砲丸投げの選手(身振りで推測)は頭上に3本指を突き出した。3位だったのかしら。この出会いが、私とビルマ人との最初の触合いだった。今日、オリンピック陸上もいよいよ始まった。30年前のビルマの選手達は、今頃テレビを見ているかしら。
30年前は、ビルマの良き時代だったわけですな。
返信削除ところで、昨日の毎日新聞(08.8.16.の2面“ひと”欄)に関心のある記事があったので、転載します。
●「ビルマ民主の声」(DVB)東京特派員
ティンアウ ンさん(48歳)
民主化運動のデモに学生仲間と参加していた1988年9月、軍事政権の治安部隊から無差別発砲を受けた。20メートルほど離れたビルの陰に隠れたが、友人の一人は胸を撃たれ、路上に倒れた。右手をあげ、訴えるような目つきで助けを求めながら、そのまま目を閉じた。身がすくみ、ビルから飛び出すことができなかった。
デモ仲間が次々に投獄され始めたため、タイを経て91年に日本に渡った。
01年からノルウェーに本部を置くDVBの東京特派員として記者の仕事を始めた。
自宅は6畳一間のアパート。午前4時に起き、オフィス清掃の仕事をした後、飲食店で午後3時ごろまで働く。「記者」を始めるのは夕方だ。国会議員や在日ミャンマー人らを取材し、ビデオ撮影した映像を自宅のパソコンで編集、本部にメールで送る。報酬は1カ月3万円前後だ。
「いつの日か、民主化にわく国民の喜びの声を取材したい。その日まで絶対にあきらめない。死んでいったあの友の目が今も私を見つめている」
K.A.
ティンアウンさんの悲願が、できるだけ早く達成できますように!
k.a.さん
返信削除毎日新聞の記事ありがとうございました。参考になりました。在日ビルマ人の多くは、ティンアウンさんと同じ悲願を持ち続けていますが、その日はなかなか・・・・。(N)