2008年12月31日水曜日

(234)大晦日だ、よいお年を

(2008年12月31日)
  今年5月に始めたこのブログもとうとう大晦日を迎えた。234回というか234日というか、毎日毎日、よく続いたものだ。ビルマ問題、難民問題、BRSA、書籍、入管、ミンガラ日本語教室、ブログ、サイクロン、仮放免、少数民族など、ビルマを中心にした特異なブログである。当初懸念された読者数もそれなりに増え、現在延べ3900人に達した。脳の活性化のために10行ピタリの短文に収めることを自己ルールとしたが、それも全部完遂。しかしそれによる脳の活性化のほうの成果は定かではない・・・・。忘れてならないのが、コメントをたくさん頂いているKAさん、STさんはじめ皆々様、コメントが増えれば、私の元気も増えます。それからこのブログをがっしり支えていただいているKTさん、皆さん、この一年ほんとうに有難うございました。今年は軍政に振り回されたけれど、来年は少しでもよい年になりますようお祈りします。

2008年12月30日火曜日

(233)飲むお茶 食べるお茶

(2008年12月30日)

  いま私は書棚から取り出した1冊の本を読んでいる。表題は「飲むお茶、食べるお茶」、副題に「ミャンマー紅茶物語」とある。著者は紅茶研究科の磯淵猛氏、2001年7月、株式会社PARCOより出版、223頁、定価1680円。ビルマを訪問した方は、コンデンスミルクをたっぷり入れて甘い紅茶を低い椅子に腰掛けて飲む風景を見たことと思う。その紅茶の工場を作ったのがポニー氏、しかしその工場は軍に接収されてしまった。ポニー氏の娘が東京の新大久保にあるビルマ料理店「ヤッタナー」の女主人イーミンさん。著者がイーミンさんの案内でビルマシャン州の茶畑や紅茶工場を見学したときのエピソードを綴ったのがこの本である。単に紅茶の話だけではなく食べるお茶の話も続く。「ラペットゥ」はビルマ人の国民食であり、お茶請けとして頻繁に出てくる家庭食、同じアジア人としてもまことに珍しい食文化といえよう。

2008年12月29日月曜日

(232)入管に収容されてる日数

(2008年12月29日)
  私の入管訪問の歴史は97年から始まっている。97年から02年までは年に1人~5人ぐらいの面会頻度であったが、以降急増して年間15人~20人、最近(07・08年)は年間約30人となっている。さらに収容者1人に平均7回は面会しているから、延べにしたら千回以上面会したことになる。ところで、難民申請者の収容期間はどのくらいであろうか?最近の例では初めて収容された人は平均約4ヶ月、前回2ヶ月収容されて今回再収容された人は約1ヶ月、すでに口頭陳述(いわゆるお台場)が終わって初めて収容された人は約2ヶ月となっている。ただ病気持ちの場合は平均日数より早く出られるようだ。07年に収容された人の多くが10ヶ月以上も収容されていたことに比べれば、短縮はされているが、もっと短縮できるのではないだろうか。難民申請者の収容は人権人道問題も絡むので可能な限り短くしてほしい。

2008年12月28日日曜日

(231)望郷のミャンマー

(2008年12月28日)
  私が勤めていたライオン時代の友人S氏から「日経マガジン」という雑誌のコピーが送られてきた。「望郷のミャンマー」というタイトルの2頁の記事である。日本で暮らすアジアの隣人は今や珍しくなく、就労、就学・・・・と目的や事情はさまざま。しかしビルマ人の中には帰るに帰れない人たちがいる。日本にはいま7千人のビルマ人が住んでいるといわれるが、その2割が88年のクーデター以降迫害を受けるなどの理由で日本に逃れてきた人たちである。祖国が民主化されれば帰りたいと念じつつ、すでに20年経過した人もいる。この記事には何人かのビルマ人を登場させて彼らの苦悩を紹介している。私はこのブログで何回も「難民」を取り上げてきたが、他国に比べ圧倒的にビルマ人の難民が多い。難民というのは、愛する家族中には幼子とも離別することであり、何としても手助けしてあげたい。幸せであってほしい。

2008年12月27日土曜日

(230)長井カメラマンの死は

(2008年12月27日)
本ブログ(227)で書いたとおり、読売新聞によれば「ミャンマーで反政府デモ、長井氏死亡」のニュースが、昨年の読者が選ぶ海外十大ニュースの第1位であった。ヤンゴンの繁華街でのデモの際、兵士に追われて逃げ惑う住民の姿を撮影していた長井氏の死は、まさに報道写真家としての鑑であり、その勇気ある行動には内外から絶賛を浴びていた、・・・・と考えていた。しかし、(211)で記した「ミャンマー難民キャンプ潜入記」の著者吉岡逸夫氏によれば、その本のエピローグで、「どうも報道カメラマンというと、戦場で命を落とすと、たちまち英雄視され、伝説となるが、危険を早く察知し、危険を回避してこそ本当のプロフェッショナルだ。だから長井さんは判断を見誤ったとしか思えない(後略)」としている。そういえばそうかもしれないが、私はやはり長井さんの死を高く評価してあげたい。そして最後の映像を早く見たいなあ。

2008年12月26日金曜日

(229)日本からの経済支援の是非

(2009年12月26日)
  私は公開に躊躇していた情報がある。12月19日にburmainfoから発信された「軍事政権を擁護するな」という英国ガーディアン紙の10月27日の記事。その中で特に気になった点は、対ビルマ援助の増額に関する点で、「民主化活動家がビルマ援助に反対していると嘘を触れ回ってる組織があるが、援助を増やすべきだと呼びかけてきたのは活動家たちのほうなのだ、軍政の懐を潤す援助には反対だが、人道支援は増やすべきである」。私も友人から一切支援すべきでないという意見を聞いたことがある。しかし現実には、日本政府からは、「草の根・人間の安全保障無償資金協力」の名目で、例えば12月にはシャン州の病院への医療機器提供355万円、ヤンゴンの障害者訓練施設建設790万円、マンダレーの農業訓練センター建設740万円及び孤児院建設761万円が日本のODAから支出される。どう考える?

2008年12月25日木曜日

(228)外国人住民票と登録証明書

(2008年12月25日)
  本ブログ(222)で外国人住民票新設のことを記載したが、これと、かねてから言われていた新しい外国人登録証明書(エイリアンカード)の関連性について、品川入管総務課を訪問、聞いてみた。その結果、法務省としては、従来、地方自治体(総務省)が担当していた外国人登録証明書を入管(法務省)が一元的に管理する方針で進めていたが、そうすると自治体のほうに原本がなくなり、住民管理ができなくなるので、外国人住民票を新設することになったようだ。この新しい法律は一月はじめに国会に提出するという。ここでもう一つ気がついたのが、厚労省管轄の「外国人雇用状況の届出」制度の強化、結局オーバーステイなどの不法滞在者は、外国人登録証明書がもらえず、持ってない人は働くことができない制度だ。難民申請中の人は不法滞在者と同じ扱いになる可能性もあり、早急に情報を集めることが必要だ。

2008年12月24日水曜日

(227)海外10大ニュース 1位と6位

(2008年12月24日)
  年末になると各新聞とも10大ニュースを報じる。たまたま読売新聞の海外10大ニュースを見ていると、過去5年のトップ3が出ていた。トップ1位だけを拾うと、2003年「米英がイラク攻撃」、04年「アテネで五輪」、05年「米南部に大型ハリケーン」、06年「北朝鮮が核実験」と続いた。そして07年は、2位の「ニューヨーク原油99ドル」、3位の「中国産品の安全性不安」を抑えて「ミャンマーで反政府デモ、長井氏死亡」が堂々の1位。そして今年(08年)は、1位が「初の黒人米大統領にオバマ氏」、2位が「四川大地震」だが、6位に「ミャンマーでサイクロン被害」が入っていた。ミャンマーで起こったこの二つの問題が日本国民に大きく取り上げられ、関心を持たれていたことに始めて気がついた次第、なんとも迂闊だった。これらのデータは私のいままでの活動に大きな自信を与えてくれたことになる。ビルマの友よ 頑張ろう。

2008年12月23日火曜日

(226)60人集って 忘年会

(2008年12月23日)
  一昨日はミンガラ日本語教室の忘年会が行われた。開催場所は教室の生徒が店長をしているチムニー虎ノ門店、3年前までは浜松町の「だるま」で、その後は教室のそばの「浜町亭」、さらに今回は「チムニー」。この店は店長以下従業員全部がビルマ人で、心休まる店。今回は60人の参加者のうち、7・8年前の生徒も10人ぐらい来ており、大いに旧交を温めた。また、今回はいろいろお世話になっている生徒NIさんご夫婦のお父さんと弟さんが一週間前に来日し、わざわざこの忘年会にご参加いただき、すばらしいお話を聞くことができ嬉しかった。会の後半にはビンゴゲーム、じゃんけんゲームが続き大きな歓声が響き渡った。特に3億円の宝籤が貰えるじゃんけんゲームでは、奇しくもNIさん夫婦の対決となり、結局奥様がゲット。NIさんのご家族は何となくついてる感じ、来年もこのつきを大切にして、いい年にしてね。

2008年12月22日月曜日

(225)活発だなあ BRSA

(2008年12月22日)
  我らのBRSAのホームページ(HP)が新しくなり、さらに新鮮で見ごたえが増えた。今回のHPは第3四半期の総会の模様が中心。この総会には約百人のメンバーが池袋のエコ豊島8階に集り盛況。ここでは、難民申請者の逮捕問題、BRSAの存在意義、生活支援問題、NPO法人化問題、会計(現有基金368万円)、現在会員数(208名)、機関誌問題、正月バス旅行問題、外国人在留カード問題、会員カード管理問題等が討議された。そのあと、各役員からの報告、来場者アンケートを実施。このHPにはその他、12月21日の第60回世界人権宣言日のデモ行進、第2回サイクロン被害者支援金30万円の寄付方法、RHQからの支援金中止問題に関しての取材対応など盛りだくさんに掲載されている。私は健康上デモ行進や夜間行事には参加できない年寄りなので、このHPに頼る所が大きい。がんばれBRSA!

2008年12月21日日曜日

(224)第三国定住 やっと日本も

2008年12月21日)
  BURMA INFOからの「今週のビルマのニュース」によれば、日本政府はタイにある難民キャンプから「第三国定住」によりビルマ難民を受け入れることについて、閣議の了解を得たと報じた。このことはいままで何回か話題になっていたが、やっと第一歩を踏み出したことになる。ビルマ難民の第三国定住をアジアの国が受け入れるのは日本が初めて。タイ・ビルマ国境支援協会(TBBC)によれば、タイ政府がビルマ難民の第三国定住を認めた2005年以降、約3万人が第三国に定住した。これまで欧米11カ国が受け入れており、約7割が米国に定住、第三国定住者数は今後も増える見込み。日本での定住は、噂によれば中国地方の桃の栽培に家族単位で従事するらしい。総勢30人だから、来日するのはせいぜい数家族か。しかし少子高齢化の進む日本では、真面目で意欲のある難民定住者をさらに増やしたい。

2008年12月20日土曜日

(223)水島上等兵のモデル

(2008年12月20日)
  今朝の朝日に「ビルマの竪琴」の水島上等兵のモデルが死去した旨の記事があった。私は映画を2回も見た。1回目は1956年ごろの白黒映画、2回目は1985年ごろのカラー映画。もちろん私がビルキチになる前である。不覚にも今日までモデルが実在していたとは知らなかった。モデルの主は群馬県出身の僧侶中村一雄氏で享年92歳。彼はインパール作戦に参加し、終戦後イギリス軍の捕虜となって収容所生活を送ったが、その同僚の中にオーケストラの楽団員がいて、「埴生の宿」などを合唱して捕虜たちの心を慰めるとともに、死者の供養も行っていた。たまたま小説を書いた竹山道雄氏の教え子が同じ隊に所属していた縁で、中村さんとコーラス隊のことを竹山さんに伝えたことから、同小説の主人公のモデルになったとされる。数日前まで撃ち合っていた両国の兵士が「埴生の宿」を歌う画面は忘れられない。

2008年12月19日金曜日

(222)3年後に「外国人住民票」

(2008年12月19日)
  今朝の朝日によると、外国人の在留管理制度の見直しを検討してきた総務、法務両省が、このたび「外国人住民票」を創設する案をまとめたと報道。両省は来年の国会に関連法案を提出し、3年程度で実施する方針のようだ。この外国人住民票は、適法に在留する外国人が対象で、氏名、生年月日、住所、国籍、在留資格、在留期間などを記す。なお在留期間が修正された場合は法相が各市町村に通知する。転居や証明書の発行も日本人と同じ手続きでできるよう簡素化され、外国人を含む世帯は、全員の住民票記載事項証明書を発行できる。登録した住所と実際の住所が違う外国人が多いので、市町村長が実態調査などで住所を確認し、職権で住民票の内容を修正、削除できるようにする。合法的に在留する外国人は便利になるが、不法残留の外国人はこの住民票は入手できず、生活が厳しくなるであろう。

2008年12月18日木曜日

(221)3人いて 椅子二つ

(2008年12月18日)
きのう入管に行き一階の待合室で待っていると、しばらくして知人のビルマ人女性がやってきて、2人のビルマ人男性に面会したいという。彼女は初めての面会だったので、要領が分からず、結局二人で面会することになった。収容中の男性2人と女性6人に対して3回に分けて2人、3人、3人の組み合わせで申し込んだ。いざ面会する段となり部屋番号を見るとなんと2人部屋、収容されている人が2人しか座れない面会室なのだ。結局、3人のうち一人は気の毒にも立ったままでの面会となった。品川入管の面会室は20部屋あり、3人以上座れる部屋はそのうち3箇所、いままではその部屋を選んでくれたので、気持ちよく面会できていた。今回の担当者は、この要領を知らなかったのではなかろうか。帰途、4階の総務課に立ち寄り、以上の内容を説明して善処を求めた。来週以降3人部屋で面会できるかどうか楽しみだ。

2008年12月17日水曜日

(220)恐ろしい一覧表だった

(2008年12月17日)
  いま私は「モウタウチェ」誌12月号を見ている。私は辛うじてビルマ語文字は読めるが、恥ずかしいけど文章はお手上げだ。頁をめくっていくと4頁にわたる一覧表が目に入った。人の名前があって数字が書いてある。ビルマの雑誌には、よく寄付してくれた人の名前と金額が書いてあるのだが、それは次の頁にあるし、どう見てもそれとは違う。何か分かる言葉はないかと探しているうちに、「シェーネー」が4人並んでいた。「弁護士」だ。さらに人名を見ていくうちに「ミンコーナイン」「コーコージー」の名前が読めた。そうだ、これは本年11月に軍政による不法裁判で、刑罰を受けた民主化活動家138名の一覧表なのだ。刑期の長い人は65年、弁護しようとした弁護士までが、法廷侮辱罪で投獄、なんとも恐ろしい表だったのだ。昨年秋の平和的なデモ行進の裁判の結果だ。民主主義、人権のかけらも見えない不当裁判だ。

2008年12月16日火曜日

(219)難民申請 ビザあるうちに

(2008年12月16日)
  最近日本に来るビルマ人が多いように感じる。そして難民申請するビルマ人も多く、一説によるとビルマ人だけで今年は1500人以上といわれてる。入国の際は観光ビザなど3ヶ月の短期ビザが主流だが、3ヶ月以内に難民申請すると、すぐ「就労不可」の特定活動ビザが出る。「就労不可」の特定活動とはまことに妙な言葉だが、まあいいとしよう。いままでの例では、6ヶ月以内に今度は「就労可」の特定活動ビザが出る。ここでパチンコ店などの遊興施設を除く仕事は働いてOK。いずれも本人の難民としての意思が必要。一方難民申請の方の審査が進み、難民または在留特別許可、特定活動(1年)が出れば晴れて定住ビザに切り替わる。もし難民申請の結果がダメなときは1-2ヶ月入管に収容されるかもしれないので、難民申請書の書き方に配慮が必要。「自分のこと」、「迫害を受けた」、この二つがキーワードだ。

2008年12月15日月曜日

(218)爺さん また載っちゃった 

(2008年12月15日)
  私は傘寿、紛れもなく爺さんだ。この爺さんの顔が、「MOE THAUK KYE JOURNAL」の12月号に3枚も掲載されてしまった。平生私の顔はハンサムで若々しいと自画自賛していたのだが、写真に撮られると、そんなことは幻想だったことがよく分かった。一枚目の写真は私の80歳の誕生日に、牛久入管で1年間毎週面会していた女性たちに囲まれて、バースーデイケーキの蝋燭の灯を吹き消す寸前の顔、ほっぺたを膨らましている顔は可愛い80歳の顔だ。次の顔は、同じく美女達に囲まれてほんの少し鼻の下を伸ばして笑っている写真、どう見ても老人だ。3枚目の写真は、ウーシュエバ(田辺寿夫氏)と並んでビルマ人たちからのテッチープーゾーボエ(年寄りに感謝する儀式)の礼拝を受けている写真、さすがこの写真の場合は緊張した顔であった。ビルマの方々から感謝され祝福されることは実に嬉しい。

2008年12月14日日曜日

(217)出来上がった 会報27号

(2008年12月14日)
  「みんがらネットワーク27号」が今朝我が家に送られてきた。昨日教室の有志が皆で製本したものであり、手に取ると温か味を感じた。この雑誌の特長の一つに表紙のすばらしさがあり、今回は大きな花束を抱いている可愛い少女の写真が後藤さんから提供されている。また今号で目立つのがビルマ語の多いことで、これはAさんの努力によるところが多い。そして何よりも感服するのが、日本人とビルマ人からの原稿集めから始まった上手な編集で、これは鈴木編集長の手腕とご努力によるもの。この雑誌は、おそらくビルマ関連団体から出ている雑誌の中では、日本一の内容だろう。私が「日本とミャンマーを結ぶ小さなかけ橋」を目指して、98年6月に第1号を出してから今日までの11年間、よくも続いたものだ。これも鈴木編集長はじめ参加各位のご尽力によるところが多い。私が去っても「かけ橋」は続きますように。

2008年12月13日土曜日

(216)2人の赤ちゃんを助けて!

(2008年12月13日)
  昨日品川入管に行ったとき、控え室でいろんなビルマ人と話し合った。Aさんは4ヶ月の赤ちゃんをあやしながら、RHQからの支援再開を心から喜んでいた。実は彼女がRHQに申し込んだその日に支援がストップしたのだ。父親は品川入管に収容中で誰も働くことができず、収入ゼロの状態。命綱であったRHQ支援が再開されたので、本当に喜んでいた。このような話をしていたら、ビルマ人のB君が提出書類の書き方を教えてくれと頼みに来た。いろいろ教えているうちに、彼の赤ちゃんは2ヶ月、病気で入院療養中で、いろんな人から借金してすでに百万円は支払ったと言う。RHQのことは知らなかったようだが、Aさんが教えていた。たまたま昨日の朝日夕刊には「難民支援、パンク状態 申請急増、外務省予想超す」「予算払底、支給一時止まる」とあった。外務省はぜひ支援を続けてほしい。赤ちゃんを救うためにも。

2008年12月12日金曜日

(215)充実感のあった金曜日

(2008年12月12日)
  今日は金曜日、私の活動は主に日曜日と水曜日なので、金曜日は私が一番ホッとする曜日。そろそろ年賀状の準備でも始めようかなと思っていたら、10時ごろBRSAの友人から電話が入った。内容は、パスポートも外国人登録証も持っていないビルマ人が、難民申請をしたいが、収容されないかというもの。パスポートは会社に置いたまま辞めたので所有してないという。念のため知人の行政書士に聞いた上で、品川入管で会うことにした。そこには別件で来ていた熊切副会長の顔もあり、皆で難民申請部署に顔を出し、入管当局の意見を聞くことにした。結局、行政書士のいうとおり、外国人登録証が必要で、パスポートは喪失した理由書を書けばよいとのこと、住居は北区なので、月曜日に熊切副会長らが北区役所に行き申請し、同時に彼が働いていた会社にパスポートの返却を求めるとのこと。うまくいくことを祈る。

2008年12月11日木曜日

(214)この活動に 我々も注目

(2008年12月11日)
  いま私は「国際人流」の259号を読んでいる。この雑誌は入管協会から発行されており、私はこの5・6年毎月愛読している。その中の特集「もったいない 食材に生命を吹き込む」という記事が目に飛び込んできた。セカンドハーベストジャパンの活動に関する創設者チャールズ・マクジルトンさんへの取材記事だ。ホームレスの自立支援をきっかけに平成14年に設立され、その活動ふりはテレビなどで数多く紹介されていた。RHQによる困窮難民支援打ち切り(年内?)のニュースが我々難民支援者にショックを与え、今後の進め方を話しているうちに飛び出したのがこのセカンドハーベストジャパンの活動。実はJARやCTICなどの支援団体ルートで、すでに何人かの難民申請中の困窮ビルマ人がこの恩恵を受け取っており、みな大変感謝している。私たちのBRSAもこの団体の「第2の収穫」活動に注目する価値があろう。

2008年12月10日水曜日

(213)またまた嬉しいこと

(2008年12月10日)
  今日は水曜日、だいたい水曜日は嬉しい日だ。私は12時に品川入管を訪問したが、面会のほうは同行したビルマ女性にお願いして、私は6階の仮放免担当の部屋へ直行。そこで私が保証人をしているビルマ人女性の仮放免について話すと、すぐに4階の会計の部屋に行くように指示された。そこで田町の三菱東京UFJ銀行の中の日本銀行窓口まで行くように指示され、タクシーを走らせて保証金30万円を支払った後とんぼ返りで入管へ。待つこと1時間20分、やっとお目当てのビルマ人女性に会うことができた。彼女は8月14日入所であるから、ほぼ4ヶ月近く収容されていたことになる。夏服姿で入所したのに今や12月、夕方の街中はクリスマスツリーの飾りが輝いていた。彼女はこの4ヶ月で何を失い、何を得たのであろうか。これからはこの日本でしっかり生きてもらいたい。奇しくも今日は彼女の誕生日であった。

2008年12月9日火曜日

(212)見当たらない 中国の名

(2008年12月9日)
  インターネット情報によると、アジア・太平洋地域の国会議員240名以上がビルマの民主化を求め国連事務総長宛て書簡を送り、日本からも国会議員30名が賛同したとのこと。その内容は、「年内にすべての政治囚を解放するよう軍政に働きかけること」を事務総長に要請するもの。日本、韓国、カンボジア、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、シンガポールが参加している。国を超えてこれほど多くの国会議員の賛同はおそらく史上初と思われている。日本からの賛同議員の氏名も明記されている。一方、その前(12月3日)には、112人の元国家元首(50カ国以上)が国連事務総長宛に同様な要請文を出している。日本の小泉元首相、ブレア元英首相、カーター元米大統領、ゴルバチョフ元ソ連大統領、金大中元韓国大統領、アキノ元フィリピン大統領など。問題は賛同してない国の名だ。中国の名はどこに?

2008年12月8日月曜日

(211)続 難民キャンプ潜入記

(2008年12月8日)

  昨日に続いて「ミャンマー難民キャンプ潜入記」を読み出した。私はタイ国境にある難民キャンプは、メソットの近くにあるものと思っていたが、結構広範囲に分散していて、9箇所もあることを知った。ここに16万人ものビルマ難民が住み、その多くがカレン人だという。著者は、ミャンマーを知るには、アウンサンスーチー女史対軍事政権の構図だけみていても分からない、なぜならば両者ともビルマ族であり、それは多数派の中の勢力争いに過ぎず、虐げられている少数民族への視線が必要であるという。現地難民の実態は飼い殺し状態であるが、彼らは自己主張をあまりしない民族だから大きな問題に発展していないとの見方。カレンの成り立ち、ビルマ族対カレン族の怨念の歴史など教わる所が多い。本書は単なる旅行記ではなく、軍政から抑圧され、難民になってる少数民族カレン人の悲痛な叫びを取上げている。

2008年12月7日日曜日

(210)難民キャンプ潜入記

(2008年12月7日)

  ミャンマー関連の新しい書籍が発売された。題名は「ミャンマー難民キャンプ潜入記」。吉岡逸夫書 解説熊切拓 発行:出版メディアパル 発売:高陵社書店 1260円。 熊切拓氏はご存知BRSAの副会長であり、また、ビルマ少数民族問題の第一人者であり、ときどき新聞にも登場している。今日 BRSAの会合で、この本を直接熊切氏からいただいた。吉岡氏の書かれた本文はとても興味を引かれるけれど後回しにして、私は最初に熊切さんの書かれた解説「ビルマ少数民族と民主化運動」のほうから読み始めた。20頁ほどの小論文で、一気に読むことができた。同氏は、ビルマ民主化を達成するには各州の民族自治権を強化する「真の連邦制」の実現が必要と論じている。私もかねてから同じような考えを持っていたが、疑問もあった。しかし今回の熊切氏の解説を読んで、胸につかえていたものが大方解消した。

2008年12月6日土曜日

(209)この寒空に 生きられるのか

(2008年12月6日)
  この一両日、RHQ(アジア福祉教育財団難民事業本部)からの難民申請中の困窮者への生活費支給がストップする事態が勃発し、この問題でBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)は共同通信社の取材を受け、熊切副会長が対応した。それほど大きな問題なのだ。我々は難民困窮者に対して一時的に救済の手を差し伸べ、さらに必要ならばRHQなどに引き継いでもらうことにしていた。RHQでは一人当たり8万5千円の生活費、住居費を4ヶ月間支給していたのだが、肝心のRHQが受給予定者数を読み違え、7800万円あった予算を使い切ってしまったのだ。明確な受給者数は分からないが、05年に138人だったのが、08年はすでに230人程度に急増したという。しかし単に数字の読み違いではすまされない深刻な問題なのだ。この寒空に難民申請中のビルマ人困窮者はどうやって生きていけばよいのか。

2008年12月5日金曜日

(208)がんばれ RHQ

(2008年12月5日)
  昨日に引き続き、難民申請中の困窮者への生活支援をストップしている難民事業本部(RHQ}に電話してみた。その結果、未だ外務省からの回答はなく、外務省の向こうで財務省が係わっているらしいとのこと。しかし、RHQとしてもこのまま問題を保留することもできないので、独自に支援策を検討し、すでに申請のあった人には今日から支援を再開する。しかし、新たに申請する人には申し訳ないが待ってもらうことにした。ただし外務省からいい回答がもらえるか否かは疑問で、RHQとしても現在全力で折衝しているとのこと。日本は長い間「難民鎖国」と揶揄され、やっとこれから微かな光が見えてきたというときにこの情報。外務省の見解の中に、難民申請者の急増があげられているが、昨年秋、ビルマにおける僧侶らのデモ行進に対する軍事政権の暴挙があり、難民申請者の急増は予想できていたと思うのだが。

2008年12月4日木曜日

(207)難民申請者の生活保護は

(2008年12月4日)
  昨晩熊切氏(BRSA副会長)から連絡があり、難民事業本部(RHQ)からの生活保護のための支援金支払い業務がストップとのこと。難民事業本部は、難民申請中の生活困窮者に支援金などを提供して頂き、我々周辺のビルマ人難民申請者もずいぶん助かっており、常々すばらしい制度と感謝していた。今回、同本部が予算を外務省に提出した所、保留との回答を得たようだ。そこで私も外務省(03-3580-3311)の人権人道課に聞いてみた。その結果、本年難民申請者が急増しており、予算的に調整が困難な状況であり、結論はしばらく待ってほしいとのこと。昨日も私はビルマ人無職女性と生活費が困窮している話を聞いたばかり。そもそも難民申請中は就労不可という法務省の人道無視の政策と関連している。政府は就労禁止、生活支援金保留という劣悪な政策ではなく、難民を心から温かく迎えてほしい。

2008年12月3日水曜日

(206)タイ騒乱とビルマの民主化

(2008年12月3日)
  最近、タイの政治が揺れに揺れ、とうとうタイ憲法裁判所がタクシン派のソムチャイ首相率いる最大与党など3つの党の解党と、各党幹部の公民権停止処分を命じたという。この結果、連日ニュースを賑わしていた反タクシン派勢力(PAD)による国際空港の占拠も終結した。しかし両派の対立は今後さらに深刻化し、タイは無政府状態の危機が続きそうだ。ASEANはEUを真似て、2015年にはASEAN共同体を実現する計画であり、今月バンコクでそのための首脳会議を開く予定だったが、今回の騒乱で結局来年に延期された。ASEANの優等生がこの状態であり、フィリピンやマレーシアも政情不安が続いている。私はビルマが将来民主化国家となり、世界最貧国から脱皮するには、ASEAN共同体の実現が大切であると思う。しかし、そのリーダーであるタイの政治がこの調子ではますます遠のくものと懸念する。

2008年12月2日火曜日

(205)どうなった 不法滞在半減策

(2008年12月2日)
  先日、法務省入国管理局から「不法滞在半減に向けてのお知らせ」というのが発表された。政府は2003年12月18日、外国人犯罪の温床ともいわれた不法滞在者を以後5年間で半減させると発表、「日本に来させない」「日本に入らせない」「日本に居させない」と言う三本柱の施策で進めてきたが、今年がその最後の年。当初約25万人であった不法滞在者を、08年1月現在で約17万4千人にまで減少させた。しかし残る所はあと一ヶ月、どうなるのであろう。入管は次の二つのお願いを出している。①外国人と関係ある人は、その外国人の在留資格や在留期間をチェックし、もし不法滞在の外国人が居たら入管に連絡するようアドバイスしてほしい、②不法滞在相談全国専用ダイヤル(0120-510-212)を利用してほしい、というもの。先週品川入管は面会者で溢れていた。このことと関係があるのかもしれない。

2008年12月1日月曜日

(204)協力しよう 牛久難民支援

(2008年12月1日)
  「牛久入管収容諸問題を考える会」の田中喜美子代表から「2008年活動報告会」の案内状が届いた。私が牛久入管と品川入管の面会活動を真剣に考え始めたのは、実はこの会に触発された点が多い。私は13年前からこの活動をひとりで続けてきたが、同会の活動の真剣さに圧倒され、多少心を入れ替えたのも事実である。その結果、私の心もずいぶん癒され、元気がどんどん増してきた。その案内状に最近の難民の状況が記載されていた。10月現在で難民申請者数1150人以上、8月末現在で認定者44名(うちビルマ人42名)、在留特別許可279名(うちビルマ人262名)。当然のことながらビルマ人が圧倒的に多い。同会では、個人1000円以上、団体3000円以上の支援金、あるいは、ノート、封筒、切手、ボールペン、タオル、手帳などの寄付も要望している。みんなで協力して難民(申請者)を支援しよう。

(203)晴れやか難民同士の結婚式

(2008年11月30日)
  今日、ビルマ人難民同士の結婚式が恵比寿のしゃれた宴会場で行なわれた。2時半の開始予定が3時15分と延び、ビルマ時間は健在だった。新郎は入管関係でいろいろ世話になった知人、新婦はミンガラ日本語教室の元生徒、すばらしいカップルであった。私はSTさんと一緒に招待されたが70人ぐらいの出席者の中で純日本人は4人か、私の席の隣には私が保証人をしている女性の叔母さん夫婦がいたので話が弾んだ。会場を見渡すといろんな所に知人がおり、なんかすごく嬉しかった。出席者数人からの祝詞が続いたが、そのあと突然に私に祝辞を述べよと指名され、そのときは正直の所めんくっらった。日本ではこんなルールはないよと思いながら簡単にスピーチ、得意のジョークも不発だった。しかし最後の新婦の挨拶はきれいな日本語であった。まあ出藍の誉れか。これからのお二人に「幸あれ」とお祈りします。

2008年11月29日土曜日

(202)気楽な会 「きらく会」

(2008年11月29日)
  昨日2時から銀座で「きらく会」の忘年会を開催、8人が集合した。私が長年働いていたライオン研究部の同期生の集まりで、みな80歳前後、私が定刻5分前に会場に入るとすでに着席していた全員から、「おめでとう!」の声と拍手で迎えられた。「ありゃなんだ?」と一瞬戸惑ったが、「200回おめでとう!」の声でやっと理解した。参加者の多くが私のブログを見ていたのだ。嬉しいなあ。出席者から、ビルマも北朝鮮もとんでもない国だなあとの意見がでたので、いま私は22日の朝日の記事を読み直した。国連総会で北朝鮮非難決議案に賛成95、反対24、棄権62で採択、ビルマの政治犯解放を求める決議案も賛成89、反対29、棄権63で採択、中露は両決議案共に反対票を投じた。このような決議案は毎年可決されるが、中露の反対で最終的にはいつも棚上げ。多数決では決まらない国連なんてむなしいなあ。

2008年11月28日金曜日

(201)毎日新聞に出たL君の言葉

(2008年11月28日)
  我が家では朝日新聞を取っているが、昨日はたまたま外出し売店で毎日新聞を買って広げた。その中に「難民問題を考えよう」という見出しが目に飛び込んできた。その内容は難民問題を身近に考えるため「表参道ジャック2008」が開かれたとあった。「ジャック」とはハイジャックのように「襲う」という意味もあるが、今回のは「JAC」という在日ビルマ31団体の統合体の名称の意味だ。この記事の中に94年に来日し今も難民認定されていないビルマ出身のLさんが「兄は軍事政権に拘束されたまま死亡した。私も帰国すれば危険だ、私のような人間が日本に多くいることを知ってほしい」と訴えた。彼はBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の中心的人物であり、仕事の合間に誠心誠意ビルマ難民を助けていることを私はよく知っている。彼のように真面目に軍事政権と闘っている人物に対し早く難民と認めてほしい。

2008年11月27日木曜日

(200)ワッハッハ! 200回だ

(2008年11月27日)
  やったー。なん、なんと200回の大台だ。ということは200日続いたということだ。こんなに順調に続くなんてダアレモ思わなかったのでは。私だって思わなかった。このブログの特徴は、①テーマを『ビルマ人関連』に絞り、ビルマ問題、難民問題、入管問題、BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)、ミンガラ日本語教室など得意分野に限ったことだ。さらに②字数を私のパソコン画面上でピタリ10行に決め1字たりともプラスマイナスのないようにしたこと、そして③毎日書くことである。問題は②の字数の問題であるが、結構頭を使うので頭の体操にはもってこいだろう。しかし読者数だが今の所延べ3000人程度、ブログ界では少ないほうだ。ブログランキングを見ると1ヶ月で10万人以上というお化けのようなブログも多数存在している。もちろん私のブログも熱心なファンの励ましに応えるべく300回は頑張りたい。

2008年11月26日水曜日

(199)私も貝になりたい

(2006年11月26日)
  中居正弘主演の「私は貝になりたい」が盛り上がっている。私は50年前にフランキー堺主演の映画を見て感激した記憶がある。米軍捕虜を上官の命令で刺殺した結果、米軍側の軍事裁判で死刑になるストーリーだ。ところで今朝の朝日新聞に「ミャンマー軍政 民主活動家160人禁固刑 『秘密法廷』連日開く 総選挙控え封じ込めか」と大きく出ていた。160人というのはこの1ヶ月間の数字であり、いずれも65年の禁固刑などの長期刑である。このような重罰を受けたのはNLD党員の他、昨年9月のデモを主導した元学生運動家、僧侶たちだ。裁判は刑務所内で連日行われ、短時間の審理で、弁護士や家族の立会いはなく「秘密法廷」そのものであったらしい。被告への弁護を試みた弁護士8人も法廷侮辱罪で拘束されたという。根拠のない罪状で長期刑を科するのは不当であり、みんな「貝になりたい」と思うのでは。

2008年11月25日火曜日

(198)外国人受入 日本語教育は

(2008年11月25日)
  一昨日の日経新聞の社説欄に「人材開国を考える 50年後を見据えて『外国人政策』を」というやや硬い文章が目に入った。その内容は、途上国の人材育成に貢献することを目指した研修、技能実習制度が低賃金で受け入れる裏道として利用されており、その改善のためには政府の「単純労働力は受け入れない」という前提から、「人手不足を外国人労働者で補う」という発想に転換し、期間3年程度の就労ビザを発給したらどうかというもの。50年後には日本の人口は4000万人も減り、生産年齢人口は半減するとの厳しい指摘もある。自民党の議員連盟は今後50年で1000万人の移民を受け入れようとしている。そのためには外国人向け住民台帳の整備や日本語教育の体制整備など今から足元の課題に対応することが必要としている。ミンガラ日本語教室もこの観点からの心の準備がいまから必要な気がする。

2008年11月24日月曜日

(197)新聞報道 10年前は

(2008年11月24日)
  20年間続いているビルマ問題は近年明らかに軍事政権側の圧力が増大している。果たして10年前の今日はどんな状況だったのだろうか。興味があったので1998年11月23日と24日の朝日新聞の切抜きを読んでみた。まず11月23日の新聞であるが、「軍事政権はNLDが要求している90年に選出された議員らによる独自の国会開催を阻止するために幹部ら467人をなお拘束している」というもの。また「NLDの12支部が解散し党員千四百人が離党した」とも報じていた。次に11月24日の朝日新聞であるが、「スーチーさんが自宅で記者会見し、NLDの解散や離脱は軍事政権が圧力を掛けているためで、軍政が圧力を掛けるほど民主化勢力の意志は高まる。NLDは非合法化されても活動を続ける」としていた。失われた20年の丁度中間時点でのビルマ問題であるが、徐々に悪い方向に進んでいることがわかる。

2008年11月23日日曜日

(196)ビジネスガイド ミャンマー

(2008年11月23日)
  いま書棚から一冊の本を取り出した。ジェトロ発行のビジネスガイド「ミャンマー 秘められた可能性の国」というタイトル。1997年3月、日本貿易振興会(ジェトロ)発行、340頁、2575円。約10年前の発行であり、当時のビルマの政治、経済、産業、投資、対日経済関係、投資の実務、ビジネス関連法規などが詳述されている。当時ビルマはまさに秘められた可能性の国であり、日本も関西空港からヤンゴンまでの直行便を開設した時期である。当時、ビルマはアジアの新しい投資先として世界の注目を集めており、本書は日本の各企業への呼びかけを意図したと思われる。しかし軍事政権による民主化運動の弾圧が国際的な批判を浴び、欧米各国との貿易が衰退し現在に至っている。もし軍事政権なかりせば、今頃ビルマはアジアの中核となり、国民も平和を謳歌していたかもしれない。失われた20年は残念だ。

2008年11月22日土曜日

(195)2年間 ビルマを凝視しよう

(2008年11月22日)
  BURMAINFO(ビルマ情報ネットワーク)によれば、先週から始まった民主化活動家や僧侶への長期の禁固刑判決が今週も続き、これまでに70人以上が刑を宣告されている。判決を受けた活動家の多くは、遠隔地の刑務所に移送され、家族などが食料や薬を差入れるのが困難になった。軍政が2010年に予定している総選挙を前に反対意見を徹底的に抑え込む姿勢を打ち出したとみられる。この暴挙に対し欧米政府が非難の声明を出したが、日本政府も外務報道官談話として「深く憂慮している」とした。また今日の朝日によれば、軍政は有名な慈善家であるコメディアンのザガナル氏に禁固45年の刑を言い渡したと報じた。BRSAがサイクロン支援品を依頼したチョートゥー氏の身も心配だ。政府に反対意見を言えない国は民主国家ではない。我々は投票までの2年間、みんなで目を見開いてビルマを凝視しよう。

2008年11月21日金曜日

(194)よく続いている日記(家計簿)

(2008年11月21日)
  私は13年間日記(兼家計簿)を毎日書いている。何しろA‐4の紙に1か月分を記入するのだから、1日分は2行程度の簡単なもの。日記を始めたのは、ビルマ人と接触を始めたので、何か記録に残しておきたいという気持ちと、「みんがらネットワーク」や「ミンガラ日本語教室」の公の部分の収支と、私個人の収支がごっちゃにならないように記録しておきたかったから。最初の日記は96年の11月からで、その中身を見ると、今ヤンゴンのウイン日本語学校の中西校長の送別会をしたとか、ふれあい会館の会場取りのため並んだとか、神田駅そばのビルマレストラン「神田市場」で食事をしたとか懐かしい思い出がいっぱい。当時は、不法残留の話題もあまりなく、難民申請の話も聞こえてこなかった。たぶん、私自身にそういう問題意識がなかったせいだろう。日記には、ビルマ人生徒の名前が次々と現れる。懐かしいなあ。

2008年11月20日木曜日

(193)次々と めでたい話が

(2008年11月20日)
  先日の牛久の女性の会では、おめでたい話がいっぱいあった。新しく赤ちゃんが3人出席して花を添えたが、どの赤ちゃんも実に可愛い(もちろんお母さん方も可愛いが・・・・)。出席できなかった赤ちゃんも含めると6・7人の赤ちゃんが我々のグループに参加したことになる。こんな話題が盛り上がると話の流れは自然と次は誰の番かなとなる。〇〇さんは妊娠2ヶ月らしいとの噂話が出ると、みんなから歓声が上がる。じゃあその次はとなると、今度は結婚の話題。Aさんは11月2日に日本の青年実業家と新潟で挙式、その際の写真を見せて頂いていると、そばにいたたBさんが負けじと12月に式を挙げるとのこと、お相手は私もよく知っているビルマの好青年、さらに1月の結婚式の招待状を私に手渡してくれたのがCさん、いやはや、おめでたい話が続きそうだ。在日ビルマ人よ、皆でしっかりしたコミュニティを作ろうね。

2008年11月19日水曜日

(192)モータウチェ図書館に乾杯!

(2008年11月19日)
  今日の読売新聞を見ると「時代を変える、図書館サミット」という記事が載っていた。内容は、図書館と出版界が抱える問題点を浮き彫りにしたもの。たまたま私は、高田馬場のさかえ通りにあるモータウチェ図書館を訪問する機会があった。この図書館は当初板橋にあって、AHHARA(アハーラ)図書館と称していた。AHHARAとは「栄養」という意味で、頭の栄養という意味のようだ。2004年に今ある下落合に引っ越し、MOE THAUK KYE(モータウチェ)図書館に改名した。モータウとは明け方という意味で、チェは星、すなわち明けの明星という意味だ。6千冊のほぼ全部がビルマ語の本で、きれいに整理されている。ここは本を読みたいビルマ人が集る場所だが、同時にビルマ出身の文化人の講演会活動も活発に行っている。また月刊誌「モータウチェ」も発行し、民主化活動も活発。遠い異国での文化継承の努力に乾杯!

2008年11月18日火曜日

(191)ビルマの情報ルート

(2008年11月18日)
  ビルマ軍事政権は情報管理を強めているから、軍政に不利な情報は流れてこない。そんな状況下でも「ビルマ市民フォーラム(PFB)」や「ビルマ情報ネットワーク(Burmainfo)」からの情報はしばしば参考になる。「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」からも得難い情報が飛び込んでくる。最近入手した情報の中には、「2007年9月の抗議行動参加者に相次ぐ厳刑」というタイトルで、不当な審理を受けている70人の活動家のうち14人に65年の懲役刑を宣告したことを伝えている。このほか、逮捕者のグループ別や、逮捕者氏名なども報じられている。これは2010年の複数政党制に基づく総選挙対策の一環であり、活動家を一掃し、何が何でも2010年の総選挙を成功させようとする意志の現れであり、今まで以上に基本的権利の侵害を図るものと懸念される。民主国家では考えられない暴挙であり、ビルマ国民が可哀想だ。

2008年11月17日月曜日

(190)誕生祝 牛久女性に囲まれ

(2008年11月17日)
  昨日モウタウチェ図書館での礼拝会が終わった後、こんどは高円寺の居酒屋「黒潮」に飛び込んだ。牛久入管に収容されていたビルマ人女性たちが、私の誕生祝いを催してくれたのだ。用意された会場は満席状態で、たぶん30人近く集ったと思う。昨年と大きく違ったのが、赤ちゃんが何人も現れたこと。全員の元気な笑顔がとても懐かしく、皆さんと握手していたら、女性に触れると65年の懲役だという野次も飛んでいた。会は「ハッピーバースデイ」の合唱で始まり、クリスマスケーキのろうそくの火を吹き消し、豪華な食事に移った。その後、ビルマの童謡「モーユワイン」「アポージーオーオー」を合唱したり、傘寿、米寿、白寿の説明をしたり、本当に楽しいパーティーだった。私の時代はそろそろ幕がおりそうだ、これからは、集った皆さん方、さらにそのお子さん方の双肩にかかっている。どうか皆さん、元気でお幸せに!

2008年11月16日日曜日

(189)年寄りを敬う儀式

(2008年11月16日)
  今日はモウタウチェ図書館グループの主催で、日本とビルマの老人に感謝し、敬意を表す仏教儀式が行われるという。私は5日前に80歳の大台に達したから、まあ老人といわれてもおかしくないが、もうひとりの老人は誰であろうか? そんなことを考えながら、高田馬場駅で待っていると、なんとウーシュエバ氏(田辺寿夫氏)が現れたではないか。田辺氏は65歳ぐらい、老人といっては失礼な感じもするが、ビルマ人から見ると仏様のような存在なのであろう。他に70歳位のビルマ婦人が二人で、参集者は約30人。既知の人が多く、楽しい会合となった。まず最初にティンティンウインさんから挨拶があり食事に移った。ウーシュエバが例によってジョークを飛ばしたので食事の席も和んだ。ついで、ソーウインシェイン氏のリードで、隣室で行われた儀式も無事終了、引き続き全員で記念撮影、温かさを感じるひとときだった。

2008年11月15日土曜日

(188)読ませる 熊切氏のブログ

(2008年11月15日)
  アウンミャウインさんは、牛久の入管に収容された後難民に認められ、私たちのミンガラ日本語教室で学んでいたことがあるビルマの好青年だ。その後、難民枠のある関西学院大学に入学、勉学中だ。その青年が発行している「平和の翼」という雑誌にこのたびBRSA副会長の熊切さんが投稿した。題名は「隠された子供たち」。私が読み始めてまず驚いたのが、ペルシャ大王の出生にまつわる伝説から文章が始まっている。学がなければこのような引用はまず無理。読んでいるうちにカレン人およびカチン人にまつわる「隠された子供たち」の実話に移る。短い文章だが少数民族に対する軍事政権の横暴さがひしひしと迫ってくる。そしてブログの終わりには、奪われ秘匿された子供たちが、いつか一人の威厳に満ちた王として親元に凱旋してほしいと結んだ。読み終わって、少数民族の親子に幸あれと祈らざるを得ない。

2008年11月14日金曜日

(187)お荷物持ちましょうか?

(2008年11月14日)
 若いビルマ人と付き合っていて、ときどき「オヤッ、日本の若者とちょっと違うかな」と思うことがある。教室の行き帰りにビルマ人生徒と一緒に歩いていると、誰からともなく「先生、お荷物持ちましょうか」と親切な言葉が聞こえてくる。特に若い女性に多いようだ。私の荷物の中には書籍類が多く、なんとなく重い。そう言われたとき私は「チェーズベー(ありがとう)」とお礼を言って持ってもらうことにしている。もし私が日本人の若い女性と歩いていたら、たぶんこんな優しい声はかからないだろう。そもそも日本では、男性の荷物を女性に持たせるなんて男の片隅にも置けないという風潮があり、私もいままでそう思い込んでいた。しかし、よ~く考えてみると、私が荷物を持って若い日本人女性と一緒に歩いた経験が少ないから議論にはならない。まあいいか、もう80歳た。「お荷物持ちましょうか」の言葉はとても美しく嬉しい言葉だ。

2008年11月13日木曜日

(186)遠隔教育で日本語を!

(2008年11月13日)
  昨日はワクワクの水曜日、例により品川入管の入口を急ぎ足で通り抜けた。私のカバンの中には先週宅下げされたビルマ人女性2人の日本語問題集の回答が入っている。Aさんは4級の問題で80点台、Bさんは4級の問題が90点台で3級の問題は80点台、いずれも60点以上が合格であるから、すべて合格している。昨日はCさんから4級の問題が宅下げされ、今ざっと見たところ90点台でこれも合格間違いなし。これらの問題集は戻ってきたら点数をつけ、誤りは訂正のうえ本人に戻している。そのほか漢字の練習帳も2人から戻ってきたが、いずれも上手に書かれており、一部気になるところは赤字で修正のうえ本人に戻した。このように私は、日本語の遠隔教育を牛久時代から続けており、皆さんから喜ばれている。何しろ入管の中は時間がありすぎ、鬱々と暮らす外国人が多いが、ビルマ人は頑張ってほしい。

2008年11月12日水曜日

(185)誕生日に何たることを

(2008年11月12日)
  PFBの情報によれば、ビルマ軍事政権が民主化活動家14名に懲役65年の刑を言い渡したという。軍事政権は昨年のサフラン革命以降、民主化活動を行っていた学生リーダーや市民の身柄を拘束し続け、昨日の11月11日午後1時にインセイン刑務所での非公開裁判で、この刑を言い渡した。昨年8月のサフラン革命の際、88世代学生グループは国民が直面している経済的な苦境を打開するよう声明文を発表し、翌日以降88世代学生グループを中心に平和的な行動を起し、その後、市民や僧侶が続いて行動したのがサフラン革命であった。軍事政権の容赦ない姿勢を示すものであり、民主化グループとの対話を封じ込めている。終身刑に匹敵するこの処分は、民主化への挑戦であり直ちに釈放することが望まれている。 ところで11月11日は私の誕生日、軍事政権は何たることをしでかすのか。いま怒っている。

2008年11月11日火曜日

(184)やぁ~ 80歳だ!

(2008年11月11日)
  今日11月11日は私の80回目の誕生日、こんなに充実した誕生日を迎えることができたのは久し振り、私を取り巻くすべてに感謝、感謝。満60歳のときはライオンを定年退職したときで、翌日から記念に戴いた旅行カバンを手に夫婦でエジプトへ、満70歳のときは、記念に人間ドックに入り、前立腺肥大が見つかった日、それぞれ思い出がある。今朝からたくさんのビルマ人から、お祝いの電話やメールをいただいた。昼食は家内と豪勢にかっぱ寿司へ。しかし今朝の朝日新聞を見ると「圧政・貧困、国捨てた タイ国境のミャンマー人」とあった。国境のタイ側の街メソトに逃れてきたビルマ人難民は15万人以上と言われ、みな劣悪な環境で暮らしている。掲載写真にはゴミ山で働く少女の姿があった。東京にいるビルマ人難民は、経済的にはまだマシであろうが、心の中は果たして・・・・。私の仕事はまだ当分続きそうだ。

2008年11月10日月曜日

(183)O弁護士の事務所開き

(2008年11月10日)
  一昨日は、私たちが大変お世話になっているO弁護士の事務所開きの日。3時前に駒込駅に到着し、地図を見ながら方々を探したが、方向音痴の小生、目当てのビルがなかなか見つからない。やむを得ず、事務所に電話した所、大川先生が自ら駅前まで迎えに来ていただき申し訳なさでいっぱいだ。事務所にはすでに先客が来ており、私の顔なじみのビルマ人女性や、未知の4人のご家族、そしてつい最近難民の定住ビザを貰ったご夫婦のご主人が見えた。本来奥さんも見えるはずだが、生まれて3週間の赤ちゃんがいるので、失礼したとのこと。彼の保証人はO先生であり、奥さんの保証人は私ということで、彼は満面の笑みを浮かべながら挨拶に回っていた。O先生は現在25人のビルマ人の難民申請者を抱え、裁判で頑張るとのこと、また、難民申請だけではなく、もろもろの問題にも対応するのでよろしくとのこと。

2008年11月9日日曜日

(182) うれし~い! 最高の喜び

(2008年11月9日)
  1年で何回か最高に嬉しいと思うことがある。今日は日曜日、教室でいろんな人とだべっていたとき、突然NIさんから「西田先生、ちょっと来て!」と声がかかった。なんだろうと思って教室に入ると、まさに帰ろうとしていた生徒が、改めて着席しなおしていた。生徒は30人ぐらいいただろうか。NIさんが私にプレゼントするための風呂敷を手に、ビルマ語で何やら説明しだした。たぶん80歳の誕生日のお祝い品贈呈のことだろう。中をあけてみると立派な色紙が8枚も。いずれも日本語やビルマ語でお祝いの言葉がいっぱい目に入ってきた。中には、生徒のお子さんのメッセージも入っていた。こんなにうれしいことはあまりない。この8枚の色紙は、かつて病気見舞にいただいた千羽鶴や,牛久入管時代にいただいた塗り絵の葉書と一緒に私の棺桶に入れるよう家内に伝えた。本当に嬉しい。NIさん、皆さん 本当にアリガトウ。

2008年11月8日土曜日

(181)YES WE CAN と言える?

(2008年11月8日)
  「YES WE CAN」という怒涛のような叫びと共にアメリカの長い長いお祭りは終わった。オバマさんはなんとなくやりそうな雰囲気がある。一方、日本では11月30日に投票があるはずだったが、どんどん先延ばしの状況で、いつになるかは不透明。ビルマはというと2年後の2010年に総選挙があるはずで、軍事政権は民主化ビルマの第一歩と位置づけている。軍関係者が4分の一を占めること、野党のスーチーさんが大統領になれないことが予め決まっている選挙なんて珍しい。軍による大政翼賛会形式の住民対策も進んでおり、いわゆるUSDA(軍政を支持する住民組織)が2千万人以上といわれている。先日、来日ビルマ人からこのUSDAの濃い緑色の手帳を見せてもらった。この手帳が無いと、生活上の不利益が生ずるようだ。こんな状況で、ビルマ国民は「YES WE CAN」と心から叫ぶことができるの?

2008年11月7日金曜日

(180)宗教とビルマ

(2008年11月7日)
  このブログ(161)で紹介したサヤガドボエは仏教儀式であり、感銘を受けた。私たちの周辺のビルマ人のなかには、毎朝仏に祈る人が多く、無信仰の私は彼らを尊敬せざるを得ない。一方、少数民族の人たち、特にカレン、カチン、チンなどの人たちはキリスト教信者が多い。ある統計によると、仏教89%、キリスト教5%、イスラム教4%、その他となっている。仏教のみ政府が保護しており、事実上の国教といえる。ビルマの民主化の問題は、軍政対民主化グループという構図の他、軍政対少数民族、軍政対宗教という構図も見逃せない。最近難民申請者の中でキリスト教信者が多いのもその一つの現れであろう。従来軍人は、僧侶(仏教)を尊敬していたが、昨年9月のサフラン革命で、この僧侶たちが迫害されている生々しい映像が流れた。結局、僧侶をはじめすべての人の上に軍人がいるという構図に変わっている。

2008年11月6日木曜日

(179)ブログを読んでくれる人

(2008年11月6日)
  私の母が105歳で亡くなったのが丁度1年前、今日は1回忌ということで子や孫達が板橋の慈光寺に集った。母は生前、私のビルマ関連のボランティア活動を高く評価してくれ、関連する写真や記事を見せるととても喜んでくれた。母の笑顔を思い出しながら無事1回忌の行事が終わり、別室で会席が始まった。私は親戚一同に読んでもらうために、取材を受けたビルマ関連の雑誌のコピーを持参したが、いつの間にか話題が私の書いているブログ「U MINGALARのつぶやき」に移った。全然知らなかったが、姪の二人は、なんと毎日読んでいるという。しかもその内容が高度ですばらしいとの褒め言葉。その中の一人は、千葉市内で、住民への福祉関連のボランティア活動を、もう一人は旅行関連のボランティアを一生懸命やってるという。ボランティアが大好きな同志が私の身近にいることを知り、なんとなく嬉しい1回忌だった。

2008年11月5日水曜日

(178)水曜日 Aさん頑張る

(2008年11月5日) 
  今日は恒例の品川入管訪問の日、いつものように赤ちゃんを乳母車に乗せたビルマ人女性Aさんと一緒に、難民申請中の女性4人と面会、楽しく話し合った後、Aさんが一人に難民申請書の翻訳文を渡した。引き続き待合室で待ってると、顔見知りのビルマ人が続々現れた。一人は、牛久で毎週面会していた女性、彼女も赤ちゃんを乳母車に乗せていたが、区役所で書類上のトラブルが発生したとのことで、Aさんが支援を約束。次に品川入管で面会していたカレンの女性が現れ、難民申請の翻訳の件でAさんに相談、さらに男性が現れ、ビザが下りたのでイタリヤ料理店に持参する履歴書の記入方法をAさんが教えた。次に、ご主人が収容され、乳飲み子を抱えた女性がその赤ちゃんの仮放免許可を今日取得し、かつ、悩んでいたご主人の保証人と保証金をBRSAの熊切副会長が引き受ける件、Aさんに感謝していた。

2008年11月4日火曜日

(177)みんがらネットワーク会報1号

(2008年11月4日)
  BRSAの会合で雑誌発行の話がなんとなく出てきた。実現すれば会の活動のPR、ビルマ語、日本語併記による日本人支援者の拡大、難民申請者支援の一環として反軍事政権を謳う記事掲載の場の提供など用途は広い。こんなことを考えているうちに、10年前(1998年6月)に私が中心になって発行した「みんがらネットワーク会報」の第1号を改めて読んでみた。表紙はお馴染みの後藤さんによる踊るビルマ女性の写真、内容としては、ビルマ語、日本語が多く使われており、会則案、参加の呼びかけ、祝辞、各グループの活動報告、毎月1回のイベント紹介、飲食店紹介、日本人向け参考情報、図書コーナーにある書籍紹介、新聞情報、会員からのエッセー、漫画、編集後記と続き、結構充実してる24頁。この第1号が原型となり間もなく27号が発行される。このような雑誌が、BRSAでも発行されることを夢見ている。

2008年11月3日月曜日

(176)やっぱり多忙な日曜日

(2008年11月3日)
  昨日は日曜日、秋葉原のミンガラ日本語教室にビルマ人生徒が集る日である。昼ごろ叔母・甥の関係にある2人のビルマ人が来て、保証金の一部をいただき、ビルマ・タイ国境地区での活動状況を聞いた。その後授業に出席している生徒のお子さん(小学校3年生)の宿題を見てあげる。国語と算数で結構多量だったが、自分でぐいぐい答えを出しており、いずれもほぼ100点だった。とても利発なお嬢さんで、日本語はおそらくご両親より上手かと思う。2時ごろ生徒2人が仮放免申請に必要な書類を持参し説明を受けた後預かる。15分後には、大瀧さん(BRSA会長)が初めて来室し、預かったその書類を渡した。その後、通訳・翻訳のできる日本語の上手な生徒を紹介、さらに教室の授業風景を見ていただいた。夕方帰宅後、度々私の入管訪問に同行していただく女性から依頼された翻訳のチェック2件を片付けた。

2008年11月2日日曜日

(175)半年経った サイクロン被害

(2008年11月2日)
  サイクロンがビルマ南部を襲って6ヶ月を経過、死者・行方不明者約14万人を出した大惨事であったが、その後現場はどうなっているのだろうか。 我々のBRSAとミンガラ日本語教室から贈った合計100万円以上の寄付金は全部支援者に手渡しできたようだ。今日の朝日新聞には、「届かぬ援助、遠い復興 ミャンマーサイクロン半年」という見出しで、現況が報じられていた。それによると、5月の支援国会議以降軍事政権は2千以上の援助団体に入国査証を発行、被災地への行き来は自由になったという。国連のまとめでは、必要とされる資金は470億円だが、国際社会が応じたのはまだ半分。一方軍政は、「復興はすでに終わった」と話す。国連によればコメの収量は昨年比3-4割減、幸い感染症の発生は避けられたようだ。支援について政府側、反政府側から各種情報が飛び交ったがまあまあというところか。

2008年11月1日土曜日

(174)二つの ミンガラダディン

(2008年11月1日)
  「ミンガラダディン」とは「幸せなニュース、めでたいニュース」という意味。昨日は年甲斐も無く朝からドキドキ、ワクワクしていた。品川入管へ行くのは毎週水曜日と決めていたが、昨日は金曜日、いても立ってもいられなくなり、午後1時に入管3階に駆け込んだ。そこには、10日前に生まれたばかりの赤ちゃんを抱えたご両親が見えた。事前に入管から写真を4枚ずつ持ってくるように言われたのを知っていたので、八割がた安心はしていたのだがまだわからない。そのうち、赤ちゃんを抱えて部屋を出てきた2人はすばらしい笑みを浮かべ、「トンニ!トンニ!(3年!、3年!)と叫んでいた。その後赤ちゃんの申請手続きのため、一緒に2階を巡った。私が赤ちゃんを見るのはもちろん始めて、髪の毛が黒々とたくさんあり、なかなかのハンサムボーイ、将来の日緬の架け橋になることを夢見ながら、私も二つの幸せを満喫した。

2008年10月31日金曜日

(173)12年分の朝日記事

(2008年10月31日)
  私の書斎には、厚さ約10センチのファイルが3冊ずつ2組並んでいる。タイトルは「ビルマ関連新聞記事」で、一組は原紙、他の一つはそのコピー。中身は、1996年10月以降今日までの12年間の朝日新聞を中心としたビルマ関連の記事切抜きであり、今後も続ける予定である。一番最初の記事は96年10月23日の朝日夕刊で、「ミャンマー500人が街頭行動 軍政下で初 再び道路封鎖」、10月24日は「NLD副議長軍政側が連行」、「マレーシア ミャンマーのASEAN加盟支持」、「ミャンマー 北京ダック店が進出」、10月27日は「スーチーさん5週連続で演説できず」とあった。これらの新聞記事は、ミンガラ日本語教室の1級、2級生徒に教え、本国の情報に乏しい生徒に喜ばれていた。ただ12年経ってもビルマ問題はあまり変わっていないことに気がつく。活用していただける方には、一組を差し上げてもいいが。

2008年10月30日木曜日

(172)難民事業本部の支援活動

(2008年10月30日)
  私たちのBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)は現在200人ぐらいの両国会員がビルマ人難民申請者のために活動を続けている。その際、しばしば話題に出るのが外務省外郭団体のRHQ(アジア教育福祉財団 難民事業本部)だ。私の関係している「ミンガラ日本語教室」もこの財団のご支援をいただいている。RHQでは、難民申請者でかつ困窮者には生活費(1日1500円)、住居費(独身者の場合4万円)、医療費(上限4万円、事情により全額)を支援していただける。原則4ヶ月間であるが、延長もありうる。今年は200人ぐらいの難民申請者を支援しているという。支援を受ける際はインタビューがあり、決定するのは外務省。連絡はRHQ援護課、フリーダイヤル0120-925-357。なおビルマ語が話せる職員が1人いる由。最近生活に困ってるビルマ人申請者をよく耳にするが、ぜひ知らせてあげて!

2008年10月29日水曜日

(171)ビルマ人も人生いろいろ

(2008年10月29日)
  私が接するビルマ人には、礼儀正しく真面目な人が多い。努力して日本語能力試験の1級~4級に合格した人、「西田先生お元気ですか」と安否を気遣ってくれる人、ボランティアで翻訳、通訳をしてくれる人、サイクロン被災者救援のために奔走する人、老いた両親への仕送りを続けている人など、皆立派な人ばかりである。このような人たちは、自助努力で日本人社会に融け込むことができ、安心して見ていられる。しかし、私が在日ビルマ難民を助ける活動を続けていると、日本の社会について行けない人も目につきだした。酒におぼれる人、仕事をさぼる人、保証人に迷惑を掛ける人、家庭内暴力にはしる人など、意志の弱い社会的弱者の存在も知るようになってきた。勿論私たちはこれらの社会的弱者も助けなければならないが、正直な所経験も不足しており、時に躊躇してしまうこともある。もどかしさを感じながら。

2008年10月28日火曜日

(170)ミャンマーはいま(1995年)

(2008年10月28日)
  今日も書棚にあった「ミャンマーは、いま」という単行本を読んだ。発行が1995年であり、いまから13年前のビルマの情勢がどうであったか興味があり、ワクワクしながら読んだ。というのも、私が初めてビルマを観光で訪れたのが1996年だったので、私自身の旅行の思い出と重ね合わせながら頁をめくった。著者は当時の丸紅ヤンゴン出張所長の加藤徳道氏。この著書にあるとおり、当時のミャンマーは平和で明るい国であり、この点は同感であった。しかし、オヤオヤと思ったのが軍事政権を称える文章が随所に見られた点で著者が現地在住の商社マンなのでまあやむをえないか。また、この本の最初の1行目に「95年7月10日スーチー女史の自宅軟禁が突如解除」とあったが、13年後の昨日流れたインターネット情報では、「スーチー女史宅前の道路の通行を解除」とある。ビルマってこんな国なんだなぁ~。

2008年10月27日月曜日

(169)二つの保証人の問題点

(2008年10月27日)
  いま私は、ビルマ人からの依頼で、本国の友人を日本に招聘する文書を書き出している。その書類の中には、身元保証書があり、友人が日本に来た場合の、滞在費、帰国旅費、法令の遵守の保証が必要となる。万一友人に不都合が生じた場合、助けてくれる保証人がいるか否かが入国可否の一つの決め手。一方、BRSAでは仮放免申請者に身元保証人の手配と保証金の一部貸与を進めており、既に感謝の声が多数寄せられている。こちらのほうの保証人は、保証金30万円の支払いの他、申請者に、法令の遵守、住居および行動範囲の制限、呼び出しに対する出頭などを守らせる監督・指導が要求される。いずれの場合も身元保証人の責任が果たせない場合、直ちに法律的な責任を追及されることはなく、道義的な責任に留まるようだ。両方ともやむをえない場合は途中で身元保証人を交代することも可能だ。

2008年10月26日日曜日

(168)気になる ビルマの海外戦略

(2008年10月26日)
  今朝の朝日新聞は、ビルマのニャンウイン外相が明日訪朝すると報じた。両国の関係はあまり報道されてこなかったが、昨年4月の国交回復以来外相の訪問は始めてで、閉鎖国家同士の交流が本格化している。外相のほか、ビルマのスポーツ大臣、空軍司令官、ヤンゴン市長らも相次いで北朝鮮を訪問しているらしい。しかし主目的は、北朝鮮側の武器や軍事技術をビルマのコメや食料、天然資源と交換するためといわれている。北朝鮮には「核」の技術があり、その技術がビルマに拡散されると大変なことになる。このほか、インターネット情報によれば、軍政はシンガポールとタイの企業と水力発電所を建設する覚書を交わした。また、ベトナム石油グループ(ペトロベトナム)とは、モッタマ湾の天然ガス鉱区で探鉱することに合意した。これらの国際事業がビルマ国民のためになるのか疑問だ。やはり民主化が必要だ。

2008年10月25日土曜日

(167)読んだ! 古いビルマ憲法

(2008年10月25日)
  ビルマではサイクロン騒ぎの中、国民投票によって新しい憲法が認められた。そのとき品川のビルマ大使館前で、騒動が起こったことはご存知のとおりである。再来年には、この憲法の下で総選挙が行われ、軍政の言う民主化政府が誕生するだろう。気になったので、1947年9月に制定されたビルマ連邦憲法を読んでみた。出典は「タイ・ビルマ現代政治史研究」の別冊付録。ビルマがイギリスや日本からの束縛を離れ、雄雄しく独立した時の憲法であり、参考となる。内容は14章234条からなる難解な長文であり、理解しにくい点が多々あったが、何とか読み終えた。私が知りたかった少数民族の憲法上の立場も多くのスペースを割いており、シャン州、カチン州、カレンニ州、カレン州(コートゥーレイ)、チン州、につき詳述されていた。興味を引いたのが国旗、今の国旗と違い5尖の星の間に小さい星を配したものだった。

2008年10月24日金曜日

(166)ウヒャー 2000人突破だぁ

(2008年10月24日)
  今朝のアクセスカウンターを見ると2013人、ウヒャー2000人突破だぁ。この快感はBLOGGERでなければ分からないだろうなあ。当ブログは今年の5月にスタートしたが、当初は何人に読んで貰えるかとても心配だった。でも個人の日記だし、内容も特殊で硬いから、本来だれも読んでくれなくてもいいやぁ・・・と弁解するせりふを用意しながらのスタート。でも途中で何人がアクセスしているのかどうしても知りたくなり、8月4日に「アクセスカウンター」を熊切さんにつけてもらった。1000人突破が9月20日で46日かかったので読者は1日22人、たが、次の1000人は今日(10月24日)達成したから34日間と短縮され、1日平均の読者は30人に増えた。一方、コメント数も着実に増えてきている。読んでいただいた方は、コメントしていただくととっても嬉しい。そしてビルマ問題、難民問題に関心のある方に教えてあげて!

2008年10月23日木曜日

(165)難民に認定されると

(2008年10月23日)
  ビルマ人難民申請者が何よりも欲しいのが難民の認定、でもなかなか貰えず泣いている人が多い。しかし中には貰えた人も数は少ないがいる。もし法務大臣から「難民認定証明書」が貰えたらどういう利点があるのだろうか? ①難民旅行証明書が貰えるのでビルマを除く外国に旅行できる。 ②難民の資格は「定住」者であるが、次の段階の「永住」者への資格変更が容易である。 このほか難民条約には、住居、公的教育、公的扶助、社会保障などの定めがあり、日本人に与える待遇と同一の待遇を与えるべきと定められている。なお、退去強制の手続きで難民とは認められないが、人道的配慮から特別に在留を許可する「在留特別許可」(通称「在特」)もあるが、この場合は②の特典はない。このように、難民になれば日本人と同様な義務と権利が生じるが、言葉の壁は存在する。申請者はみな日本語を勉強しよう!

2008年10月22日水曜日

(164)BRSAの出番だぁ

(2008年10月22日)
  今日、品川入管に行くと知り合いの日本人女性が駆け寄って来て、助けてあげて欲しいと頼まれた。内容は以下のとおり。ビルマ人男性の某氏が先日品川入管に収容されたが、その奥さんが乳飲み子(3ヶ月)を抱え、生活費もなく、どうやって暮らしていけばよいのか途方にくれていると言うもの。赤ちゃんは心臓に異常があることがわかっているが、その診断書を書いて貰う金もなく、本人自身もヘルニアで困っているとのこと。なお、お産の費用は区役所に頼んで0円。私のほうから、まず二人の難民申請書、及び、保証人を決めて仮放免申請書を至急出せと伝える。保証人と保証金につきBRSAの大瀧会長と熊切副会長に電話連絡したところ、保証人は正副会長のどちらかが引き受け、保証金は15万円までなら貸与する旨の返事あり、この旨奥さんに伝える。奥さんは26日に大滝邸に行くとのこと。うまくいくといいなぁ。

2008年10月21日火曜日

(163)差別! たくさんあるなあ

(2008年10月21日)
  来る10月31日に東京弁護士会の外国人権利委員会交流会が開催され、大川弁護士が第4部会「日常生活における差別」で冒頭事例を発表されるという(当ブログ151参照)。主に熊切副会長と私が事例を集めてみた。外国人差別があるということは、漠然とは知っていたが、改めてビルマ人およびビルマ人配偶者から直接聞いてみることにした。その結果、約30件の事例が集ったが、その中には、このブログのコメント欄に貴重な意見をいただいているSTさんからの事例約10件も含まれている。これらの事例を見ると、私が平生考えていたより、はるかに深刻な問題が多数ある。なお、私からは、難民申請者は就労不可という古い考えの法律が、彼らの日常生活を惨めなものにしていること、また、2・3年前に収容された人が平和に暮らしていたのに、再度収容され、その間ほとんど取調べがない矛盾などを提起した。

2008年10月20日月曜日

(162)大忙しの日曜日

(2008年10月20日)
  昨日の19日はなんだか忙しかった。午前中サヤガドーボエに参加したことは、昨日のブログで紹介したが、実はその前の時間、牛久の5人のビルマ人の仮放免申請書につき保証人と最終チェック。次に新しい仕事に付く女性の保証人の書類にサインし、さらに第2回目の難民申請者(男性)の書類につき相談。サヤガドーボエ終了後は、ミンガラ日本語教室の講師連絡会が12時過ぎから2時まで行われた。この講師連絡会は年に5回ほど開催され、教室の現況と問題点、今後の運営方針などが討議される。昨日は10人の先生方が出席され、討議の末全議題が中尾先生の提案に基づき決定された。その後巣鴨の大瀧会長宅で行われていたBRSAの役員会に駆け込み出席、ここでも熱心な討議が展開された。その夜、生徒のビルマ人女性が無事出産し3450グラム、母子ともに健全。私は日本名を考えなければ。

(161)サヤガドーボエ

(2008年10月19日)
  今日19日はミンガラ日本語教室のサヤガドーボエ、10時45分から式典が始まった。サヤガドーボエとは、生徒が先生の前でお経を唱えて合掌礼拝し、先生に感謝の意を表すビルマにおける仏教儀式で毎年1回行われる。今日は第7回目で約60余人のビルマ人生徒が正座しており、その前に約10人の日本人の先生方が並び、大きな教室はほぼ満員であった。司会者の発声で生徒達のお経、合掌礼拝が始まり、そのあと各先生から教育的なお話が続いた。私は、感謝の気持ちと笑顔を忘れないようにと話した。心が洗われるような儀式のあとは、雰囲気ががらりと変わって午餐会、生徒達が持ち寄った手作りのビルマ料理が机上にずらりと並び、この机を囲んで談笑が続いた。今日は古い生徒も集りとても懐かしく、シャンカウスエー(シャン州のそば)などを味わいながらいつまでも話が続いた。誠によき日であった。

2008年10月17日金曜日

(160)太っ腹 5人の保証人に

(2008年10月18日)
  最近はもっぱら品川入管を訪問しているせいか、牛久入管の様子がよくわからない。しかし情報によれば、ビルマ人男性が10人ぐらい、女性が1人いるらしい。いずれも成田空港で難民申請した人たちだ。ところが先日、その中の5人の男性に対する仮放免申請の話が教室内で出てきた。彼ら5人の共通の友人が生徒の中にいて、保証人を一手に引き受けるという。保証金は1人30万円だから、5人だと150万円、太っ腹な生徒がいるものだ。保証人が決まればあとは申請人探し、牛久入管で長く活動しているBRSAの大瀧会長に相談したら快く引き受けていただいた。こうなると後は私の仕事、今日は一日かけて申請書7枚ずつ、5人分を書き上げた。今度の日曜日に、この書類を太っ腹生徒に見せて確認をとり、その午後大瀧さんに渡す予定。12月には仮放免許可証を持ったニコニコ顔の5人の姿が見られるかしら。

(159)昨日の電話

(2008年10月17日)
  昨日はビルマ人からの電話が多かった。Aさんからは、妹さんが東京の日本語学校で勉強していたが、2年前に体調を崩して帰国、現在は毎週1回ヤンゴンで透析を続けているが、腎移植しないと余命2年とのこと。私はさっそく近くにある総合病院に飛び込みケースワーカーに腎移植を聞いてみた。千葉県で腎移植できる病院は3箇所のみで、保険のないビルマ人の場合は、5百万円から7百万円必要とのこと。因みに透析代は1回につき7万円(日本人の場合は月に1万円以下)という。帰宅してこの旨連絡するとため息だけが聞こえた。続いてBさんからの電話、新しい仕事が見つかったので保証人を頼むとのこと、OKと返事。次はCさんからで、明日が出産予定日で、お腹に3200グラムの赤ちゃんがいるが、いま品川入管に出頭してきたとのこと、安産を祈る。最後はミンガラ日本語教室に入りたいという電話が1件。

2008年10月16日木曜日

(158)アジア読本 ビルマ

(2008年10月16日)

  いま書棚にあった「暮らしがわかるアジア読本 ビルマ」という単行本を見ている。発行は1997年だから今から11年前に出版されたやや古い本であるが、私の知らなかった情報が結構たくさんあった。田村克己・根本敬両氏の編集であり、目次を見ると、「現代ビルマ風景」、「今に生きる歴史と政治」、「ビルマ社会に生きる」、「信仰と生活」、「コミュニケーションの世界」、「ビルマと日本との関係」と続く。各章はそれぞれ数編に分かれていて、当時のビルマに豊かな現地経験を有し、ビルマと関係の深い教授、助教授、講師ら錚々たる約20人のメンバーが執筆している。当然のことながら内容は真面目であるが、堅苦しさは感じない。90年代というビルマの変換期を多面的に理解し、現在及び将来にわたって我々日本人がどのように付き合って行くのがよいのか参考になる。発行は河出書房新社、310頁、2060円。

2008年10月15日水曜日

(157)BRSA さらに前進

(2008年10月15日)
  10月12日にBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の上半期活動報告会が高田馬場の消費生活センターで開催され、50余名が参加した。その報告書がいま届いたので紹介する。それによると、①会として既に7名の対象者に対して80万円の支援金を提供、②ビルマ・サイクロン犠牲者に1回目は70万円を贈り、2回目として30万円を予定。③新たに7部会を設置、支援部会、広報部会、運営部会、組織部会、社会活動部会、規約部会、資金調達部会。④現在の基金残高は約300万円。⑤BRSAセミナー、バス旅行、水かけ祭り/火祭りへの出店、デモ参加等の諸活動を実施。⑥現在会員数181名。毎月の役員会などでは、いろいろな意見が飛び出し、激論となることがしばしばあるが、会長、副会長らが、ときには正論を言い続け、ときには妥協し、BRSAは確実に前進を続けている。詳細はBRSAのHPを見て。

2008年10月14日火曜日

(156)成田空港は どこの国

(2008年10月14日)
  ロス疑惑の三浦社長はアメリカ領であるサイパン空港入管で捕まり、結局ロスで気の毒な最期を遂げた。ところで成田空港の敷地はどこの国の敷地であろうか。誰もが日本領と思うが、どうやらそうでもないらしい。入管に聞くと、海外から来た外国人が、上陸許可をもらってから始めて日本国に入るのであり、上陸許可をもらわないで、或はもらえないで、空港の中のホテルに泊まることがあるが、そのときは航空機の機長が権限を持つらしい。例えばエアフランスだったらフランス人機長の権限下に入り、日本の入管はノータッチらしい。さて問題は、難民申請者がこのホテルに宿泊させられることだ。ホテル側は宿泊料を当然取るし、おまけに警備員付での宿泊なので、警備会社からも請求が来る。難民申請者が持ってきたお金は殆どなくなるとも聞く。この問題は複雑すぎて私にはよくわからないが、これでいいのかしら?

2008年10月13日月曜日

(155)大川弁護士からのご依頼

(2008年10月13日)
  ビルマ人難民支援でご活躍中の弁護士大川秀史先生から、下記のようなご依頼がありました。即ち、東京弁護士会の外国人権利委員会では、10月31日(金)に外国人市民団体との交流会を開催することとなり、この会議では、4部会に分かれて討論会を開く予定とのこと。その際、大川先生は第4部会「日常生活における差別(賃貸借契約、飲食店への入店、宿泊、その他)」を主催される由で、先生が冒頭に事例報告をするので、外国人市民たちが日本での日常生活上、不合理な取り扱い、不可解な思いなどがあれば、20日午前中までに知らせて欲しい旨のご希望がありました。もちろん匿名にするとのこと。何か事例がありましたら、BRSAの熊切副会長、(または私)宛に18日頃までにご連絡いただければ、大川先生にお伝えしますのでよろしく。なお、先生は現在25名ものビルマ人の弁護を担当されています。

2008年10月12日日曜日

(154)ビルマ 二つのニュース

(2008年10月12日)
  インターネットによる2つのニュースが流れている。最初は長井さんが射殺されたとき「カメラ所持者を撃て」というビルマ軍政の秘密指令書(機密文書)が、毎日新聞の手によって明らかになったというもの。これが事実ならば、長井さんは偶発的に銃殺されたのではなく、軍の組織的な指令による犠牲者だったことになる。インターネットには、この機密文書は「行動制御司令部」名で出されたとしており、写真も掲載されている。もう一つのニュースはスーチーさんの弁護士が、軟禁期間に関する異議申し立てを行ったというもの。スーチーさんは、03年5月に拘束され、9月に自宅軟禁に切り替えられたが、国家防御法では最大5年と定められているのに、軍政は軟禁期間を来年11月までと説明。上記2例が正しいとすれば、前者は軍政の悪質な指令文書、後者は軍政の悪質な法律解釈といえよう。軍政側の出方に注目しよう。

2008年10月11日土曜日

(153)外国人の小学生

(2008年10月11日)
  最近、ミンガラ日本語教室でもビルマ人のお母さんに連れられて小学生がやってくる。多くは日本で生まれた子供たちで、概してお母さんより日本語は達者である。しかし、両親とも日本人である場合に比べれば、どうしてもハンデがあり、日本語指導が必要な児童生徒も大勢いるはずだ。一方、学校からの連絡など、お母さんが日本語で困ることも多いので、お母さんは私たちの教室で勉強し、お子さんたちは空いてる先生に学校の宿題などを教えて貰ったりしている。文部科学省による日本語指導が必要な外国人児童生徒の受け入れ状況に関する最近の調査によれば、小学校では、3千6百校、1万8千人、中学校では千9百校、6千人となっている。母語別に見ると、ポルトガル語、中国語、スペイン語、フィリピノ語、韓国・朝鮮語、ベトナム語、英語の順でビルマ語は表には現れない。皆バイリンガル目指して頑張って!

2008年10月10日金曜日

(152)NHK リトルヤンゴン

(2008年10月10日)
  今朝3時40分からNHKテレビで『日本の現場 リトルヤンゴン』が再放映されることを知った。実は1週間前に放映されたのを私が見落としたのだが、この数日、周辺から放映内容についていろんな情報が飛び交っていた。午前3時40分、これが朝なのか夜なのかよくわからないまま目覚ましで飛び起き、スイッチを入れた。内容は高田馬場周辺に住むビルマ人の苦悩に満ちた生活をドキュメンタリー風にまとめたもの。BRSAの大瀧会長が関与してるAFG(難民の店)や、ヘイマーさん・チートーシェインさんが活躍するJMCCも紹介されていた。チートーシェインさんが、サイクロン救済に関する日本の報道が現実と違うと言い、へーマーさんが彼は軍べったりの団体に属してるといっていたが、仲のいい二人のこと、あまり気にしないでもよいのでは。最後に募金で集った150万円をへーマーさんがシェインさんに手渡す場面で終了。

2008年10月9日木曜日

(151)最近の品川入管

(2008年10月9日)
  昨日は水曜日、例によってなんとなくワクワクする日だ。難民申請しているビルマ人女性5人と面会する予定だったが、うち1人は前日に仮放免で出所したので、結局4人と面会。8月頃は10人いたので大幅に減ったことになる。4人の内訳は、カチン、カレン、パオ、そしてビルマ族だ。うち1人は日本語を勉強したいというので、4級、3級の日本語問題集と、3級の漢字練習帳、および世界地図とビルマ語の雑誌を差入れておいた。世界地図は同室の外国人と仲良くするための話題提供用の道具になればと思っている。控え室では多くのビルマ人友人に会った。特に親しいAさんとは一緒に帰り、品川駅のコーヒーショップで1時間ほど話し合った。彼も少数民族出身者であり、その苦悩をいろいろ聞かされた。一つの少数民族なのにグループが二つも三つもある点について顔をしかめていたのが印象的だった。皆頑張って!

2008年10月8日水曜日

(150)入管にビルマ人は何人?

(2008年10月8日)
  BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)のほうから、今入管に収容されている難民申請中のビルマ人は何人いるのか?と訊かれる。「たすけあいの会」の性格上ぜひ知りたい問題だが、この質問に正確に答えられるのは入管当局者だけであろう。我々外部の人間には答えられない。ただ答えられるのは、何人と面会したかということだけ。入管には、幾つかの棟があり、その棟の中にさらに幾つかの部屋がある。収容者は自分の棟にビルマ人がいるかどうかはわかるが、他の棟については全くわからないようだ。誰がいるのかわからないと、もちろんその人に面会することもできない。このため私が入管を訪問し面会するときは、必ず他の棟や部屋にビルマ人がいないかと聞くことにしている。その他、外部から**さんが入管に収容されたという情報も貴重だ。近い将来収容されているビルマ人が「0」になると嬉しいのだが。

2008年10月7日火曜日

(149)外国人差別を防ぐ法律を

(2008年10月7日)
  10月5日の朝日新聞に「後絶たぬ外国人お断り」という見出しで、外国人を嫌悪する日本人の現状が記載されていた。例えば、不動産店で「外国人お断り」、病院でも「外国の方は診療できません」、焼き鳥屋で「ガイジンはダメ」、入浴施設で「ジャパニーズ オンリー」など、この他に「夜外国人が歩いていると怖い」、「子供が学校でガイジンと呼ばれていじめられる」などなど。これらは人権侵害と判断されても、地方法務局による「説示」や「勧告」どまりで強制力はない。この原因は外国人の暮らしや権利を守る基本法が日本にはまだないからだ。お隣の韓国では「外国人処遇基本法」がすでに制定されている。政府はこの種の法律を早急に作るべきだ。一方、外国人との交流を促す工夫も必要。私たち日本人とビルマ人が参画する「在日ビルマ難民たすけあいの会」や、「ミンガラ日本語教室」などはその代表例であろう。

2008年10月6日月曜日

(148)ウィンティン氏とウィンテイン氏

(2008年10月6日)
  9月24日の新聞報道によれば、最近軍事政権が各地の刑務所に収容されている9002人を釈放した。その中にNLD幹部で著名なジャーナリストのウィンティン氏(79歳)が含まれていたという。同氏は19年間という最も長期間拘束されていた政治犯で、釈放後「この国に民主主義がもたらされるまで戦い続ける」、「アウン・サン・スー・チーさんによる指導を支持する」と話したという。次いで9月25日の新聞には、スーチーさん元側近でNLDスポークスマンのウィンテイン氏が釈放の翌日に再収監されたと報じられた。私はてっきり両者は同一人であると思い込み、この話題をビルマ人女性に吹っかけてみたが、どうも話がかみ合わない。そこで、そのビルマ人女性が東京のNLD幹部に問い合わせてやっと両氏は別人であることが判明した。それにしてもよく似た名前であり、そそっかしい私が間違えるのも無理ないか?

2008年10月5日日曜日

(147)厚労省まで関与してるよ

(2008年10月5日)
  すべての事業主は、外国人の新規雇い入れと離職の際に、その都度その外国人の氏名と在留資格等を確認し、ハローワークに届けることが義務付けられている。 また、以前から継続雇用している外国人についても、平成20年10月1日までに同様な届出を行うことが義務付けられている。違反者は30万円以下の罰金とのこと。問題は就労可能なビザを持っていない難民申請者の場合である。法的には働いてはいけないことになっているが、こういう人はどうやって食べていくのか?入管に聞くと、支援者にお願いしてと冷たく言われる。難民申請者でなければ、あるいはビルマ人でなければ、強制送還となる例が多いので問題の発生は少ないが、現状はビルマ人難民申請者がどんどん増えており、人権の問題、人道上の問題に発展している。法務省や各省はこの点英知を働かせて上手に改善して貰えないかしら。

2008年10月4日土曜日

(146)難民ソーシャルワーク

(2008年10月4日)
  BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)副会長の熊切さんが編集・執筆されている「ビルマ国境ニュース第11号」に「難民ソーシャルワークの可能性」というユニークな小論文が掲載されていた。「難民ソーシャルワーク」??? 何だろうと思いつつ読み出してみた。この論文の主旨は、難民を助ける方法としては現在BRSAが実施している基金からお金を渡して支援する方法があるが、この方法は支援のほんの一部に過ぎず、金銭以外の支援活動がいろいろあるというもの。例えば、①入管をはじめ市役所や学校との交渉、②医療機関、難民支援組織、不動産屋、職場(労働組合)との交渉、③在日ビルマ人社会/少数民族社会の団結など。これらを実行するには経験や技術が必要であり、ビルマ人と日本人が協力し合わなければならないとしている。私はこの意見に大賛成、BRSAよ、一歩一歩前進しようではないか。

2008年10月3日金曜日

(145)難民と在特 一人で両方?

(2008年10月3日)
  世の中には分からないことがあるものだ。一人で「難民認定」と「在留特別許可」の両方を貰った難民申請者がいるという。これらの決定を欲しがっている難民申請者が大勢いるのだから、どちらか一方を誰かに分けてあげたい気もするが・・・・。そこで品川入管の担当部署で聞いてみると、担当官はこういうことはありうるとはっきり答えた。外部の人にはわかりにくいことで申し訳ないがと断りつつ、入管法上、「難民認定」と「在留特別許可」とは全く別の処分だから、その審査も別々に行われており、一致することも一致しないこともあるといい、二つを同一人が貰っていることを認めた。とすると法務省入国管理局の統計発表の際の人数は、一人と数えるのか、二人と数えるのか、今度聞いてみたい。なお、この場合、どちらも定住資格が得られるが、難民のほうが永住資格を得やすい利点がある。どちらでもいいから貰って!

2008年10月2日木曜日

(144)よくわかる BRSAのHP

(2008年10月2日)
  このたび私たちのBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)のHP(ホームページ)が一新された。熊切副会長のご努力によって、従前にも増して内容が充実しており、活動の活発化が伺える。その一部は当ブログ(141)でも触れたが、正確な全体像を確認するには上記ホームページをご覧いただきたい。私のブログは、故あって写真を取り込んでいないが、このホームページでは多くの写真があり、見ただけで活動状況がよくわかる。例えば9月27日のNLD(在ビルマ)結成記念デモ行進や、8月8日の8888記念デモ行進など、活動の幅が大きく広がっている。一方、本来の活動である支援活動も順調に成果を出し、会員数も170名に増えている。10月12日には「6ヶ月総会(開設半年間の活動報告会)」を開催する予定だ。役員一同のご努力の賜物であろう。そして何よりもHP作成の熊切副会長に拍手を贈りたい。

2008年10月1日水曜日

(143)保証人 引き受けるべきか?

(2008年10月1日)

  今日は水曜日、午前中に品川入管6階の仮放免担当部署を訪問、一人のビルマ人の仮放免申請書を提出した。この申請書を出すということは、彼らが出所した後私が保証人になるということであり、結構責任が重い。私はすでに10人近いビルマ人の保証人となっているが、仮放免中の身元一切を私が引き受け、法令を遵守させること、入管の指示に従わせることなどの責任が生じている。ビルマ人は概して真面目で礼儀正しいが、もし何か事故を起したとしたら、その責任の一端は保証人にかかってくる。このようなリスクを背負いながら、BRSAの私たち日本人は保証人を引き受けている。私の場合まもなく満80歳だが、寿命は長くてもせいぜいあと5年か、その間に保証人としての責務を全うできなくなる恐れも多分にある。年寄りの私が今からビルマ人の保証人を引受けることは、果たしていいことなのだろうか?

2008年9月30日火曜日

(142)NLDの力は弱まったか

(2008年9月30日)
  一昨日の読売新聞に「スーチーさん不在のNLD結成20年」「民主化ムード停滞」という見出しで、サフラン革命1年後のNLDの状況が報じられていた。最近解放されたNLDの元幹部ウィンティン氏が「スーチーさんによる指導を支持する」と発言したが、肝心のスーチーさんは自宅軟禁中。軍政側とスーチーさんの対話は行き詰まり、軍政側は自分達に都合のよい憲法を国民投票で成立させた。このまま行けば総選挙でも軍政側政党が勝つであろう。一方国連はこの憲法をなんとなく容認した形となり、スーチーさんは怒り心頭、ガンバリ氏との面会を拒否した。市民の間でも「スーチーさんは好きだが政治家ではない」とか「NLDがいう90年総選挙で選出された国会の召集は非現実」という意見も多い。さらには「完全な自由は混乱を来たすだけ」との意見も若者の間で出だしているという。NLDはまさに八方塞がりの様相だ。

2008年9月29日月曜日

(141)日曜日は ご多忙

(2008年9月29日)
  昨日午前はミンガラ日本語教室に顔を出し、ビルマ人女性に仮放免延長書類を手渡すと共に深夜勤務について相談。午後2時からはBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の役員会が巣鴨の大瀧会長邸で開催された。新たに通訳としてビルマ人女性が参加し、てきぱきと日本人、ビルマ人の間を取り持ち、会議が以前よりスムースに進行した感じ。議題としては、バス旅行の際の利益と、ダジンジュ出店の際の利益が報告され、これらは助合い基金に充当する旨決定。次にサイクロン被害に対する寄付金の残余金32万円をビルマ人僧侶経由で再度寄贈することとした。次に、入管収容者の仮放免保証金貸与後の返金期間を決めた。最後に10月12日(日)に、半年間の成果報告会を開催することにして5時終了。5時半から巣鴨ルノアールで別のビルマ人女性と入管提出資料の扱いについて打合わせて帰路に。

2008年9月28日日曜日

(140)またまた掲載されちゃったぁ!

(2008年9月28日)
  またまた掲載されちゃったぁ! (135)で「ビルマ国境ニュース」(熊切拓氏編集)に私のブログ「U MINGALARのつぶやき」が掲載されたことを報じたばかりだが、昨日届いた「ミャンマーフォーカス」誌(2008年2号、ミャンマー総合研究所発行)にミャンマーと日本をつなぐ人第4回として、ウー・ミンガラ(西田敦)さん「東京に暮らすビルマ人とともに」という表題で舟橋左斗子さんの取材文が載っていた。彼女とはビルマ語を一緒に勉強した仲間であり、ともによく飲んだり、だべったり、ビルマに行ったりしたので、ビルマ語がさっぱり上達しなかった間柄。でも彼女の文章力は大したもの、私の言いたいことが上手に表現されていた。内容は、「ビルマが好きになった理由」、「ミンガラ日本語教室の思い出」、「警察・入管通い」、「私にとってミャンマーとは」と続いている。こそばゆいが嬉しい。例によって、興味のある方はコメントで。

2008年9月27日土曜日

(139)負けるな! 在日ビルマ人

(2008年8月27日)

  昨日の朝日夕刊の「窓」という欄に、水野論説委員が「日本のシュエバ」というエッセーを書いていた。ビルマのシュエバといえば著名な映画俳優で、悪人に立ち向かうヒーロー役を演じていた。「日本のシュエバ」といえばもちろん田辺寿夫さん(65)。私もウーシュエバとの付合いは長い。1998年頃、ミンガラ日本語教室に取材に見え、当時の生徒一人一人にビルマ語で取材していた姿を思い出す。その後、生徒10人を引き連れ渋谷のNHKを見学、彼の案内でビルマ語放送部門を紹介していただき、海外放送というものを始めて理解できた。その後もビルマ人の結婚式や、裁判、イベントなどでもウーシュエバとしばしばご一緒できた。このたび、彼が在日ビルマ人を支援してきた記録「負けるな!在日ビルマ人」(梨の木舎、1785円)を発行した。とても分かりやすい言葉で書かれており、ビルマ問題関係者必読の本だ。

2008年9月26日金曜日

(138)サフラン革命1周年

(2008年9月26日)
  昨年秋の僧侶らによる10万人規模の反政府デモを欧米では「サフラン革命」という。僧侶が着ている僧衣の色からこの名前がついたといわれる。しかしサフランの花は薄い紫色だから、むしろ食用の着色料に使うめしべの色かなと思う。閑話休題、軍政は僧侶や市民に対する圧力をますます強めており、一方物価上昇はそのまま続き、25日にはヤンゴン市庁舎前で爆弾が爆発するなど、市民の間には絶望感が広がっているようだ。最近ミンガラ日本語教室に来るビルマ人が増えているのも、あるいはこの絶望感と関係があるのかもしれない。国際社会も軍政の強い姿勢に打つ手がなく、スーチー女史がガンバリ特使との面会を拒否した。軍政に強く出ない国連に不満があるのだろう。日本は資源豊富な親日国ビルマの軍政と手を切れない。日本で流行ってる言葉「国民の目線」についてタンシュエ将軍のご意見は?

2008年9月25日木曜日

(137)変な微妙なニュース 

(2008年8月25日)
  長井健司カメラマンが最後まで持っていたビデオのテープを提供すると言って、APF通信社の社員を脅迫したビルマ人M容疑者を逮捕した旨9月23日の各紙が報道した。とんでもないビルマ人がいたもんだ。知能レベルが相当低い人物のようだ。軽はずみな彼の行動によって、ビルマ人は真面目で礼節を重んじるという評判がガタガタと崩れ去る恐れがある。周辺に彼を助ける友人がいなかったのか。BRSAに相談するのも一つの方法ではなかったかしら。一方、24日の各紙には、ビルマの政治犯ら9002人が釈放され、その中には、NLD幹部で著名なジャーナリスト、ウイン・ティン氏や同党国会議員らが含まれており、2千人といわれている政治犯の釈放を求める国際世論を和らげる思惑があるとされている。一応朗報といえるが、こんなことは何回も繰り返しており、最終的にはスーチー女史の解放があるのか見極めたい。

2008年9月24日水曜日

(136)忙しかった 今日一日

(2008年9月24日)
  今日はいろいろなことがあった。午前中に品川入管を訪問、書類上疑問点があったので、総務課訪問、担当課が違うということで係官がわざわざ付き添って1階下の難民審査部門に連れて行ってくれ恐縮した。その課では、本人でなければ話せないの一点張りなので、やむを得ず退散、廊下で10年間会っていなかったビルマ人女性に偶然会う。午後は1階の待合室で、顔馴染みのビルマ語の上手な某宗教グループの7~8人に会い、保証人になってくれるよう依頼。この後ビルマ知人と一緒に収容中の女性8人と面会、うち1人の仮放免の手続きを進める。面会室を出た所でBRSAの事務局2名と会い、いま面会したばかりの一女性が仮放免で今から出所とのこと、嬉しい。帰途、ビルマ人男性が急病で南大塚病院に入ったと聞き、大塚に寄ったが本人は比較的元気、この後ビルマ女性と会って翻訳を手伝う。疲れたよ。

2008年9月23日火曜日

(135)面白い、ビルマ国境ニュース

(2008年9月23日)
  待ちに待った「ビルマ国境ニュース(11号)」を入手、嬉しい! この雑誌は、非ビルマ民族の政治活動を軸にビルマ民主化運動の現状を伝え、その活動と取り巻く状況を批評するA-4判12頁の小冊子。編集・執筆者はもちろんBRSA副会長の熊切拓氏。私もビルマの民主化は、軍政対民主化グループという構図では解決困難で、少数民族問題がどうしても絡んでくるという立場。この点先輩格の熊切氏がどう考えているのか、教わる所が多い。さて、今号はBRSAの特集号で、「会のキーパーソン2氏のインタビュー」、「会の案内」、「難民ソーシャルワークの可能性の話」、「ミョーアウンさんの漫画」、「パダン・シガより」、「モウニーさん頑張れ」などが続く。一つ落としたが、私のブログ「U MINGALARのつぶやき」も3頁にわたって抜粋、紹介されている。ご希望の方は、コメントいただければ無料で手配します。ためになりますよ。

2008年9月22日月曜日

(134)雨でも賑やかダディンジュ

(2008年9月22日)
 昨日はビルマ人のお祭りダディンジュ、火祭りともいい、春の水かけ祭りと並ぶ盛大なお祭りだ。場所はいつもと同じ王子の飛鳥山公園、私は秋葉原のミンガラ日本語教室に顔を出してから、生徒と一緒に王子に向かった。すでに小雨が降ったり止んだりの天気、今日は参加者が少ないかなと心配しながら1時半ごろ会場へ。我々BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)のブースはすぐ見つかり、大瀧会長をはじめ大勢のメンバーが手羽先のフライとバナナジュースをガンガン売っていた。私はその間会場を一周、実に大勢のビルマの友人と挨拶を交わした。また、どのテントにも私がかつて面会したビルマ人女性がいて、手作り料理を勧めてくれた。私はもともと少食なので断るのが大変、でも好意には深く感謝。3時前には会場はいっぱいになったが、3時を過ぎると雨が激しくなり、後ろ髪を引かれる思いで会場をあとにした。

2008年9月21日日曜日

(133)日本語能力試験に大勢受験

2008年9月21日)
  私は秋葉原にある『ミンガラ日本語教室』に設立当初から12年間関係している。毎週日曜日、ビルマ人だけを対象とした日本語教室であり、最近は生徒が延べ50人から60人も毎週集って熱心に勉強している。クラスはアイウエオクラスから1級クラスまで6クラスあり、先生は私以外に17人、全員日本人(有資格者)であり、毎週交代で教えている。今年の日本語能力試験は12月7日に世界各都市で行われる。私たちの教室からも、30人近い生徒が挑戦する。今後日本に在留するビルマ人、特に難民や難民申請者は、日本の社会に馴染むためにも日本語の習得が必要だ。ぜひ世界で通用する公的な資格を取って欲しい。教室の場所は秋葉原駅中央口からから3分、関心のある方は、中尾先生(090-2414-5763)、またはニーニーリンさん(080-2092-7282)に連絡してください。みんな一緒に頑張ろうね!

2008年9月20日土曜日

(132)ヒャー 千人突破だ

(2008年9月20日)
  8月4日からこのブログにACCESS COUNTERを取り付けてもらった。ブログの読者が何人いるかを自動的にカウントする便利な装置だ。実はこの装置を付けるに当たって、ずいぶん躊躇した。一日に何万人という読者がいるブログがあるというのに、もし3人とか5人だったら恥ずかしい。でも付けなければ反応が分からない。えーい、ままよとばかりブログ番号(85)番から取り付けることにした。今日のブログは(132)番だから47回(47日目)のブログに1030人、1日平均22人が見たことになる。私のブログはビルマ問題、難民(申請者)問題を中心としている極めて特異な分野に限定したブログであり、そう考えると1日22人は予想を超えた人数だ。時々私の知らない人からも、「ブログを見た」旨の電話がかかってくる。ブログは日本語を理解できれば、世界中の誰でも見ることができる。これからも、心して続行したい。

2008年9月19日金曜日

(131)見て見て BRSAのホーム頁

(2008年9月19日)
  先日BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)のホームページが更新された。当会副会長の熊切さんがこの仕事を担当されたが、内容がますます充実してきている。例えば、明後日のダジンジュ祭り(飛鳥山公園)に当会が出店して、手羽先餃子とバナナのデザートを販売する旨の予告、9月9日、国連大学前でのハンスト支援(1万円寄付)の様子、幹部会と有志委員会(8月31日)の様子、平和の翼ジャーナルの記事紹介、役員会(8月24日)の報告、バス旅行(8月17日、水戸偕楽園、大洗サンビーチ)の紹介、8888デモ参加(8月8日)の様子など実に盛りだくさん、いずれも写真を多用していて理解しやすい。特に最後の二つの行事は、写真をクリックすると次から次へと写真が現れ、まさに行事に参加している気持ちになる。当会の活動は、ホームページを含めて、ビルマ関連団体の中でもトップクラスであろう。

2008年9月18日木曜日

(130)1回目と2回目の収容期間

(2008年9月18日)
  警察や入管によって不法残留などの理由で入管に収容され、かつ難民申請をしたビルマ人は、いったいどのくらいの期間収容施設に入っているのだろうか。 昨年秋までは、1年前後というのが普通であったが、その後は、4ヶ月前後と変わってきた。このように初めて入管に収容された人を1回目の収容者としよう。その他にいまから2.3年前に2ヶ月間収容されたビルマ人難民申請者が、最近少しずつ品川入管に再入所している。2.3年前の収容時は保証金の支払いもなく出られたので、2回目の収容では、仮放免申請書を出し、保証人を立て、30万円の保証金を提出しなければ出られない。入管サイドが、1回目の収容者とバランスを取っているように思える。このような2回目の収容期間は大体1ヶ月前後で、合計約3ヶ月となる。短くなったとはいえ、3ヶ月~4ヶ月という長期間の拘留は、人権問題に絡んでこよう。

2008年9月17日水曜日

(129)今日は楽しい水曜日

(2008年9月17日)
  今日は水曜日、品川入管に面会に行く日だ。朝から何故か心がワクワクする。先週は男性ビルマ人の仮放免、出所に立ち会ったため、面会活動はできなかったので、なおさら気分が高揚する。牛久入管面会活動から品川入管に鞍替えしたのが昨年12月6日、約10ヶ月間この活動を続けてきたがいつもワクワクの気分。今日の面会者は女性7人で、初めての人が3人いた。一人体調の悪い人がいたが、そのほかは皆元気で明るく、しばしば笑い声に包まれた。面会室を出ると、顔なじみのビルマ人数人がいてしばし雑談した。これも私の面会活動の一環であり楽しい。その中の一人の要望で、彼の疑問点を確かめるべく4階の総務課や、2階の特定活動担当窓口を訪ねたところ、6ヶ月経てばビザがもらえるという説明を受け、一応納得した。このように、入管当局と話し合うことも私の面会活動の目的の一つであろう。

2008年9月16日火曜日

(128)パオ族って どんな民族?

(2008年9月16日)
  近日、パオ族のミャンマー人と東京で会う。私は今まで多くの少数民族の人々と会ってきたが、パオ族はたぶん始めて会う少数民族だ。ミャンマー人は大きく分けると8民族からなるといわれているが、言語などからすると135の少数民族に分類できるらしい。パオ族はミャンマーの東部シャン州のインレー湖周辺に住んでいる民族で、黒か紺色の服を着て、タオルを頭に巻いている。彼らが住んでいる地域には、カックパゴダというバガン王朝時代に建てられた2500基ものパゴタが林立しているので観光地としても有名だ。彼らはみな熱心な仏教信者である。私が興味があるのは、このような少数民族が、軍事政権に対してどのように考えているのか、そして将来どのようなビルマを夢見ているのかという点だ。もしかしたら、パオ族による自治独立を考えているのかしら? そのとき近隣のシャン民族との軋轢はないのかな?

2008年9月15日月曜日

(127)条約難民って なんだ? 

(2008年9月15日)
  ビルマ人の難民申請者は、2005年は212人、06年は626人、07年は500人、そして今年は1000人近くに増えるのではなかろうか? 今年増える理由の一つとして、昨年秋の僧侶、市民の平和的デモ行進に対する軍政側の発砲事件が上げられる。もちろん長井カメラマンの射殺事件も影響していよう。①軍事政権による政治体制に不満があって日本で難民申請する人、あるいは、②ビルマ国内での戦火、内乱、風水害などを理由に、日本に来て難民申請する人、このようなビルマ人が多いようだ。しかしこれらの理由は、①②共に条約で定める難民とは認められないと思う。条約難民とは、あくまでも人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員、政治的意見に基づく迫害を受ける恐れがあることが要件だ。①②は拡大マンデート難民といわれ、条約難民とは異なっている。在日ビルマ人は理解してるかしら?

2008年9月14日日曜日

(126)風穴広がるか『難民鎖国』

(2008年9月14日)
  今日の朝日新聞に「風穴広がる難民鎖国」との表題で、日本の難民受け入れ問題が大きく出ていた。就労を禁止されたまま認定審査に2年間かかり、その後やっと在留特別許可が得られたビルマ人の実情が掲載されていた。国連難民高等弁務官事務所の発表では、07年末現在で、世界に1140万人の難民がいるという。難民認定数は日本が41人に対し、米国17979人、フランス12928人、英国7866人、ドイツ7197人と続く。一方、難民保護数は米国の17979人を筆頭に、スエーデン、フランス、イタリア、英国がいずれも1万人以上受け入れている。日本の難民の審査期間はいままで平均600日であったが、法務省は今後は6ヶ月を目指すと明言した。また、難民受け入れに関し、諸外国では、生活費の支給や、言語の教育に力を入れている。さて日本は難民鎖国に風穴を広げることができるのだろうか?

2008年9月13日土曜日

(125)スーチーさんのガンバリ勝ち?

(2008年9月13日)
  このブログでは、何回もスーチーさんのハンスト問題を取り上げたが、昨日の朝日夕刊に、「スーチー氏に軍政側 『譲歩』案 食料拒否受け」と出ていた。スーチーさんの軍政側に対する抗議内容は「軟禁に法的根拠がない」、「使用人の外出制限」、「医者の往診回数の減少」などであったが、今回の軍政側の回答は、「英国に住む息子からの手紙の受取りや英文雑誌の講読」、「使用人2人の行動の自由」など。ちょっと食い違っているようだがまあ軍政側が国際世論に配慮して一部譲歩した形。これを受けてスーチーさんは食料の受け渡しに応じる考えを示しているという。しかし肝心の「軟禁」状態の解決はなく、更には「国連への抗議」すなわち軍政側が作った憲法案を国連が認めたがごとき発言に対する解決はなされていない。東京でもスーチーさんのためのハンストが続いており、もう少し頑張って欲しいと思うが。

2008年9月12日金曜日

(124)今日は一日二善

(2008年9月12日)
  今日はA警察署に11時に行くことになり、JR水道橋駅で乗り換えた。と、そこに欧米系の外国婦人がホームを右に行ったり左に行ったりして思案の様子、ちょっと気になったので「何かお困りですか」と聞いてみた。水道橋の東口はどちらかというので教えてあげたら感謝された。後で考えると、日本語が通じたから良かったものの、もし通じなかったらどうなったかしら。このあと地下鉄三田線に乗り換えてA警察署に到着、留置中のビルマ人男性の保証人と一緒に彼と面会し、釈放のための30万円を差し入れた。本人がこのお金を持って検察庁の担当検事のところへ持っていけば万事終了するはず。ただ運悪く明日から3連休なので、彼が正式に自由になれるのは来週火曜日、でも何とか彼を助ける目処はついた。帰途食べたランチがとても美味しかった。今日は二人の外国人にいいことをしてあげたので気分が快適だ。

2008年9月11日木曜日

(123)独裁国トップ2人の病状は?

(2008年9月11日)
  今日の朝日には北朝鮮の金正日総書記の健康不安説が大きく報道されていた。なにぶん閉鎖された独裁国家だから事実は分からない。一方、ビルマでも同じことが起こっている。野党NLDのスーチー書記長の動向が一切分からなくなってきた。このため9月8日から東京のビルマ人民主化活動家5人が国連大学前で72時間のハンストを実行し、今日から新しい6人がさらに72時間ハンストを続行するという。ハンストの目的は「国連総長および日本政府は直ちにビルマを訪問し、スーチーさんの健康状態と真意を確認して欲しい」というもの。このブログでもたびたび取り上げたが、今朝の朝日には、このハンスト決行の記事も掲載されていた。アジアの2つの独裁国家の政治家トップの健康状況が分からないという、奇妙なニュースが共に消化不良のまま重なり合った。私は今しばらくスーチーさんの動向に注目しよう。

2008年9月10日水曜日

(122)今日は嬉しい日

2008年9月10日)

  昨日は警察訪問で暗い気持ちだったが、今日は一転して嬉しい日だ。私の親友、ビルマ人のA君が品川入管から29日ぶりに仮放免で出所する日だ。私は時にそわそわする日があることに気がついた。12時に入管に入り、先に来ていたBさん、Cさんに面会のほうをお願いし、私は1時に6階の仮放免担当課、更に4階の会計課で書類に記入後、田町の指定銀行までタクシーを飛ばし(片道千4百円)、保証金30万円を支払った。銀行で証明書にハンを貰ってからまたタクシーで戻った。30分ほど待った後、私たち3人の前に元気なAさんが現れ、皆で硬い握手を交わした。彼はこの1ヶ月、食欲がなかったというけど、体重は83Kgもあり、サッカーやトランプなどで部屋の各国の人たちをリードして、インターナショナルな交流を続けたようだ。彼は疲れてると思うが、明日さっそく同室の皆に挨拶するため、面会に行くという。

2008年9月9日火曜日

(121)まずまず合格 A警察署

(2008年9月9日)
  今日はひょんなことから軽犯罪を犯し、3日前から留置されているビルマ人男性に面会するため、都内のA警察署に出向いた。ここは5年前には頻繁に通った思い出があり、私にとって久し振りのA警察署訪問だ。私と顔馴染みだった受付の担当官の姿はもちろんない。今回の受付担当者の態度は5年前と同じく丁重でありホッとする。次に応接室で担当刑事に会った。40歳ぐらいの係長だ。こちらが訊かないのに、事件の内容を明るい口調で説明しだした。問題点を要領よく話してくれる。いままで刑事から事件の説明を受けたことは数回あったが、いずれも我々市民に接する態度は良好といえる。次に面会室に入る際の受付だが、5年前と異なり、年配の婦人警官がいて私を丁重に迎えてくれた。20分間の面会時、同席していた白髪の担当官も威圧感がなく感じが良い。我々市民と接触するA警察署はまあ合格点だ。

2008年9月8日月曜日

(120)20年前の今日 ビルマでは

(2008年9月8日)
  ここ何回かスーチーさんのハンスト問題を同時進行形で論じてきた。スーチーさんのハンストの狙いはいまだ不明確であるが、結局の所、国連からの真の協力を期待し、かつ、軍政への不満、特に自身の自由を訴えているようだ。このようなスーチーさんの行動に同調して、東京渋谷の国連大学前で5人のビルマ人が、今日(9月8日)から72時間のハンストを実施するとのニュースが飛び込んできた。9月8日といえばいまから20年前、スーチーさんが時のマウンマウン大統領に対して、複数政党制の樹立を訴え、回答がなければゼネストに突入するとした日である。当日の日本の各紙は大きな見出しで、「国軍に大きな動揺、今日最大のゼネスト」、「国軍が騒乱誘導」、「再び大規模流血も」、「軍、警察に発砲命令」、「日本人家族帰国へ」、「首都で数十万人集会」など。軍事政権はこの20年間、何も学習していないようだ。

2008年9月7日日曜日

(119)悩む 祖国への送金

(2008年9月7日)
  毎週日曜日、朝日新聞には「国を開く」という欄があり、今日は「祖国への送金、正しい道は」というもの。送り手の意見として、ビルマ人のMさんが登場している。Mさんは89年に来日、95年にビルマ雑貨店を都内に開き、そこで在日ビルマ人から頼まれたお金を本国に送っていたが、07年秋に銀行法違反で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決が確定した。手数料は9千円につき2百円で比較的安い。この件に関し弁護士は、「特にビルマ人のように庶民が合法的に送金する手段がほぼ道を閉ざされているケースもあり、犯罪者組織と決め付けるのは的はずれだ」といっている。また、貧しい国から来日して、母国に送金することは、結果的には「途上国に貢献」することになる。一方、日本の銀行も送金ビジネスの研究を始めているようだ。ビルマにいる家族に合法的かつ安く、安全に送金できる方法を早く考えて欲しい。

2008年9月6日土曜日

(118)ハンスト問題 やっと朝日に

(2008年9月6日)
  今朝の朝日新聞に「スーチー氏の食料受け取り3週間拒否、軍政に不当軟禁と抗議」との見出で、前々から懸念していたニュースが大新聞に出現。我が家では朝日新聞とテレビしか見てないので、ほかの新聞報道は分からない。このブログ(110)と(115)で、インターネット情報を紹介してきたが、今朝の新聞と内容がどうも違う。インターネット情報では、スーチー氏が国連の対応を批判して食料の受け取りを拒否との主旨だったが、今朝の朝日では、自宅軟禁に法的根拠がないなど不当軟禁を軍政に抗議するためだという。どちらが真実なのか、あるいは、どちらも真実なのか、スーチー氏に面会した顧問弁護士がもし内容を話せば刑務所行きという過酷な状況下での報道、我々も心して、紙面の背後にある事実を掴まなければならない。ともあれ、自宅にある食料を細々と食べているスーチー氏は一応元気なようだ。

2008年9月5日金曜日

(117)Myanmar Focusって?

(2008年9月5日)
  いま手元に「Myanmar Focus」という日本語で書かれたミャンマー経済情報雑誌がある。A-4判で20頁、発行元はNPOミャンマー総合研究所(略称MEMI)、Vol.15とある。内容を見ると、どうやらサイクロン被害の特集のようだ。在日ミャンマー大使館ウ・ミン・トン公使が、サイクロン被害状況、復興状況に触れており、外務省東南アジア第一課主席事務官と、ヤンゴン在住商社マン、および「みんがらネットワーク」の会報でも活躍中のチートゥシェインさんが各々の立場でサイクロン問題を書いている。私が興味を引いたのは、被害の甚大さと共に、その救援、復興状況だ。国内、国外からの支援体制が次第に整っていき、特に民間ボランティア団体の献身的努力がよく読み取れた。私が入っている「BRSA」からの支援金70万円をはじめ、「ミンガラ日本語教室」や多くの友人たちからの支援金も大いに役立っているのだろう。

2008年9月4日木曜日

(116)品川入管でミンガラバー

(2008年9月4日)
  私は、入管に収容されているビルマ人への面会活動を続けて既に12年、十条入管、品川入管、牛久入管と変わり、牛久にビルマ人がいなくなったのを機に、品川入管に戻ってきた。昨日も品川入管を訪問したが、先週入ったばかりの人も、4か月ぐらい過ぎた人もいる。誰が収容されているのか分からないので、面会の都度、新しい収容者の名前と部屋番号を聞きだす。もちろん初対面の人ばかりだが、幸い日本に長く滞在している人が多く、日本語での会話であまり不自由は感じない。彼らの最大の希望は当然のことながら早く外に出ることだが、我々の力ではどうすることもできない。1回目の収容者は大体4ヶ月前後、2回目の収容者は1ヶ月前後収用されている。取調べや、必要書類を提出した後の時間は、寝て、食べて、ごろごろしてるぐらいだ。その間の彼らの衣食住の経費はすべて我々の税金だ。空しさを感じる。

2008年9月3日水曜日

(115)ハンスト まだ不確実??

(2008年9月3日)
  最近インターネット情報として、8月16日以降のスーチーさんのハンスト事件が錯綜している。すでに2週間経過しており、もし事実なら大変な事態だ(ブログ110参照)。日本の新聞もテレビも取り上げないので、私は一部の人にはガセネタらしいと伝えてしまった。しかしそうでもないらしい。昨日のインターネット情報によれば、スーチーさんの顧問弁護士チーウイン氏が9月1日にスーチー氏の自宅を訪問、スーチー氏は「少し痩せたけど元気です」と話したという。ハンストを行っているのか否かは同氏はコメントを避けたという。面会を許されているのは、顧問弁護士と主治医だけで、政治的メッセージを流すと、逮捕、投獄される。一方、東京では9月1日から5日まで国連大学前で、国連事務総長がスーチー氏を訪問するよう要請行動を開始している。NLD側の情報戦略かも知れないが、スーチーさんよいつまでもお元気で。

2008年9月2日火曜日

(114)まさか またか

2008年9月2日)
  今日はこの話題を書かざるを得ない。安倍首相に続いての福田首相辞任問題だ。情けない! 2代続けていとも簡単に投げ出すなんて! 我々世代が築きあげた日本はこのまま凋落していくのか? 誰に文句を言えばよいのか。自民党なのか? 公明党なのか? 小泉元首相なのか? 民主党小沢代表なのか? それとも・・・・? まあまあ怒りはこのくらいにして、福田首相はミャンマー問題にどのように発信しただろうか。まず5月10日には、ミャンマーの軍事政権がサイクロン被災者への人的支援を拒否している問題について「国連にもっと積極的な介入を」と訴えた。7月9日のサミット総括説明では、「ミャンマー当局は国際援助に対し、サイクロンの被害地域に搬入される援助の透明性と高めること、ミャンマーが正当性を有し、民主的な文民政府への平和的な移行を促進すること」を求めた。こんなところか。

2008年9月1日月曜日

(113)内容が豊富 この雑誌

(2008年9月1日)
  いま一冊の雑誌を手にしている。「みんがらネットワーク会報 26号」だ。B-5判69頁、ビルマ関連の雑誌で日本語、ビルマ語で書かれており、表紙も内容も素晴らしい。気になっていたサイクロン被災地の復興の様子や、最近のヤンゴンの状況がよく分かる。また、いまの日本の様子を30年前に来日した時と比較して、我々日本人の気がつかない視点から観察していて面白い。最近ミンガラ日本語教室では日本語能力試験の準備に忙しいが、外国人のための日本語試験について6頁に渡り詳述しており、関係者も助かるだろう。日本で生まれた在日ビルマ人の幼い子供に親がどうやってビルマ語やビルマ文化を教えるのかという悩みも聞こえてくる。数多くのエッセイも楽しい。この雑誌は、98年6月に創刊され、途中休刊の時期もあったが、日本人、ビルマ人メンバーの努力で10年続いた。興味のある方はコメントを!

2008年8月31日日曜日

(112)忘れてはいけない 惨害

(2008年8月31日)
  今朝の朝日新聞朝刊に「飢え 襲撃 白衣の苦悩」という見出しで第2次世界大戦中の日赤報告書の内容が発表された。その中にビルマ関係の記事があった。終戦の前年、44年4月ビルマ・ラングーンの北30キロの町の病院に、従軍看護婦、和歌山490班23人が配属された。その報告書には献立表があり「12月5日:朝食・油揚汁、昼食・ポークカレー、夕食親子丼」と余裕のある献立が並んでいた。しかしこれが最後の報告書で、45年1月に北約150キロの最前線に移り、4月には東のタイへの移動を試み、山脈を越え、大河を渡った。だが13人は敵の銃撃にあったり、急流に飲み込まれて死亡、2人は自ら命を絶った。生き残ったのは8人だけ。このほかにフィリピン、満州、パプアニューギニアなどの従軍看護婦の悲惨な状況が記されている。戦後63年が経過したいま、戦争の惨害を忘れてはいけない。

2008年8月30日土曜日

(111)羽ばたけ 平和の翼

(2008年8月30日)
  知人の在日ビルマ人から「平和の翼ジャーナル」という雑誌をいただいた。A-4判20頁で、特徴としてはビルマ語の部分もあるが、大部分が日本語で記載されている。明らかに日本人を主対象にしたビルマ人編集の雑誌である。ビルマ語の読めない私にとっては嬉しい限りだ。その12頁に私へのインタビュー記事がきれいな日本語で掲載されており、タイトルは「ビルマ難民たちへの補助金200万円を出した西田さん」というもの。なんとも面映い。さっそくBRSAの日本人メンバーに配り、牛久の会の皆さんにも郵送した。私たちのミンガラネットワークでも、10年前から日本語とビルマ語両方で書かれた雑誌「みんがらネットワーク」を発行しており、すでに26号となっている。これからも、日本語・ビルマ語併記の雑誌が出ると、両国民の絆がますます堅いものになるだろう。両国民の希望の架け橋を目指し羽ばたけ平和の翼。

2008年8月29日金曜日

(110)スーチーさんが危ない?

(2008年8月29日)
  ここ数日、スーチーさんに関する重大情報がインターネット上に飛び交っている。8月16日以降スーチーさんが食料の受け取りを拒否してるというもの。スーチーさんへの食料は毎日NLD関係者によって届けられているが、8月16日以降は受け取りを拒否した模様。その理由として、国連が2年後のビルマの選挙を公正に行うようにと、あたかも軍事政権側が作った新憲法を是認するような態度を示したことへの反発らしい(本ブログ105参照)。すでに相当な日数が経過しており、健康が非常に危ぶまれている。なお、スーチーさんはビルマの人々の自由のために我々は命を犠牲にしなければならないと述べているとの報道もある。アセアンの国会議員によるミャンマー議連では国連事務総長の早急なビルマ派遣を要望している。もしスーチーさんが倒れたらビルマの民主化活動に大打撃を与えるであろう。正確な情報を!!

2008年8月28日木曜日

(109)不法残留者をなぜ助けるの?

(2008年8月28日)
  昨日知人とコーヒーを飲みながら雑談した。その中で日本の法律を犯した不法残留者をなぜ助けるのかという質問があった。不法残留者でも、在日ビルマ人の場合は難民申請すれば、強制送還は原則なく、日本に合法的に在留できる。難民認定には1~2年かかるが、入管が難民または在留特別許可(定住・特定活動)を認めればビザは取得できる。問題は不法残留者として収容されてから難民申請した場合だ。この場合は、偽装難民の疑いが濃いので、数ヶ月から1年前後も入管に収容され、かつ、ビザをもらえる可能性はきわめて低い。このような場合、裁判で訴えるか、2回目の難民申請をするしかない。難民申請したため母国には帰れず、日本ではビザがなく法的に不安定で、劣悪な暮らしを余儀なくされる人が、もし病気にでもなったら誰が助けるのか? 人道的立場で、BRSAはじめ我々有志の出番だろう。

2008年8月27日水曜日

(108)日本語を学ぶ場 貧弱?

2008年8月27日)
  日曜日の朝日新聞に「国を開く」という欄があり、今週は「日本語を学ぶ場 貧弱」との見出しがついていた。在留外国人に日本語を教える場として日本語学校と日本語教室がある。日本語学校の主な目的は大学や専門学校への進学であり、現在4万4千人が在籍している。一方地域の日本語教室の主な目的は、日本での生活であり、学習者は4万1千人余といわれている。しかしプロの日本語教師は増えていないようだ。最初のころは月収4~5万円、夏休み中は無収入であり、社会保険もない。プロの教師の3分の2は非常勤であり、平均時給は1889円、給料が低いため生活を維持するのが大変だという。結局将来の見通しが立たず、途中でやめる教師が多いようだ。私たちのミンガラ日本語教室は生徒がすべてビルマ人という特色があり、ベテラン教師も常時20人いて、皆ボランティアだが長く続いている。

2008年8月26日火曜日

(107)アノワードって?

(2008年8月26日) 
  「U MINGALAR」という言葉について、検索サイトを探しているうちに、アノワード(ANOWORD)という言葉に初めて接した。アノワード?? 一体なんだろう。そこにはTBSニュースの紹介と並んで「U MINGALARのつぶやき」の中の幾つかが紹介されていた。クリックすると確かに私の打った文章が現れて来る。結局アノワードとは、検索サイトの一種で、グーグルやヤフーのものと同じようなものであるらしい。自分が打ったブログが世の中に広く紹介されるということは、作者にとって、とても嬉しいことだ。一方、ブログ本文にもコメントが常時見られるようになった。閲覧者のカウンターも恐る恐る8月4日に付けてみたが、以降今日までに510件以上となった。そういえば、初対面の人から「ブログ見てますよ」との声もかかって来る。そのせいか最近は私宛にビルマ関係の雑誌からの取材が立て続けに3件も来た。ブログも 加油!

2008年8月25日月曜日

(106)8月度役員会 BRSAよ加油!

(2008年8月25日)
  昨日は午前中ミンガラ日本語教室に顔を出し、日本に来たばかりで、日本語の分からない親子にアイウエオを教えた後、数人の生徒と雑談、1時10分に出発して巣鴨の大滝邸へ。そこでBRSAの十数人のメンバーと一緒に恒例の役員会に参加。主な議題は支援対象者への支援金支給方法、ささやかな予算の中から、希望者全員への仮放免保証金(30万円)の全額支援は無理ということは分かっているが、何とかして少しでも支援してあげたいという熱意から、実にいろいろな意見が出された。助けてあげたいが予算不足という現実に会長の顔には苦悩の色も。日本人とビルマ人、言葉の通じないもどかしさも双方に見られたが、こういう議論を続けることで、この会は発展していくだろう。折りしも昨晩は北京オリンピックの閉会式、確かに中国のオリンピック運営はすばらしい。比べることは無理としても、BRSAよ 加油!

2008年8月24日日曜日

(105)アレレ! スーチー女史と国連

(2008年8月24日)
  今朝の朝日新聞を見てアレレと思った。その要旨は「ガンバリ国連特使、外交手詰まり スーチー氏と軍政トップに会えないまま出国」というもの。国連特使が軍政トップに会えないことは以前にもしばしばあったし、また軍政側の強権によってスーチー女史と面会できないこともあった。今回もそうかなと思って読み出すと、どうも違う。今回はスーチー女史のほうが面会を拒否したのだ。この原因は、2年後に総選挙を実施し独自の「民主化」の既成事実を急ぐ軍政側の方針に対し、国連側が「公正な実施」を求めたため、スーチー女史の目には軍政の「民主化」を国連が認めたと映ったようだ。ビルマや北朝鮮などの独裁国の外交手腕はなかなかのもの。スーチー女史は自ら国際社会につながる窓口を閉ざした格好だ。外部の情報が遮断され、孤立状態のスーチー女史の判断は、今後どのような結果とつながるだろうか?

2008年8月23日土曜日

(104)いろいろな疑問

(2008年8月23日)
  私は品川入管に行くと、ときどき係官に質問をぶつけている。先日の訪問時には、「難民」での定住者と、「在特」での定住者の違いを聞いてみたところ、永住の申請をするとき「難民」のほうが配慮されるとのこと、これは納得しやすい。次に難民申請者が、「在特」を取得した後「難民」を取得することはあり得るかと聞いた所、この二つの決定は、全く別の判断で決まるので、あり得るとのこと。この答えにはびっくりした。私は「在特」というのは「難民」とは認められないけれど、人道的配慮で在留を認めると解釈していた。しかし同一人が、「在特」認定と、それに相反する「難民」認定を同時に取得できるのだ。今後もよく勉強していきたい。次に収容後難民申請した場合、収容期間はどのぐらいなのか? 昨年までは1年前後だったと思うが、今年は4ヶ月前後、短縮されるのは大いに結構、でも、恣意的決定はそろそろ・・・・。

2008年8月22日金曜日

(103)この差入 喜ぶかな?

(2008年8月22日)
  私は毎週水曜日に品川入管を訪問している。この入管に全部で何人ぐらいの外国人が収容されているのか全く分からない。一方、面会者は1日2~300人ぐらいか、多くの人は何かしらの差入品を持ってくる。それとなく観察していると、その多くが衣類や、書籍、化粧品などで、現金も少なくない。なお食品は差入禁止である。私の差入品は皆とちょっと違う。収容者が難民申請中で長期間(4ヶ月前後)滞在しているということもあり、もっぱら日本語教材を差入れている。日本語をほとんど話せない人にはアイウエオクラスの教材を、少し話せる人には4級~2級の教材だ。ときどき日本語能力試験の問題も差入れ採点してあげている。勉強の好きな人はとても喜ぶが、そうでない人は関心をあまり示さない。でも、日本で難民を申請した以上ぜひ日本語を勉強し、日本人社会に溶け込んで欲しい。彼女らの未来のためにも。

2008年8月21日木曜日

(102)日本も考えて!アムネスティ政策

(2008年8月21日)
  不法滞在者は17万4千人いて、政府が掲げた不法滞在者半減策も達成不可能と思われる【本ブログ(37)参照】。そこでいま政府が考えているのが、入国段階でのチェックの強化で、空港での両手人差し指の指紋採取。最近7ヶ月間で5百人余が入国拒否された。また、パスポートの代用に使っていた外国人登録証の管理はいままで各自治体で行っていたが、今後は法務省(入管)が各種情報を記録したICカードに切替えるので、管理の一元化が進む。不法滞在者はこのカードを取得できないので、日本滞在は極めて難しくなる。これを解決するには、帰国するか、難民申請するか、在留特別許可を得るかの方法しかない。しかし途中からの難民申請は認められにくい。長年日本社会に溶け込んでいる優良外国人は、不法滞在であっても日本政府の力で何とか助けてもらえないか。欧米の「アムネスティ政策」のように。

2008年8月20日水曜日

(101)仮放免の申請と認定

(2006年8月20日)

  昨日に引き続き今日も忙しかった。仮放免に関連して二つの事務処理が偶然重なってしまったのだ。新規の申請と、以前申請した人の仮放免認定の二つだ。不法残留等で入管に収容された後に難民申請した人が入管を出るには仮放免申請しかない。もし申請しないと理論的には延々と収容されることになる。申請内容のポイントは、出たら法律を守るということと、保証人がそれをチェックし、保証金(現在は30万円が多い)を支払うというもの。A君については昨日もこの欄で記載したが、今日は品川入管で、A君と保証人(私)が雁首を揃えて出頭、30分後無事仮放免の認定書をもらって万事終了。一方、新規に仮放免を申請したB君については、10枚ぐらいの仮放免申請書を揃えて提出する。以上2人の仮放免関連の仕事を終えた後、収容されている7人に面会、皆元気だった。入管は収容しない方法を考えて欲しい。

2008年8月19日火曜日

(100)しっかり踏んで! 日本の大地

(2008年8月19日)

  今日はなんとなく嬉しい日。約4ヶ月間入管に収容されていたA君が仮放免になる日なのだ。私は保証人として彼の叔母さんと一緒に牛久入管を訪れると、玄関前でBRSAの大瀧会長が待ち受けていた。早速、私は2階の総務課で書類記入後、大瀧会長の運転で龍ヶ崎の常陽銀行に向かった。タクシーだと往復6千円かかるが、今日は大瀧会長のサービスなので、嬉しい。常陽銀行で仮放免の保証金30万円を支払い、再び牛久入管へ。総務課で銀行からの領収書と引き換えに保証金受領書をもらう。その後待合室で待つこと40分、A君が元気な姿を見せた。ここで叔母さんや大瀧さんと固い握手を済ませて記念撮影、これで今日の儀式は終わる。なお明日もA君と一緒に品川入管に行き、そこで始めて仮放免が正式に認可される。A君は成田空港で難民申請したので、日本の大地は始めてだ。しっかり踏んで欲しい!


2008年8月18日月曜日

(99)あの目がいまも 毎日新聞ひと欄

(2008年6月18日)
  親友K.A.さんから8月16日の毎日新聞のひと欄に、「ビルマ民主の声(DVB)東京特派員」のティンアウン氏(在日ビルマ難民)が紹介されていたというコメントをいただき、それに記事全文が紹介されていた。我が家では朝日新聞なので、とても参考になった。記事の内容は以下のとおり。88年9月のヤンゴンでの学生デモのとき、すぐそばにいた友人が兵士に撃たれ、訴えるような目で倒れた。自分は逮捕を恐れ91年に来日、01年から前記の特派員の仕事を始めた。自宅は6畳一間、朝4時に起きてビル清掃の仕事をした後、午後3時まで飲食店で働く。記者を始めるのが夕方以降、国会議員や在日ビルマ人を取材、編集してノルエーの本部にメールで送る。報酬は1ヶ月3万円。「民主化に湧く国民の声を取材するまで諦めない、死んでいったあの目がいまも私を見つめている」と。 私も彼から一度取材を受けた。

2008年8月17日日曜日

(98)女子マラソン スタート

2008年8月17日)
  今朝のテレビでは、北京オリンピックの女子マラソンのスタート風景を放映していた。色とりどりのユニフォームを着用した各国の選手が百人近くいただろう。しかもほとんどがへそ出しルック、まさに平和の祭典といった感じ。日本選手はと気になったが、へそはナイナイ。これだけの各国選手が、一緒に走る光景を見て、世界平和の大切さをひしひし感ずる。もちろん北京にはかなわないが、実は私も毎週多くの国の人々と話をしている。場所は品川入管の面会待合室。中国、韓国、フィリピン、パキスタン、イラン、そしてビルマ人、各国の人々が、親戚や友人の安否を心配して面会に来ている。彼らは慣れない日本のお役所仕事にしばしば戸惑っているので、書類の書き方などを教えてあげている。私は入管面会はお手の物、自然と教えたくなってしまう。もちろんビルマ人を見つけると、進んで話しかけている。平和よ 続け!

2008年8月16日土曜日

(97)30年前の陸上選手たち

(2008年8月16日)
  今から30年前、私は中国南部を旅行した。目的地は山水画を髣髴させる桂林、璃江下り。当時中国人は青色のいわゆる人民服と人民帽をほぼ全員が着用しており、人だかりはまさに青一色、そしてポケットには皆赤い表紙の毛沢東語録を持っていた。そんな時代だった。桂林に行く途中、広州のあるホテルに宿泊した。そのホテルで出会ったのが、ビルマの陸上選手たち、男女10数人いた。この広州で南アジア陸上競技大会があったという。何しろ底抜けに明るく人懐こい若者たちで、私を選手達の部屋に招き入れ、身振り手振りで歓談した。どうやら競技は全員終わったらしく、砲丸投げの選手(身振りで推測)は頭上に3本指を突き出した。3位だったのかしら。この出会いが、私とビルマ人との最初の触合いだった。今日、オリンピック陸上もいよいよ始まった。30年前のビルマの選手達は、今頃テレビを見ているかしら。

2008年8月15日金曜日

(96)「終戦」と「戦争続行」

(2008年8月15日)
  今日は63回目の終戦記念日、私は当時旧制中学4年生だった。当日朝、隣のご主人(放送局勤務)から日本が負けた旨の噂を聞いた。その数時間後、ラジオから玉音放送が流れ、敗戦を実感した。そのとき私が考えたことは今でも明確に覚えている。泣きながら「自分のガンバリが足りず申しわけない」と。私がいくらガンバってもどうしようもないことが分かっていたのに、何故かそんな気持ちだった。以後、食べ物がみるみるなくなり、主食は芋やかぼちゃ、味噌汁の具には芋の葉っぱが続いた。一方、今朝読んだのは、ビルマの少数民族カレン族の殉難者の日に出されたカレン民族同盟議長のメッセージ。この中には政府軍に降伏するなと訴え、自分達の将来は自分達で決める権利を獲得し、カレン州の自治と連邦国家の設立を目指して、民族が一丸となって政府軍と戦おうというもの。ビルマに平和は来ないのか?

2008年8月14日木曜日

(95)日本の先住民族問題

(2008年8月14日)
  3日前の新聞に「アイヌ政策来夏に提言 有識者会議初会合」の見出しで、アイヌ民族の尊厳回復などを議論する政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」の初会合の概要が掲載されていた。アイヌ民族の代表者は、「これまでアイヌの人たちが辛酸をなめ、差別され、現在でもなお、そういう思いでいる人がいるということを、ぜひ認識していただきたい」と訴えている。また6月8日の中央日報(韓国)は、日本議会が「アイヌは先住民族」との見出しで、日本国会がアイヌに対して総合支援対策を進める決議文を採択したと論じている。その中で、「多数のアイヌ人が、差別され、貧窮を余儀なくされた歴史的事実を厳粛に受け止め、アイヌ民族を独自の言語、宗教、文化を有する先住民族として認めなければならない」と強調している。ビルマの少数民族問題を論ずるには、まずアイヌ民族を知る必要があろう。

2008年8月13日水曜日

(94)いろいろあった一日

(2008年8月13日)

  昨日はいろんなことがあったなあ。朝近くの津田沼中央総合病院で2ヶ月ごとの診察を受ける。特に問題はなく、恒例の胃腸薬をもらった。と、そのとき携帯のメールが鳴った。ビルマ人のA君からで、品川入管にいま収容されたので保証人になって欲しいとのこと、すぐOKと返信。このため病院から出て、習志野市役所で住民税証明書を、千葉西税務署で所得税証明書を、習志野市西部事務所で住民票を、千葉銀で残高証明書をもらった。家に着くと電話が鳴り、牛久入管に収容されていたB君が仮放免許可になったとのこと、またまた千葉銀に出向き30万円を引き出し、B君のおばに連絡、牛久行きの時間を調整した。この日はメールも多く、その中にややこしいのが1件あっててこずった。夕方我が屋を塗り替える塗装屋が来たが、肝心の色が決まらずイライラ。暑い1日だったが、もちろんリンピックもときどき観戦。

2008年8月12日火曜日

(93)イギリスからの2つの意見

(2008年8月12日)
  けさメールをチェックしていると、ビルマに対する日本の姿勢に、イギリスから2件の意見(苦情?)が入っていた。その一つは、「ビルマの軍事政権を支える保険産業の実態」と称する英国ビルマキャンペーンからの報告書である。内容は世界の保険会社が軍事政権に投資を保証し、軍政を財政的に支援しているというもの。その保険会社に、日本の有名な保険会社3社も入っているという。他の一つは、英国保守党人権委員会副議長のベネディ・ロジャーズ氏の論文で、「20年間ビルマ国民を裏切る日本の政策」という題で、日本政府は自らのビルマ政策を見直すと同時に、軍政への支援をやめるよう中国政府に働きかけるべきではないか。そして日本国民は、日本政府の道徳観を呼び覚ますよう、呼びかけて欲しいという。このような意見は、私も13年間何回も聞いており、一つの方策としてBRSAを立ち上げたのだが。

2008年8月11日月曜日

(92)ビルマ人支援+会長支援

(2008年8月11日)
  BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)は、山あり谷あり、しかし力強く発展している。会員各位、特に役員のご努力で、立派な団体に成長、8月8日に行われた炎天下の8888デモにも会員が積極的に参加するまでになった。このような行事に本来は私も参加すべきであるが、何しろ80歳の老人、健康面を考えると若いメンバーに頼るしかない。また、夜の会合にも不安があり、ここ5・6年はすべてお断りしている。幸い大瀧会長は取手在住にも関わらず、牛久に、巣鴨に、品川に、縦横に飛び回って、ビルマ人の支援に全力を尽くされている。困っているビルマ人から支援を頼まれたときは、誠心誠意話を聞き、的確に処理している。ビルマ人を常に信頼している会長の姿勢はまことに尊いものがあり、ビルマ人役員・会員は是非会長を今まで以上に支えて欲しい。そして在日ビルマ人諸団体の中で模範的な団体になろうョ。

2008年8月10日日曜日

(91)少数民族問題 中国、ビルマ そして

(2008年8月10日)
  オリンピックの開会式のなかで、それぞれの民族衣装で着飾った中国の55の少数民族の子供達が、きれいなハーモニーで、オリンピック賛歌をギリシャ語で歌っていた。少数民族の子供達が、一つにまとまってオリンピックのために歌い上げる姿はすばらしい。しかしながら、数多い少数民族がまとまっているとは到底考えられない。チベット族への弾圧、新疆ウイグル自治区のトルキスタン・イスラム党の不穏な動きなどが目につく。ビルマ同様、中国でも少数民族問題は国として大きな政治問題だ。ビルマでも多くの少数民族がそれぞれ自治を狙っている。一方、オリンピック開幕と同時にグルジア軍が南オセチア自治州に侵攻し、逆にグルジアの首都トビリシをロシア軍が爆撃、世界は一挙にきな臭くなってきた。ソ連時代、私はトビリシを旅行したことがある。両国は民族対立に基づく戦闘を即時中止すべきと考える。

2008年8月9日土曜日

(90)もう一つの8月8日

(2008年8月9日)
  今朝もいつもどおり7時に起きたが、眠い、暑い。たぶん皆さんも同じだろう。現地時間08年8月8日の8時8分から始まったオリンピック開会式のテレビ中継に見入ってしまったのだ。204カ国、一万人の選手が参加した世紀の祭典は、実に壮大、見事としか言いようがない。中国の威信をかけたイベントは成功裏に終わり、まずは拍手を贈りたい。私はビルマ選手団が入場行進をした所をカメラで撮影しておいたが、うまく写っているかしら。選手は8人だったが、健闘を祈る。ところで今朝の朝日新聞は、さっそく「もう一つの8月8日」という社説を掲載した。その後段に「北京五輪に沸く中国は、ミャンマー軍事政権に最も大きな影響力を持つ。(スーチーさんらとの)対話を実現させるため、責任ある大国として役割を果たしてもらいたい」と。世論はオリンピック一辺倒だが、中国はぜひ隣国ビルマの暗雲を取り除いて欲しい。

2008年8月8日金曜日

(89)悲しき合体!二つの8888

(2008年8月8日)
  テレビではオリンピックが開催されるきょう8月8日8時8分を8888として大々的に取り上げている。中国では8という数字は縁起の良い数字とされている。あと10時間も経てば、たぶん私もテレビの前に陣取り、4年に一度の祭典というか、中国式の8888の瞬間を見入ることになろう。一方、きょうの朝日新聞には、「ミャンマーの8・8 蜂起20年 弾圧なお 元学生ら帰国できず 軍政の崩壊信じる」との活字が躍っていた。その横には、ブッシュ大統領夫人がタイのメソットにある難民のための病院を視察する写真もあった。もう一つ、インターネットでの世界各国のビルマ人活動j家への呼びかけには、「中国はビルマ軍事政権への最大の支援国であり、各国の中国大使館前で軍政支援の停止を求める抗議集会を開こう」と呼びかけている。ビルマと中国、2つの8888が、奇妙なことに、こんなことで合体することになった。

2008年8月7日木曜日

(88)居心地は? 品川入管

(2008年8月7日)
  昨夜のテレビで品川入管の収容施設の内部が放映された。居室内部の放映なんて初めてではないだろうか?第一印象は「きれいだ」、「広い」。中央に大きなテーブルがあり、各人の持ち物は、オープンな棚に整然と並んでいた。数少ない娯楽の一つ、テレビは薄型で天井から吊り下げられていた。部屋には5・6人の女性がいて、食事はビニル製容器の弁当で、結構おいしそうに見え、病人用の特別食も用意されているという。自費で日用品は買える。この日はカップラーメンも食べており、唐辛子の粉を振り掛ける様子も微笑ましい。医務室も予想以上に整備されており、一応安心した。狭いが運動場もあり、この日はフラフープで遊ぶ風景が映し出された。オーバーステイで収容され、難民申請したビルマ人も、ここで4ヶ月前後は暮らすことになる。彼女らの苦情は、部屋の施設というよりも、同居する外国人関係が多い。

2008年8月6日水曜日

(87)あと2日 そしてあと何回

(2008年8月6日)
  今日は8月6日、「あと2日」とテレビが連呼している。でも私の考えている「あと2日」とは内容が違う。ちょうど20回を迎えた8888記念日があと2日に迫ったのだ。この記念日は、ビルマ人全員の頭にグサリ刺さった記念日なのだ。20年も経つのに何も展望が開けない現状を見ると、陰鬱な記念日といえよう。20年前の朝日新聞には次のように記載されていた。8月5日:「ビルマの実態 失業・困窮 あえぐ庶民 買いあさる富裕層」、8月6日:「ペグーでも暴動 ラングーンで149人逮捕」、8月7日:「ビルマ 地方でも抗議行動」 「ビルマ政権交代は政変 党大会でネウイン氏誤算」 「学生事前逮捕か ゼネスト控え緊張増す」 8月8日:「デモ各地に拡大 警官隊が発砲 死傷者も」 8月9日:「デモ 軍隊を包囲 ラングーン見事な統制 兵を威圧」と続く。ビルマ国民はこの陰鬱な記念日をあと何回迎えるのだろうか。

2008年8月5日火曜日

(86)豪で難民政策見直し 日本は

(2008年8月5日)
  新聞によると、豪州政府は、同国への難民申請者を強制的に収容所に隔離してきた政策を原則廃止し、「より人道的な対応を取る」と表明した。収容所に入るのは、社会に受け入れがたい危害を加えると認められた場合などに限るとし、子供と家族は収容所に送らないことも明らかにした。今後難民申請者は、審査期間中、移住者向けの定住促進用の住宅で暮らすことができるという。例外的に収容所に入った申請者についても、審査当局は3ヶ月ごとに必要性を証明しなければならない。国連によると07年の豪州への難民申請者数は3970人(日本は816人)。在日難民申請者にとっては一つの朗報である。日本では、収容される前に難民申請をすれば、多くの人は収容されないが、不法残留等で収容されてから難民申請した人は、数ヶ月以上も入管の施設に収容されている。「原則収容せず」の機運よ、高まれ!

2008年8月4日月曜日

(85)ビルマかミャンマーか それとも

(2008年8月4日)
  親しいビルマ人とビルマの民主化について話していると、彼はいきなり「ビルマの国名を変えなきゃぁ」と言い出した。彼の主張はこうだ。「ビルマという国名はビルマ族を主体に考えた国名だ。軍事政権は、少数民族を含めた国名としてミャンマーに変えたと称している。しかしこれはおかしい。ビルマとミャンマーは口語体と文語体の違いだけであって、中身は同じだ」。この問題はこのブログの(38)でも触れたが、突然ビルマ人から国名変更といわれるといささかショックである。日本にいる民主化グループのビルマ人の多くは「ビルマ」を愛用しているが、その理由は「ミャンマーという国名は軍事政権が勝手に変えたものであり、承知できない」というもの。私は「ビルマの竪琴」の印象が強かったせいか、あまり意味なく「ビルマ」を愛用している。さて、この友人はどんな新国名を夢見ているのであろうか?一度聞いてみたい。

2008年8月3日日曜日

(84)朝日特派員ブログへのコメント

(2008年8月3日)
  7月23日に書いた「(73)朝日新聞特派員のビルマ関連ブログ」で、彼(山本記者)のブログにコメントしたことを書いた。その後7人のコメントが公開され、その中に私のコメントもあったので紹介しておこう。 『いつも朝日新聞国際面で山本さんの記事を拝読。この氷山は、とてつもなく大きく、硬く、冷たいですね。私は戦争とか、暴力などは大嫌い、あくまでも平和裏に少しずつ溶かして、この氷山を小さくする方法を考えましょう。ペンは剣より強しといいますが、最強の武器を山本さんは持っていますよね。私が思うにASEAN憲章の修正が一番の近道かと。特に「内政不干渉」と「全会一致」の項目は多くの人が矛盾を感じ、イライラしてると思います。現在でもASEAN各国の多くは、この二つの項目の修正に賛成しています。こういう潮流の中、日本のマスコミが (・・中略・・) ペンの力は強いはず、大いに期待しています』。

2008年8月2日土曜日

(83)BRSAよ 飛躍しよう

(2008年8月2日)
  私たちのグループBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)が発足して4ヶ月が経過、まずは順調に活動を展開している。この団体は、日本人とビルマ人が相協力して難民(申請者)を助け合うというユニークな組織であり、その崇高な基本理念はみんなから高く評価されている。今後一段と飛躍するために、私は次のように考えている。①二つの国の人々が、協力して事業を進めるための相互信頼感の醸成 ②17人の役員の明確な分掌化 ③各専門委員会の立ち上げと真摯な討論 ④会員数の増加と全会員の把握(全会員が何らかの方法で参画する) ⑤活動の能率化(支援金徴収方法など) ⑥全会員宛の情報伝達方法 などなど。先日、難民不認定の通知書を貰ったビルマ人がいたが、その中に「BRSAに入会したとあるが、1会員として参加したに過ぎない」と書かれていたらしい。今後皆で力を合わせて頑張ろう!

2008年8月1日金曜日

(82)懐かしいなあ 十条の入管

(2008年8月1日)
  いま「本日も不法滞在」という本を読んでいる。副題が「入国管理局で会いましょう」というもの。2001年発行だから7年前の書籍だ。著者は韓国人女性で、舞台は十条にあった入国管理局第2庁舎そばの旅行会社。不法残留で収容されている韓国人や、入管に出頭して帰国する韓国人に格安の片道切符を売るのが商売。この間のやり取りがユーモラスに書かれている。この十条入管は、埼京線十条駅から15分の所にあり、2003年にいまの品川入管に移るまで使われていた。私も1996年から2003年まで何回もこの入管に足を運び、ミャンマー人に面会していたので、この本に描かれた情景がよく分かる。確かに入管の周辺には各国向けの安売りチケット販売店が並んでいた。いまの品川入管とは雰囲気がぜんぜん違い、温か味すら感じられた。十条入管はいずれ忘れ去られるので、この機会に取上げておこう。

2008年7月31日木曜日

(81)個人情報 ルールを理解して!

(2008年7月31日)
  BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の運営に首を突っ込んでいると、個人情報の保護という問題にしばしばぶつかる。個人情報保護法が制定されたのが2005年4月、急に日本中が「個人情報保護」の掛け声の下、名簿の発行が止まり、葉書の文面を隠すシールが流行し、入院患者の名札が隠されるようになった。不便になった一面、個人の権利利益が保護されるようになった。似たルールににプライバシーの保護があるが、これは個人情報保護法と関係のない個人の権利利益に関するもので、従来どおり民法上の不法行為、刑法上の名誉毀損に該当する。一方、個人情報保護法のほうは、個人情報を5千件以上集めている事業者が対象であるが、それ以下の団体でも、「個人の人格尊重」という基本理念を尊重し、自主的に取り組むことが望ましいとしている。ここは日本、在日ビルマ人もルールを理解してね。

2008年7月30日水曜日

(80)吉報だ! 定住3年ビザだ!

(2008年7月30日)
  私は今日3時半ごろ品川入管入口でAさん(女性)の来るのを待っていた。Aさんは2週間ほど前に、入管から呼び出しの連絡があり、そのとき写真4枚を持ってくるように指示があったそうだ。この指示があればビザが貰えるらしいという噂は以前からあり、彼女も分かっていたみたいで、私に嬉しそうな声で電話してきたのだ。しばらくして彼女が入管に現れ、一緒に3階に上がった。3階にはすでにビルマ人男性が2人いて、次々と部屋に入ったが、いずれも嬉しそうに出て来た。在留特別許可、定住、1年の紙を持ちながら。彼女は3番目に呼ばれたが、部屋は別だったのでちょっと不安が走る。数分後、彼女が出てきた。満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってきた。「3年!、3年!」と連呼しながら。手に持っていた紙には「在留特別許可、定住、3年」との文字が。私は彼女と固い握手を交わした。最高に嬉しい日であった。

2008年7月29日火曜日

(79)米国の行動力に驚嘆 「ビルマの30日」

(2008年7月29日)
  「ハリウッドスターとビルマの30日」(Burmainfo提供)が昨日で終了した。タイトルは「30日」であったが、実際には「38日」間続いた。最終回は、プロデューサーのノーマン・レア氏。彼はこれまでの映像をすべて見ていて、ビルマ国民が軍事政権から受けている迫害が理解できるようになった。特に、サイクロン被害に対する軍政の態度に、ビルマの痛みを間近に感ずるようになった。彼は人権活動センターの会員になることを約束したという。私のブログ(33)と(56)でもこのテーマを取り上げたが、今回のキャンペーンは日本では考えられない大胆な手法であり、かつ、極めて効果的な手法であった。ハリウッドスターという著名人を大動員し、映像という媒体を活用して、世界中にビルマ軍政の迫害ぶりを紹介したことになる。米国首脳の発言よりも、この38人の映像・スピーチのほうが大きな影響を与えたに違いない。

2008年7月28日月曜日

(78)活発だったなあ 役員会

(2008年7月28日)
  昨日はBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の7月度定例役員会、いろいろ意見が続出し、ついには激論、一時はどうなるかと心配するほどだった。しかし大滝会長が丁寧に所信を説明し、熊切・アウンリー両副会長がそれぞれ丹念に補足説明を加え、結局最後は全員の賛同を得た。このようなすさまじい議論は、私にとって久し振りのことであり、一種の感動すら覚えた。問題点はやはり言葉の壁であり、また育った環境の違いも少しずつ明らかになってきた。例えば個人情報保護について、日本人は厳しく感じているが、ビルマ人はほとんど気にしていない。また日本人は性善説で事を運ぼうとするが、ビルマ人は否定的である。民主的な経済大国で育った日本人と、軍事政権の抑圧の下で育ったビルマ人、考え方がどうしても違う。今後も真剣に激論を重ねていけば、すばらしい会になるだろう。大いに期待している。

2008年7月27日日曜日

(77)研修・技能実習制度 やめたら

(2008年7月27日)
今朝の朝日によると、外国人研修・技能実習制度の 問題点が大きく出ていた。この制度の趣旨は「途上国への技能移転」であり、1年目は研修生として技術・技能を修得する期間で、2・3年目が労働者の扱いとなり3年経過すると帰国となる。現在中国、ベトナム、フィリピン、タイ、インドネシアなどから約9万人が日本に来ており、ビルマ人もいると聞く。受け入れ側の多くは、繊維、金属、食品、農業などの小規模企業のようだ。特に問題なのが1年目の研修生で、本来日本語教育その他を研修する場だが、実際には人手不足を埋める単純労働者扱いをしてることだ。米国では人身売買の一例として取り上げている。自民党では、この制度を廃止し最初から短期労働者として入れ、定住は認めない方針。一方日本商工会議所は定住を認めたらと言う。政府は現行制度の修正で十分との立場。私は定住を認めてよいと思う。

2008年7月26日土曜日

(76)ビルマがASEAN憲章を批准?

(2008年7月26日)
 「今週のビルマのニュース」Eメール版(7月25日号)によると「ビルマ軍政は22日ASEAN憲章を批准した。これで批准国は7カ国になった」とあった。ただこれだけである。念のため批准という言葉を辞書で確かめると「(法律で)条約を国家として認め、最終的に確定すること」とあり、ショックを受けた。未批准国はフィリピン、タイ、インドネシアの3国のみ。問題はフィリピンなどが、人権機構の権限や創設に熱心であったが、ミャンマーが強く反対して結局これらは先送りとなったらしい。中身が確定していないまま批准するということは、私には考えにくい。たまたま昨日、私と同時期にライオンの研究所で働いていた8人の仲間(皆80歳前後)が集り、銀座で一杯やったが、ビルマの話題も結構出た。どうも皆ビルマという国が不可解な国という印象のようだった。この国がASEAN憲章を批准?わからなくなっちゃた。本件調査続行。

2008年7月25日金曜日

(75)ビルマ友人からの電話

(2008年7月25日)
  昨夜、日本の大学で学んでいるビルマの友人から電話があった。久し振りの彼の懐かしい声を聞いてとても嬉しくなり、お互いに昨今の「ビルマ問題」を語り合った。将来のビルマの姿、国名の問題点、日本にいるビルマ人の考え方、少数民族問題の位置づけなどなど、延々と電話が続いた。その中で彼が強調する点は「教育問題」と「人権問題」にあったと思う。確かにビルマの一流大学を卒業した人が、日本で皿洗いをし、居酒屋で料理を運んでいる姿を目の当たりにすると、彼らに祖国再建のための教育に展望が開けない。青年から「教育」がなくなれば祖国は今以上に落ち込むであろう。また彼は「人権」についても憂いている。在日ビルマ人にしっかり「人権」を教えないと、軍事政権からばら撒かれた細菌はいつまでも残るであろうという。彼のようなしっかりした青年が、将来日本とビルマの架け橋になるのであろう。

2008年7月24日木曜日

(74)少し朗報 難民受け入れへ

(2008年7月24日)
今朝の朝日新聞を開くと、「政府は難民受け入れへ転換 避難国経由で移住」と大きく出ていた。久々の朗報である。09年に準備を進め、2010年からタイに逃れているミャンマー難民を受け入れる可能性が高く、当初30人ぐらいを想定しているらしい。タイ国境の難民キャンプで暮らす難民を日本で恒常的に受け入れる「第三国定住」制度を導入することになる。昨年日本が受け入れた難民はたったの41人、国内外で閉鎖的といわれてきた日本の難民政策の一つの転換点とはいえる。一方、現在の難民認定制度は、すでに来日した人が認定を求めるために、「不法滞在者らによる悪用」が多いという理由で、認定されない割合も高い。すでに日本で5年10年と真面目に暮らし、日本社会に溶け込んでいる彼らは、難民申請によって故国と決別し、家族と別れる決意をした人たちである、この面でも政府は配慮して欲しい。

2008年7月23日水曜日

(73)朝日新聞特派員のビルマ関連ブログ

(2008年7月23日)
 今朝の朝日に「特派員ブログ」という文字が。読んでいくうちに「特派員世界を走る」というテーマで各地の特派員がそれぞれの地域に起こった話題をブログで書いており、最新号はアジア総局(バンコク)山本大輔記者のミャンマーの民主化実現のためにどんな道があるのか、読者に問いかけつつ考えるとの説明。「ブログ」+「ビルマ」という私の最大関心事が二つとも揃っているので、見逃すわけにはいかない。さっそくログインして本文を見た。彼のブログの概要は「突然、荒々しい巨大な氷山が現れ、航路をふさいだ。船の沈没を覚悟で何度も突っ込み、氷山を壊して後続へ道を開くか、それとも皆で協力して我慢強く温風を送り続け、氷山が少しずつ溶けるのを待つか。どちらを選ぶか。」という問題提起型のブログだ。コメントはまだ4人しかいないが、私も近く投稿するつもりだ。その内容はいつかこの欄に掲載しよう。

2008年7月22日火曜日

(72)在日ビルマ人の雑誌発行グループ

(2008年7月22日)
  在日ビルマ人の民主化グループ31団体中に雑誌発行グループがある。日本の場合、どこかの政党やグループに所属して、その本体の活動の広報に利用する雑誌は多い。このため、雑誌発行グループが、即、政治団体であるという発想に当初違和感を抱いていた。しかし、雑誌を発行すること自体が、民主化活動であり、軍事政権反対活動であるという発想があってもよいと思うようになった。現在、「アハラ誌」、「アリンエイン誌」、「ティッサー革命雑誌」の3グループが活動グループに登録されている。これらとは別に、「モータウチェ」(明け方の星=金星)という雑誌もある。先日この雑誌から取材があり、私とビルマの関わりについていろいろしゃべったが、掲載号が近く発行されるという。取りあえずゲラ刷りをもらったが、ビルマ語なのでよく読めない。ただ私の顔写真は結構ハンサムに撮れていた。発行が待たれるなあ。

2008年7月21日月曜日

(71)強烈過ぎるよ 「うわさ」話

(2008年7月21日)
  ビルマ人社会と付き合っていて気になるのが「うわさ」の激しさである。「うわさ」とは、そこにいない人を話題にして、事実かどうか疑わしい事柄について興味本位に言いふらすことで、ビルマ語で「コーラハーラ」という。日本人社会でも、もちろん「うわさ」話はいっぱいあるが、比較的おとなしいものが多いと思う。しかし、ビルマ人社会のうわさ話は強烈であり、人権問題に発達しそうな内容も結構耳に入る。軍政下のビルマでは、情報伝達手段が極端に制限されており、その反動として「うわさ」が広がる素地ができている。私も何回も「うわさ」の主人公にさせられた苦い経験がある。ビルマ人同士の間でも「うわさ」に悩んでいる人が多いと聞く。「うわさ」話を聞いたら、つい友人に伝えたくなるものだが、それで悩む人が生まれる可能性もある。ここは日本、お互い「うわさ」話に飛びつかない姿勢が大切だと思う。自戒を込めて。

2008年7月20日日曜日

(70)一連のASEAN会議始まる

(2008年7月20日)
  いよいよ今日から一連のASEAN会議がスタートする。第1日目である20日は非公式外相夕食会、21日が加盟10カ国の外相会議、22日がASEAN+3(日、中、韓)外相会議、23日が拡大外相会議、24日が地域フォーラム(ARF)と続く。この進行スケジュールは毎年同じだが、今回はASEAN外相会議の共同声明の最終草稿に、ビルマ軍事政権に民主化の進展と政治犯釈放を求める文言がフィリピンなどの主張で入っているらしい。加盟国の多くは、人権機構の問題を含め、ASEAN共同体発足に向けた憲章の年内発効を目指すが、ミャンマー(中国・カンボジア・ラオスなど)が反対するのは明らかである。ビルマ軍事政権は民主国家にとっては異様な存在であり、ASEAN加盟国が全員一致の憲章を作ることはまず不可能であろう。とすると、加盟各国は今後も気長に話し合いをするしか方法がなのかしら。おかしい。

2008年7月19日土曜日

(69)ビルマ人難民認定第1号は?

(2008年7月19日)
  私はビルマ人の難民認定に関心がある。現在、ビルマ人の難民申請者が千五百人以上もいるのに、認定された人は一年にわずか数十人、「難民に冷たい国」といわれても返す言葉がない。そもそもビルマ人の難民第1号は誰であろうか。私の書棚に、「難民認定」(副題:ミャミャウインが語った1500日)という単行本がある。著者根津清、ダイヤモンド社、1992年10月発行、この本の表紙裏に彼女のサインが大きく記されている。本書によれば1992年4月20日、法務省名古屋入国管理局から呼出しがあり、本人と息子(ミンウー)と甥(ウインナイン)の3人がビルマ人として始めて難民認定書をもらったとある。ミャミャウインとウインナインは確かにビルマ民主化のために活躍した。特にウインナインは千葉大で博士号を取得、在日ビルマ人協会会長の要職をこなした。しかしその後、ほろ苦い事態となってしまった。

2008年7月18日金曜日

(68)TBSニュース23 

(2008年7月18日)
  昨夜メールを見ていると、23時からTBSの「ニュース23」でサイクロン後のミャンマーの問題を放映するという。この番組の翻訳をチェックしたのは知人のNさんらと聞いていた。概要は以下のとおり。5月のサイクロンによって14万人もの死者・不明者を出したが、被害を受けた地区には多くのカレン人が住んでいた。彼らは家を流され1日1食のときもあったが、軍政は少数民族に迫害を加え続けた。このため彼らは、川を渡ってタイ領のメソットに密入国した。タイ側の警戒も厳しく、外出もできない状況だったので、書類を偽造して明け方車で密かに難民キャンプに入り、カレン族の知人のもとにたどり着いた。キャンプの中で知人から保護を受け隠れるように暮らしており、もうミャンマーへは帰りたくないという。画面では、幼児のつぶらな瞳に光る涙が印象的だった。軍事政権は少数民族、特にカレン人を迫害し続けている。

2008年7月17日木曜日

(67)バス旅行

(2008年7月17日)
  私たちの「在日ビルマ難民たすけあいの会」では8月17日の日曜日、というか、お盆休みを利用して大洗海岸と水戸偕楽園への日帰りバス旅行を計画している。参加費1万円で、定員90名。この計画には大賛成である。遠い異国で、難民申請している彼らは、たくさんの苦悩を抱えながら日本で暮らしている。たまにはこのような楽しいイベントが必要であろう。私が属している「ミンガラ日本語教室」でも、1999年から毎年バス旅行を実施している。行き先は、日光、富士山、箱根等の日本の代表的な観光地を毎年順繰りに選んできた。時に、葛西臨海公園や鴨川シーワールド、マザー牧場等にも行っている。現地観光の楽しさもさることながら、行き帰りにバスという狭い空間で、皆でしゃべり、皆で歌い、皆で笑うという事は、日常の苦悩を吹っ飛ばす絶好の機会でもある。そして、彼らの友情を深める最高の場でもある。

2008年7月16日水曜日

(66)よくまとまっている 難民申請の流れ

(2008年7月16日)
  第1回BRSAセミナーでの熊澤新さんの講演「日本の難民認定制度の現状」の要約を読んだ。「在日ビルマ難民たすけあいの会」のブログに記載されているこの内容は、熊澤・熊切コンビによる発表であり、今までこの種の内容はあるようでなかった。私も参考になったし、会員もぜひ勉強して欲しい。記述のとおり、確かに難民申請者は増えており、ビルマ人といえば難民申請者かなと想像してしまう。今年の難民申請者は1000人を超すようだが、不認定の難民申請者が選ぶ道は、帰国は論外として、裁判か2回目の難民申請しかない。BRSA(「在日ビルマ難民たすけあいの会」)では、この種のセミナーを随時開催して行きたい。たまたま今朝の新聞で法務省入国管理局長が交代したという。日本で暮らす難民申請者が不安定なまま急増している現状打破のため、新しい政策を打ち出して欲しい。大いに期待しています。

2008年7月15日火曜日

(65)88年8月8日前後の新聞記事

(2008年7月15日)
  いまから約20年前の88年8月8日は、全ビルマ人にとって忘れられない日である。そのとき日本の新聞はどのように報じていたのだろうか? 友人S氏から頂いた新聞資料を基に、当時の報道の様子をまとめた私の紹介記事がある(みんがらネットワーク会報第12号・2001年6月発行)。ビルマの歴史を語る上で貴重な資料であり、連日4段、5段抜きの大見出で当時のビルマの緊迫した様子が報道されている。例えば「ビルマデモ 地方にも波及 緊張高まる首都」、「ビルマ国軍が無差別発砲、市民も武装、多数の死者」、「首都一挙に内乱状態、軍発砲に市民反撃 看護婦ら多数死亡」、「全土で無期限休校、ビルマ在留邦人は外出自粛」、「ビルマ首都5万人デモ、15か所で反政府行動」など。結果は軍事政権側が民主化勢力側を武力で打ち負かしたが、この怨念が今日まで続いている。民主化勢力よ ガンバレ!

2008年7月14日月曜日

(64)日本に外国人は何人?

(2008年7月14日)
  日本に外国人はいったい何人いるのだろうか?法務省入国管理局の発表によれば、平成19年末の外国人登録者数は215万人でわが国の人口の1.7%、約60人に1人が外国人である。こんなにいるのかなあ。しかも女性が115万人、男性100万人で女性のほうが多い、なぜだろう。215万人の外国人のうち多いのは中国(61万人)、韓国・朝鮮、ブラジル、フィリピン、ペルー、米国の順、ペルー人の多いのは、ブラジル人同様、日系2世、3世によるものらしい。これらの外国人は日本のどこに多いのか、東京(38万人)、愛知、大阪、神奈川、埼玉、千葉、兵庫と続く。逆に少ないのが、高知(4千人)、宮崎、佐賀、秋田の順。在留資格別では、永住者(87万人)、定住者(27万人)、日本人配偶者等、留学、家族、研修と続く。現在「資格なし」というビルマ人が多いが、早く「定住」、「特定活動」の資格が取れますように。

(63)その後の被災地

(2008年7月13日)
  5月はじめのサイクロン被害のあと、インターネットを通じていろいろな現地情報が流れていたが、どちらかというと反政府サイドの情報が多かった。このためちょっと気になっていたが、今朝の朝日新聞に、ミャンマー被災地の現在の状況が比較的大きく報じられていた。大新聞ならまあまあ中立的かなと思いつつ読んだ。被災地では人々が道路に並んで物資を待つという状況はなくなり、米は一応確保できているが副食は湿地に自生する空心菜だけ。一方救援物資が届きにくい地域ではカビの生えた備蓄米しか食べられない。テレビに映った被災地には外国の救援物資が殺到するが、道路が寸断されている地域では手付かずのままで復興格差が拡大中。私の関係する「在日ビルマ難民たすけあいの会」でも「ミンガラ日本語教室」でも、支援金を送ったが、少しでも役に立って欲しい。みんな早く幸せになって欲しいなあ。

2008年7月12日土曜日

(62)読ませるね 拓さんのブログ

(2008年7月12日)
  他人のブログを読んでいて、早く続きを見たいと思うことはあまりない。だが熊切拓さんの「スパイの話(1)」(リンク表にある「ビルマ国境ニュース」)は面白い。カレン人の集会で「日本人のスパイがいる、そのスパイの名は・・・・不思議なことに拓さんと同名であった」。「スパイだといったのは拓さんがよく知っている人物だった」。「そこで拓さんはその人物に電話してみた」。第1回目はここで終わっていた。確かにミャンマー人の間で「スパイがいる」という話は極めて多く、私も何回も聞いた。日本で30以上もの民主化グループが割拠している原因も、あるいはこのようなお互いの疑心暗鬼の気持ちが作用しているためかしら。5人以上の集会は禁止などという、軍事政権による長い弾圧政治が、民衆の心をずたずたに切り裂いた結果であろう。平和ボケしている日本人には考えられない現象だ。拓さんの続編が待たれる。

2008年7月11日金曜日

(61)おめでとう 定住許可の一報

(2008年7月11日)
  メールをチェックしていると、大変なニュースが打ち込まれていた。ミンガラ日本語教室の現生徒であり、在日民主化団体で活躍しているNさんご夫婦が、共に在留特別許可(定住)をもらったという。奥さんは2年連続して日本語能力試験1級に合格している英才で、その民主化団体では、得意の日本語能力をフルに活用して活動をリードしている。私はいままで収容されていて難民申請したビルマ人の結果をたくさん聞いてきたが、多くは不認可であり、気の毒にも2回目の申請または裁判に移行している。収容される前、即ち入管に出頭して難民申請すると、多くは定住または特定活動のビザがもらえる。この格差は大きい。このことを多くのビルマ人に知らせる必要がある。また民主化団体に入っても、何らかの方法で活動をリードするという意気込みが大切である。Nさんのように日本語を活用する方法も考えてみては・・・・。

2008年7月10日木曜日

(60)1690万分の1 このブログ

(2008年7月10日)
  今朝の朝日新聞に「国内ブログ 単行本2700万冊分」という見出しで総務省の調査結果が出ていた。今年1月末現在で国内のブログは1690万件あり、記事総数は約13億5千万件、単行本換算で2700万冊分のデータに相当するという。1ヶ月に1回以上更新されるブログは300万件、毎月約50万件のブログが新設されている。1690万分の1でも、当ブログはビルマ特に難民問題に特化しており、見る人が見れば価値あるブログだと自画自賛中。ところで北海道洞爺湖のサミットは無事終わった。福田首相による議長総括ではビルマ問題に触れ、①国際援助に対する制限の解除と援助の透明性の向上、②民主的な文民政府への平和的な移行、③スーチー女史はじめ政治的抑留者の解放、などを呼びかけた。ビルマ軍事政権は、この呼びかけにどう答えるのだろうか。関係者は今後ともこのブログに注目、注目!

2008年7月8日火曜日

(59)いないかな? ビルマ人の看護師・介護師

(2008年7月9日)
  おととい(57号)で日本の少子高齢化に関係して働き手のあり方に触れたが、今日、入管協会から「国際人流」誌が届き、その中にインドネシアからの看護師や介護師の受け入れについて紹介されていた。この種の決定は日本とインドネシア共和国との「経済上の連携に関する協定」によるものとされ、いま話題の特定活動の告示を改正している。その要点は看護師(介護師)の資格を得るまでの研修期間には、在留資格「特定活動」、在留期間「1年間」が与えられる。その後国家資格を取得して雇用関係が生ずると「在留期間3年」が与えられる。確かこの分野は当初フィリピンが有力であったが、いつの間にかインドネシアに変わっていた。ビルマ人はどうであろうか?軍事政権下では、協定を結ぶこと自体がまず無理であろう。私が老人施設や病院でお世話になるとき、そばにビルマ人がいたらとても嬉しいのだが。

(58)単行本「ミャンマー」を読んで

(2008年7月8日)

  先日、乃南アサ著「ミャンマー」(文芸春秋社発行、1400円)を近くの書店で買った。発行が08年6月なので、つい最近のサイクロン被害についても簡単ではあるが触れられていた。私はいままで著者名を全然知らなかったが、後書きで直木賞受賞作家であることを知り、興味を抱きながら一気に読み終えた。内容はミャンマー旅行記であり、写真をたくさん使っているので分かりやすかった。「どこに行っても、人々は、ひたすらに生きている」。「その、生きている姿を忘れたくない」。「デモと軍政が対峙する国で不思議な懐かしさが沸いてきた」。「軍政下でも人々の顔は未来へ輝いている」。「それは私たちアジア人のふるさとなのかもしれない」。「そこにはかつての日本があった」。さすが直木賞作家であり、やさしい、きれいな文章で最近のミャンマーを紹介している。それに比べてこのブログの拙文はひどいものだなあ・・・・。