2009年1月31日土曜日

(265)昨年の難民認定数等発表

(2009年1月31日)
  法務省入国管理局は、昨日「平成20年における難民認定者数等」について発表し各紙夕刊が掲載した。昨年の難民認定申請者数は1599人(うちビルマ人979人、トルコ人156人他)、昨年処理できた数は918人であり、難民と認定されたのは40人(うちビルマ人38人)であった。第一次審査で不認定となり、異議申立てした人は429人(うちビルマ人195人)、昨年処理できた数は351人で、そのうち認定者は17人(うちビルマ人16人)。すなわち難民認定者は40人+17人=57人(うちビルマ人54人)。難民と認定されなかったが人道的な理由を配慮して在留特別許可を受けた人は360人(うちビルマ人328人)。結局日本政府が庇護を与えた外国人は57人+360人=417人(うちビルマ人382人)であった。庇護されたビルマ人が多いということは、喜びというよりその裏にある悲しみのほうが遙かに大きい。

2009年1月30日金曜日

(264)ビルマ国内紛争は西部にも

(2009年1月30日)
  ビルマ国内紛争といえば、従来はタイ国境に近い東部のカレン州などが目立ったが、最近のニュースによれば西部、すなわちインド・バングラディッシュ側のアラカン州やチン州での紛争が目に付く。アラカン州に住むロヒンギャ民族へのタイ海軍の暴行に対し、在日ビルマロヒンギャ協会は2月3日に在日タイ大使館と同ビルマ大使館に抗議行動を起すという。在日ビルマ人グループがどう反応するか注目される。また、ヒューマン・ライツ・ウオッチの1月28日の発表によれば、チン州住民へのビルマ軍による人権侵害(強制労働、拘束、拷問など)の実態を明らかにし、同時に反政府組織によるチン人住民への暴行、恐喝も指摘した。このためチン州住民はビルマを逃れ、インドのミゾラム州に不法入国したが、インド政府はビルマに強制送還している。たまたまチン州はネズミの大量発生で食糧危機に見舞われているという。

2009年1月29日木曜日

(263)楽しかった一本の電話

(2009年1月29日)
  先に(260)で私の親しい生徒であったビルマ人姉妹が、国に難民不認定処分の取り消し訴訟を起し、姉は勝ったが、妹は負けた旨お知らせした。この件は新聞各紙にも掲載されており、昨日改めてお姉さんに電話で祝意を述べた。妹さんのほうは、W弁護士を通じて高裁に控訴するが、お姉さんへの入管側の控訴はまだ聞いていないという。と、電話がアメリカからたまたま来ていたビルマ人に代わった。「私アウンです」。アウン?アウンという名前の知人はたくさんいる、誰だろう? 「私アクロスのアウンです」。ここで分かった。4・5年前であろうか、品川入管から強制送還されるビルマ人は、ヤンゴンまでの飛行機のチケットが必要で、何人ものビルマ人の切符を新宿のアクロスで買った記憶がよみがえってきた。いつもてきぱき処理してくれた思い出があり、多くの帰国者が喜んだ。二人からの一本の電話、楽しかった。

2009年1月28日水曜日

(262)きょうはウツウツ水曜日

(2009年1月28日)
  きょうは水曜日、いつもなら気分が高揚してワクワクする日だが、きょうはなんだか「鬱」の気分の水曜日。当初、利発なビルマ人女性と同行する予定であったが、彼女の赤ちゃんが発熱のため残念ながら私一人で入管へ。まず、一人の女性の仮放免申請書を作成したが保証人関係の書類が一枚不足、たぶんダメとは思いつつ担当部署に持参したが、案の定受け取ってはもらえなかった。次に面会部門に移動。現在品川入管には8人の女性難民申請者がいるが、そのうちの2人はいままでずっと面会を断っているので、今回で面会を打ち切ることにした。残念ながら理由は定かではない。結局6人と面会、いろいろ注文を聞いたが総じていえることは、彼女らは「(条約)難民」の意味を理解していない。夕方ミンガラ日本語教室に入学したいという電話があり、喜んで聞くとネパール人だった。たまにはこんな水曜日もあるんだね。

2009年1月27日火曜日

(261)ミャンマー・日本語学校ブログ

(2009年1月27日)
  このブログの(257)で、ウイン日本語学校の中西校長のブログ「ミャンマー・日本語学校ブログ」を紹介したが、彼はすでに800回以上発信しているようだ。しかも毎日である。私も毎日打ち出してはいるが、私のブログと違って中西さんのは写真つきで読みやすい文体。ビルマの状況を知りたい人間には、よだれの出そうなブログだ。この3日間のテーマを紹介してみよう。1月27日、即ちきょうのブログは、ヤンゴンにおける「中国のお正月(春節)」で、少数民族135の中に中国民族は含まれてないが、ミャンマーの身分証明カードにはちゃんと「中国民族」と書かれているという。昨日の26日はチャイニーズデーの賑やかな光景を紹介、さらに一昨日の25日は日本人学校の運動会に親子で参加した様子を紹介、ミャンマーには日本式の運動会はないという。インターネットで標記のタイトルを打ち込むと簡単に見られるよ

2009年1月26日月曜日

(260)またまた朗報 裁判で勝った

(2009年1月26日)
  私が家で食事をしてるとき、携帯が鳴った。「先生! せんせ~い!」。聞き覚えのある明るい声だった。「先生、私裁判で勝ちました、有難うございました、弁護士は〇〇先生」。 「妹さんは?」  「妹はダメでしたが、弁護士の話では、姉妹の場合、片方がビザをもらえば、二人ともビザがもらえる可能性が大きいとか」。彼女たちは10年以上前のミンガラ日本語教室の生徒で、ときどきお会いしており、牛久入管に収容されていたときは、毎週面会していた。お姉さんの場合は当時ビルマの弁護士であり、スーチー女史とも交流があったので、お台場での口頭陳述で楽に難民認定されると思っていたが、ダメだった。第1回目の難民申請がダメだったビルマ人は、2回目の難民申請を出すか、裁判で争うしか方法はない。私は多くの第2回申請者は知っているが、裁判での勝訴は初めての経験。入管よ、控訴しないで! お願い!

(259)賢明かつ懸命な会長の説明

(2009年1月25日)
  きょうは第4日曜日、BRSAの役員会の日だ。午前中ミンガラ日本語教室に顔を出し、一人のビルマ人生徒に「国会便覧」を渡し、もう一人の生徒には外国人登録証明書を受け取るための書類の書き方を教えた。12時にBRSA大瀧会長の自宅を訪問、2人で来年度の規約改定案を検討、そのうちに熊切副会長やビルマ人幹部も合流、いろいろ問題点が出てきた。3時に役員ら15名が集合して本年最初の役員会が始まった。実は役員会の開始予定時間は2時だったので、まるまる1時間のビルマ時間。皆さん貴重な休日なので忙しいのは理解できるが、それにしても・・・・。議論が沸騰したのは難民申請中の重度の困窮者への支援策、本件は会長の賢明かつ懸命な説明で無事全員了承。その他の議題は時間がなかったこともありスイスイと推移した。最後に来週は大瀧会長の誕生日祝をしようという話が出た。

2009年1月25日日曜日

(258)今週のビルマのニュース③

(2009年1月24日)
  BURMAINFOからの今週のビルマのニュースEメール版(0903号)からの抜粋 ★ビルマから船で逃れてきたロヒンギャ民族数百人をタイ当局が洋上に放置した問題で、タイのアピシット首相は国際機関と協力すると述べた。 ★14万人が犠牲になったサイクロンから8ヶ月、国連のミャンマー常駐調整官は、完全回復まで今後3.4年かかるだろうと述べた。 ★EUはビルマに5240万ドルの人道支援(サイクロン被災者、タイ国境難民、ロヒンギャの支援)を出す。 ★ブッシュ大統領はビルマに対する制裁の一部(軍政に資金提供を行う個人・企業の資産凍結)を取り消した。 ★米国のジェームズ・スタインバーグ氏は「北朝鮮の協力でビルマで核開発事業が始まれば非常な懸念事項」と述べた。 ★スーチー氏が「良心のトランペット」賞を受賞。 ★政府開発援助(ODA):ジェトロがビルマ縫製産業人材育成支援事業。

2009年1月23日金曜日

(257)やぁ~中西修さんのブログが

(2009年1月23日)
  ビルマ関連のブログを探していたら、WINEDUというブログが見つかった。WINといえば・・・、EDUといえばEDUCATION? WIN日本語教室・・・もしかしたら中西さん? プロフィールを見たら広島県出身とあり、ここで確認できた。12年前にミャンマーへ移住したとも書いてあったが、その送別会は池袋北口にあった「アミーナ」というビルマレストランで開催され、私も参加した。私がヤンゴンに行ったときは、WIN日本語教室で2・30人の生徒の前で一席ぶったこともある。その後東京の水かけ祭りでお目にかかった際には、カレン族の美人の奥さんとお子さん2人にお会いできた。そして以前、ミンガラ日本語教室でしゃべっていただいたこともある。ミンガラ日本語教室の生徒の中には、WIN日本語教室で勉強した生徒も大勢いる。ビルマ人に対する日本語教室を、彼はヤンゴンで、私は東京でほぼ同じころ創設したのだ。

2009年1月22日木曜日

(256)難民認定申請中の逮捕

(2009年1月22日)
  難民認定申請中の逮捕について熊切氏がBRSAのホームページに連載している。参考になる点が多く、皆様方もぜひご一読願いたい。ところで私は毎週品川入管を訪問して、収容者との面会のほか、関係する各部署を訪れ担当官からいろいろ教えてもらっており感謝している。ただ、悩まされるのが縦割り行政の弊害、ひとたび他の部署のことになると全くとんちんかんだ。3箇所、4箇所まわされてやっとまともな返事がもらえることが多い。ところで、不法残留者が強制退去となる場合、これは入管による行政上の処分であるが、同時に刑事手続きによっても処罰される。一つの事件で警察と入管双方が関与することが法律で定められているのだ。原則として不法滞在は強制退去だが、不法入国、不法上陸は刑罰が加わる。ビザのあるうちに難民申請してもその後不法滞在となれば、警察が取り調べることになるだろう。

2009年1月21日水曜日

(255)アローミャデー水曜日

(2009年1月21日)
  毎週水曜日はアローミャデー(忙しい)日。きょうは品川入管に10時40分に出かける予定だったが、ビルマ人青年から仮放免申請書の書き方を教えてくれとの依頼で、急遽10時前に出発、11時に入管着、直ちに彼に説明。12時40分に面会のための番号札を取り7階へ、ここでボランティアのビルマ人女性からビルマ人紳士を紹介された。面会時間が迫っていたので、面会終了後に会うこととし、5人の収容ビルマ人女性と面談、保証金や翻訳などいろいろ頼まれた。終了後待っていた紳士と一緒に3階に行き難民申請をする。通常の場合外国人登録証が必要だが、彼は区役所からの受理票だけは持っていたが、それで通用するか心配の様子。結局はその受理票でOKとなり、その場で難民申請、こんどは難民申請受理票をもらったので彼は大喜び。帰宅後ビルマ人と結婚する男性と電話でいろいろ説明。 疲れたよぉ~。

2009年1月20日火曜日

(254)日本語教室

(2009年1月20日)
  今朝届いた熊切さんからのメールによると、難キ連(難民・移住労働者問題キリスト教連絡会、佐藤直子氏)では難民対象の日本語教室を開いたようだ。1年ぐらい前にこの話を聞いていたが、いよいよ始まったようだ。その内容の一つとして、聴解用のラジカセが足りないので、もしあれば寄贈してほしいというもの。どなたか持ってないかしら。このような難民支援団体とは今後とも協力していきたいものだ。これとは別に、在日ビルマ反政府団体の一つでも日本語教室を開くとの情報がある。一方、日本語がしゃべれないために不良になったり、帰国するブラジル人二世、三世の話も聞く。私は現在入管での面会の際、日本語・ビルマ語辞書など、いろいろな日本語教材を差入れている。BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)でも日本語教材の配布のほか、13年もの歴史のあるミンガラ日本語教室の活用を推奨してはいかが?

2009年1月19日月曜日

(253)複雑 ロヒンギャ問題

(2009年1月19日)
  ロヒンギャ(ロヒンジャ)とはビルマとバングラディッシュの国境周辺に住む少数民族で、ビルマ政府からもバングラディッシュ政府からも国籍が認められていない無国籍民族。全員イスラム教徒であり、ビルマでは多数派の仏教徒と対立関係にあるが、スーチー女史を支持したため、軍政から迫害を受けている。このため、1990年代から隣国のバングラディッシュに逃れ、多くがその後に仕事を求め、タイやマレーシアを目指している。今朝の新聞は、このロヒンギャ412人を乗せた船舶をタイ海軍が発見、不法移民として手を縛るなどして別の船に乗せ、15日間船上に放置、インドの沿岸警備隊に保護された時は、約300人が死亡していたという。人権問題として問題化しそうだ。日本にも若干のロヒンギャがいるが、その多くはビルマ難民として保護されている。問題はビルマ人の多くが彼らをビルマ人と考えていない点だ。

2009年1月18日日曜日

(252)けんけんがくがく

(2009年1月18日)
  きょうは日曜日、ミンガラ日本語教室のアイウエオクラスの出番の日、9時20分に秋葉原教室に着くとすでに数人の生徒が来ていた。9時45分には30数人が出席し教室は満席の状態。こういう状態だとこちらも力が入り、ジョークを交えながら大きな声で講義を続け、口の中がカラカラに。11時に授業終了、11時30分に秋葉原駅で難民に認められた若い夫婦と落ち合い用を済ませる。次に巣鴨の大滝会長邸へ。ここでは日本人3人と、ビルマ人4人がいて、BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の来年度計画について5時間の大議論、私はじめ皆から規約の改正、組織の明確化、女性重視、日本人役員の増加など話し合った。その間、数人のビルマ人が顔を出し、RHQ(難民事業本部)への提出書類の作成、難民申請書類の翻訳記入、仮放免申請書類の作成等の依頼も続いた。5時、満足感を胸に帰途についた。

2009年1月17日土曜日

(251)今週のビルマのニュース②

(2009年1月17日)
  BURMAINFOからの今週のビルマのニュースEメール版(0902号)からの抜粋 ★タイのアピシット首相は、ビルマについて初めて発言「欧米諸国もアジア諸国もビルマの改革を望んでいるという点で一致してる」 ★次期国連米国大使は「ビルマ独裁政権に圧力をかけるために地域・国際社会に出来ることはまだある、複数の国々が制裁を課すことが望ましい」と発言、★ビルマやバングラディッシュから脱出したロヒンギャー民族数百人をタイ軍が保護せず海に送り返し、多くは行方不明。★ヤンゴンの交差点には暴動鎮圧隊や警察を配置、1月に反軍政ビラがまかれたことが原因か、★ビルマへの政府開発援助(ODA):シャン州ラショー僧院学校建設:724万円、シャン州ナムカン僧院学校建設:734万円、★第61回カチン州の日記念式典(18日18時池袋)、★JAC主催国連事務総長宛アピール行動(13-16日)。

2009年1月16日金曜日

(250)夢多きセーフティネット

(2009年1月16日)
  BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)はあと2ヵ月半で新年度を迎える。この機会に私の考えを整理しておきたい。この会のモットーは「ビルマ難民(申請者)と日本人で創る 民主化のためのセーフティネット」。具体的には難民(申請者)のためのセーフティーネットであるが、これでは夢が少ない。祖国ビルマの民主化のためと大上段に掲げた意気込みがすごいのだ。それから、「ビルマ難民と日本人で創る」の「創る」という2文字が新鮮さを与えている。「セーフティネット」は最近の新聞や週刊誌に数多く見られる一種の流行語ともいえよう。掛け声は掛け声として、それでは実態はどうか。日本人とビルマ人の間にはやはり「言葉」の壁があり、意思が通じない場面がしばしばある。幸い、日本語の上手なビルマ人は多い。彼らに活躍してもらうことも一つの方法であろう。民主化のため夢多きセーフティネットを皆で創りたい。

(249)てんやわんやの一日

(2009年1月15日)
  きょうは木曜日、いつもなら気楽な日だが、きょうはそうは行かなかった。入管には昨日訪問したばかりだが、入所者から電話が2件入り、その他にもいろんなことが溜まっていて、引続ききょうも入管訪問。いま6人のビルマ人難民申請女性がいるが、うち2人から仮放免申請の依頼があり、他の一人からは日本人との結婚につき相談あり。本件、たまたま近くにいた親友のビルマ人男性と知己の行政書士に加わっていただき諸問題がクリアーに。そうこうするうちに知人のビルマ人兄弟2名が難民申請で来所、一緒に3階の担当部署に入室し対応してると、こんどは教室生徒の女性とばったり、やはり難民申請ということで係官と対応、さらに兄弟のほうは特定活動ビザをもらうため、2階で申請無事入手。これらの合間に親友のビルマ人女性と情報交換、帰宅後はビルマ人の難民申請書類翻訳の添削、嬉しい疲れが出た。

2009年1月14日水曜日

(248)品川入管 何人いるのか

(2009年1月14日)
  今日は水曜日、品川入管に行く日だ。現在6人のビルマ人女性が収容されていることは確認できたが、他に何人いるかは全く分からない。私のように、難民申請中のビルマ人収容者の安否を確認したい者には不便である。やむを得ず、収容されている人からの情報や、外部にいる知人からの情報で氏名を知ることになる。氏名がわからない限り、面会は不可能で、正確な収容者数もわからない。収容所の中は各階ごとにたくさんの棟屋に分かれていて、各棟屋はさらに数個の部屋に分かれている。同じ棟屋にいる収容者は、運動時間には一緒になれるので、同国人の存在を知るが、別の棟屋に誰がいるかは全く分からない。誰々さんがいるかと入管に電話で聞いてもプライバシーとかで教えてくれない。面会に行って自分の身分を明らかにしたら、教えてくれる仕組みだ。私は一昨年の12月以降46人と面会したことになる。

2009年1月13日火曜日

(247)面白い もう一つのブログ

(2009年1月13日)
  このブログ「U MINGALARのつぶやき」はお陰さまで毎日更新を続け破竹の勢いで前進している(いまの所は)。ただ欠点として、取り上げる内容も文体もやや硬いとのご意見をいただいている。ところが、同じビルマ問題を取り上げているが、若々しく、かつ、優しい文体で書かれているブログがある。それが「BURMA BORDERLINES NEWS」で、私のブログの師匠である熊切さんが書いたものである。熊切さんのブログは、本ブログ左段のリンク集のなかにもあるので、クリックすればすぐ見られる。最近号としては、「おむつのサイズ」、「捕まらぬよう」、「ロンジーの中」、「MAE LA CAMP by Google Earth」、「NLDダイアリー」、「ビルマの恐怖」、「民族大量虐殺」と続いている。どうか私のブログを読み終わったら、「BURMA BORDERLINES NEWS」をクリックしてみてはいかが。面白いですよ。1+1=3だ。

2009年1月12日月曜日

(246)最近のビルマ情勢①

(2009年1月12日)
  今週のビルマニュース(Eメール版)0901号に掲載された主なニュースを抜粋する。★ビルマは4日英国からの独立61周年を迎え、スーチー女史は自宅門外に「国と国民のために決然と行動せよ」というアウンサン将軍の言葉の書かれた幕を掲示。またNLD本部では式典を開き党員や外交官300人が参加。タンシュエ将軍は恒例の独立記念日の晩餐会を欠席した。★NCUB(海外の民主化団体の連合体、ビルマ連邦国民評議会)は、来年行われる総選挙に対抗して新しい亡命政府を設立する計画を発表、しかしすでにNCGUB(ビルマ連邦国民連合政府)があるため賛否両論がある模様。★ビルマへの観光客が大幅減少、また日本との貿易額(昨年9月まで)は前年比5.6%減。★カレン州で7歳少女の射殺体発見、ビルマ軍兵士に容疑。★ODA関係、イラワジ管区橋建設807万円、モン州橋建設800万円。

(245)大勢集った結婚式

(2009年1月11日)
  今日夕方恵比寿にあるモダンな宴会場でビルマ人同士の結婚式があり、私も参加した。会場に入ると100人ぐらいはいたと思う。実は新郎は始めて見た方だが、なかなかのハンサム青年。新婦は、牛久入管で毎週面会していた女性で、気持ちの優しいしっかりした美人。たくさん並んだテーブルを眺めるとミンガラ日本語教室の生徒、BRSAの仲間があちらこちらに見られ、また、牛久入管、品川入管でお会いした人も多い。私は歳のせいかメインテーブルに座らせられたが、この席には、ティンアウン先生、田野さん(AFC)、毛受弁護士らがいて、いろいろ話が弾んだ。若い二人は終始笑顔で、実に楽しいほのぼのとした結婚式であった。ミャンマー時間は健在だったが、ちょっと驚いたのが出席男性の服装、ほぼ全員が背広、ネクタイ姿、日頃ジーパン姿しか見ていないのでなんだか新鮮で頼もしく見えた。頑張れビルマ。

2009年1月10日土曜日

(244)ビルマ人難民も派遣切り

(2009年1月10日)
  昨日の朝日夕刊に「難民も派遣切り、ミャンマー人 帰れぬ母国 公的支援も不足」との見出し、その内容は、母国の政治弾圧から逃れて日本にきたビルマ人を景気の冷え込みが直撃している。クーデターによる軍の政権掌握から20年が経過、日本では居住許可を得る難民認定の壁も厚く、辛い冬の生活を余儀なくされているというもの。この記事では群馬県東部の工場で派遣社員として働いていたが、派遣会社からもう仕事はないと派遣切りされたビルマ人、及び難民申請中のビルマ人の苦悩が記されており、在日ビルマ市民労働組合のティンウインさんも登場している。ビルマ人たちは、「公的支援を十分にするか、就労を正式に認めてほしい」と訴えている。記事によれば、難民申請の結論が出るには平均で545日とあり、その間の就労不可は、普通に考えてもひどい話である。政府は、この機会に考え直してほしい。

2009年1月9日金曜日

(243)マナブローの戦い

(2009年1月9日)
  BRSAの熊切副会長が言うように、私もビルマ民主化を論ずる際に少数民族の存在を抜きにしては考えられない。特にイギリス統治時代にカレン族を重用し、ビルマ族を一段低い階層として扱ったことへの反動として、軍事政権がカレン族の軍隊及び民衆を攻撃したことがビルマ民主化を複雑な姿にしたと思う。カレン族軍隊が政府軍により致命的な損害を受けたのがマナブローでの戦いだ。しかもこの戦いは同じカレン族の仏教系軍隊が、キリスト教系軍隊に撃ち勝ち、その結果反政府軍のカリスマ的な存在であったボーミャ将軍の本拠地であったマナブローが96年に陥落したのだ。私はこの事件を詳しく知りたいと思っていたが、たまたま書斎にあった山本宗助著「ビルマの大いなる幻影」262頁、2800円、96年5月、社会評論社発行に詳述されていた。写真も多くとても参考になった。逐次内容を紹介していきたい。

2009年1月8日木曜日

(242)台北からのメール

(2009年1月8日)
  98年から02年ごろまでミンガラ日本語教室の生徒に、ニーゲ、テイテイという兄弟がいた。弟のニーゲは1級に、兄のテイテイは2級に合格、2人はその後相次いで帰国した。帰国といってもビルマではなく、台湾(台北)である。当時台湾パスポートのビルマ人は結構多くいて、中国国民党とビルマ人の結びつきの強さを感じていた。二人は台北で日本そば屋を開き、ほどほどの売り上げを得ていたが、そのときの奮闘記は、「みんがらネットワーク第20号(2006年1月発行)」に記載されている。彼らの次の野望は中国(北京)進出、しかしここでは食文化の違いなどで9ヶ月で撤退、再度台北で長寿三好庵という日本式そば屋を開き、現在順調に伸びているとのこと。ビルマ人は概して温和である反面、経営者になろうという意欲に欠ける面もある。この兄弟のように事業とか、経営という観点から自分を見直してはいかが。

2009年1月7日水曜日

(241)嬉しいな、嬉しいな

(2009年1月7日)

  BRSAの大瀧会長から電話が入った。成田入管から牛久入管に移されていた5人のビルマ人男性が明後日仮放免で出所とのこと。普通5人もの難民申請者の保証人になることは、躊躇してしまうものだ。保証金だけでも150万円もかかってしまうし、その他に残高証明やら納税証明書など面倒な7枚の書類が必要。日本人でもたじたじになるところ、それをミンガラ日本語教室にいる2人の生徒が買って出て、見事に仮放免を達成したのだ。この太っ腹の生徒に関しては(160)で紹介済み。5人の収容期間は4ヶ月、正月早々の朗報だが、できれば入管は昨年末に切り上げてほしかった。この朗報のあと、今度は熊切副会長からの電話。品川入管に収容されていたビルマ人男性が明日仮放免で出るとのこと、彼の奥さんは(160)で紹介したように数ヶ月の乳飲み子を抱え大変苦労された方。2つの電話本当に嬉しい。

2009年1月6日火曜日

(240)難民受け入れ 門戸を広く

(2009年1月6日)
  今朝の朝日社説欄に「難民受け入れ もっと門戸を開けよう」という表題で第三国定住問題が論じられていた。帰国のめどがないまま海外の難民キャンプに暮らしている人たちを受け入れる第三国定住に、日本も今年から取り組むことになった。タイ国にいるビルマ難民を対象に、今春から準備を進めて、2010年度から受け入れる方針だ。受入数は年に30人、3年間で90人に過ぎない。一方いままでに日本政府が難民と認めたのは07年までに451人に過ぎない。難民申請者数も08年には1500人を超え、大部分がビルマ人だ。第三国定住が増えることは喜ばしいことだが、きめ細かく温かい配慮が必要。しかし現在日本で難民申請をしているビルマ人から不満の声が上がる懸念がある。彼らの中には、「就労不可」という厳しい条件下で、1年以上も最低の生活をしている人もいる。同じ国の難民に差別がないように!

2009年1月5日月曜日

(239)ウヒャー! 訪問者4000人

(2009年1月5日)
  このブログのアクセスカウンターを見るとなんと4006、ヤッター 延べ4000人の方に見ていただいたことになる。昨年10月24日のブログ(166)では2000人だったから、2ヶ月ちょっとで延べ2000人増えたことになる。言い換えれば、一日当たり約30人の読者が定着していることになる。一方コメントも毎日いただいており、ブロガーとしてこんなに嬉しいことはない。支えていただいてる皆さんに深く感謝する。今朝いただいたビルマ人女性からのコメントには、1月4日はビルマの61回目の独立記念日、スーチーさんのお父さんアウンサン将軍が頑張って勝ち得た自由と平和、当時独立記念日の朝4時28分には、各地で国旗を掲げ赤飯やビルマ菓子を皆で食べて祝っていた。しかし、軍事政権の出現により、今もって自由と平和を味わえない国民がいる・・・・と書いてあった。今後ともこのブログを見てコメントを戴きたい。

2009年1月4日日曜日

(238)政権が変わったらすぐ帰る?

(2009年1月4日)
  昨夜はまた夢を見た。某国の政権が野党勢力によって倒され、名実ともに民主化国家がスタートすることになったのだ。街の中心街では踊り喜ぶ民衆でごった返していた。日本にいる同胞たちも待ちきれないように帰国準備を始めている。しかし在日大使館が機能してないので、帰るに帰れない状態だ。大使館の中庭に集まった同国人の渦の真ん中で一人のリーダーが立ち上がった。「諸君、諸君はよく頑張った。しかし帰国は少なくとも1年間は待とう、いま帰れば母国の混乱は増すばかりだ。母国の新しい政治は、母国で闘ってきた同志に任せよう。彼らが一番母国を知っているからだ。残念ながら、我々には教育が不足している、祖国再建に何が必要かがわからない、法律か、経済か、外交か、司法か 防衛か、自治か、この一年間は苦しいがここに残り皆で勉強しよう。その後で帰国しよう!」。拍手で目が覚めた。

2009年1月3日土曜日

(237)おおかわ法律事務所の活躍

(2009年1月3日)
  ビルマ人難民申請者が大勢お世話になっている大川秀史弁護士事務所のウエブサイトが、このたびBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)とリンクされたという。とても嬉しいことだ。ビルマ難民(申請者)支援と一言で言うが、その背景には様々な問題が山積しており、時に皆が困惑する場面もしばしばあった。こういう時に、法律の専門家である弁護士サイドからの諸情報は私たちに大きな力を与えてくれる。もちろん私のブログにもよい結果が生まれそうだ。ところで大川弁護士の事務所は豊島区駒込3-2-7、駒込駅から徒歩1分、電話03-6903-5220だ。難民申請問題は勿論のこと、在留資格問題、労働問題、社会保障問題、債務整理問題など、幅広く対応していただける。なお大川先生からの年賀状には「先般婚姻し公私共に新たな一歩を踏み出しました」と書いてあり、重ね重ねおめでとうございます。

2009年1月2日金曜日

(236)頑張っている「平和の翼」

(2008年1月2日)
  ミンガラ日本語教室生徒のA君から分厚い封書が届いた。開けてみると「平和の翼ジャーナル」第4号だ。この雑誌のことは、「(111)羽ばたけ平和の翼」でも取り上げたが、日緬両国語で書かれている数少ない貴重な雑誌であり、しかも内容が実に濃い。まず、根本先生の「政治家」になれない軍人達を読んで私の頭はすっきりした。西日本、及び東日本の収容所を考える会の辻田、田中両会長による両会の活躍ぶりには頭が下がり、かつ、同一誌面に掲載した編集振りに喝采。知人の熊澤氏の「88年世代学生グループ」としての共感も素晴らしい感性。同じく知人の熊切氏の「隠された子供」は時代背景が雄大で、カレン、カチンの難民問題を取り上げている。ウーシュエバの「銃とジャスミン」の紹介文も嬉しい。編集者によるビルマニュースも日本人にとってはありがたい。その他もみな心に響く。羽ばたけ!平和の翼。

2009年1月1日木曜日

(235)初夢

(2009年1月1日)
  今朝のテレビでは某国の政局が混乱していると報じた。いままで政権派と思われていた数十人の議員が新しい組織に寝返り、新党を結成したというもの。一党独裁とも思われる政権が樹立したのは、実は前回の総選挙の結果であり、法的には問題ないはずと思われていたが、この政権に対する民衆の積年の怒りが爆発したためと解説者は言う。実はその背後に、海外に住む同胞からの声が大きく影響したようだ、当初国連も二つに割れていて、なんら力を発揮できなかったが、いまや某国に対する国連の意見は一致し、結局同政権の退陣が決まったようだ。その国連を動かしたのが実は世界各地に逃げ出した反政府グループの人たちで、いままでバラバラであった各国の反政府組織が一本化、巨大化し、各国政府を突き上げた結果、世界各国も一本の旗の下に集り、国連を動かしたようだ・・・・。ここで初夢がさめた。