2011年7月31日日曜日

(1174)読みました 「ミャンマー現代女性短編集」

 本書はアジアの現代文芸集の第5集(ミャンマー編)に該当しており、他にタイ、パキスタン、マレーシア、インドネシア、インド、ベトナム、ラオス、フィリピンン、カンボジア等がある。編訳は南田みどり氏、2001年10月、大同生命国際文化基金発行、314頁、内容は第1章:娘たち、第2章:妻たち、第3章母たち、第4章:女たち、第5章:男たちとあり、各章は3つから6つの短編で成り立っている。本書は1985年から99年、とりわけ軍事政権によって市場経済が導入された現代に書かれた作品を中心に据えている。編訳者はいう。これらの文章に難解な表現が多くあったが、これは現代ビルマ女性と文学界が抱える困難が存在し、むしろ行間に潜む描きだされていない膨大な事実の重みを真摯に受け止め、その痛みと絶望を共有したいと論じていた。自由に書ける時代はまだ先のようだが、私はその日を待っている。

2011年7月30日土曜日

(1173)ビルマからの手紙⑦

  スーチーさんが書いた「ビルマからの手紙⑦」(毎日新聞)のコピーが友人STさんから贈られて来た。見出しは「古い友情の恩恵受け」、「二十数年ぶりに休日 古都パガンへ」とあった。今回は以前経験した休日の思い出から始まっている。ヒマラヤ、カトマンズ、インド北東部、スイス、イングランド、スコットランド・・・・など。息子のキムが6月の誕生日にビルマにやってきたとき「休日なんだからどこかへ連れて行く」と約束、20年以上で初めての休日だから、他人に文句を言われる筋合いもない。気候などを考えパガン旅行を決めた。パガンにはいにしえの栄華を目撃した数千のパゴダが残っている。この理想の場所を見つけてくれたのは父の友人の息子、自宅の修理も引き受けてくれた建築家だ。私たち16人のグループをパガンホテルに宿泊させた彼の選択は最高であった。こうして家族旅行は無事に終了した。

2011年7月29日金曜日

(1172)携帯電話の5カ年計画(ビルマ)

  引き続き中西先生のブログを紹介する。今回は7月23日発行のVOICE 誌とNEWS WATCH誌より抜粋したもの。ビルマ通信公社と民間企業10社が共同して携帯電話3000万台普及5カ年計画の初年度として、2011年度中に400万台を販売することになっているが、現在の500万チャットより安い価格で販売を計画しているとビルマ通信公社の幹部が述べた。3000万台を達成するためには政府だけでなく、多くの民間会社、国民が一体となって進めることが肝心であると連邦大臣も述べている。5カ年計画の内訳は、11年度:400万台、12年度:500万台、13年度:600万台、14年度:700万台、15年度:800万台、合計3000万台(以上中西ブログ終了)。通信に困っていた国民にとっては朗報だが、待てよ、こんなに携帯を増やしたら、国民同士の連絡が簡単になり、政府が困ることにならないかしら。

2011年7月28日木曜日

(1171)土地相場のバブル 手が出ない

 昨日に引き続き、中西先生の「ミャンマー・日本語教室ブログ」から転載する。今日はヤンゴンの土地相場の変遷で、7月14日発行のBI WEEKLY ELEVEN誌の紹介だ。法外な土地相場の値上がりにより、公務員や一般庶民にとって自分の家を購入できないことが問題になっている。土地バブルの原因は、国内や海外の投機筋によるマネーゲームのせいで、今の土地価格ではマイホーム(一戸建て)を所有することは全く不可能であり、賃貸でも困難、郊外の不便なところでも家賃は4-6万チャット(一般サラリーマンの給料は10万チャット前後)、例えば、1平方フィートあたりの06年⇒10年の相場は、インヤー表通りは7万チャット⇒40万チャット、ダゴン表通りは8万チャット⇒50万チャット、ピー通り(6マイル)は9万チャット⇒35万チャット、バブルは今も猛烈な勢いで膨らんでおり、いつはじけても不思議でない。

2011年7月27日水曜日

(1170)ビルマでは1ドル何チャット?

  久しぶりに中西先生の「ミャンマー・日本語教室ブログ」を覗いてみた。ヤンゴンの今の様子を探るにはこのブログが最適だ。7月18日のこのブログには、7月16日発行のVOICE誌の「米ドル・FECの15年間の推移」の要約が掲載されていた。以前はこの種の記事を掲載するだけで検閲に引っかかったといい、貴重なデータだ。米ドルとチャットのレートは1996年:173チャット、98年383チャット、2000年:407チャット、02年:1240チャット、04年:957チャット、06年:1422チャット、08年:1250チャット、10年:1020チャット、11年6月まで:887チャット。96年以降、政府の外貨不足、市場経済の不明確さのため、インフレが加速し、チャットの価値がどんどん下がっていった。しかし08年頃から天然ガスの輸出や中国などからの大規模な投資が入り込んで、チャット安からチャット高に転じさらに進む、と。

2011年7月26日火曜日

(1169)スーチー氏 政府と対話 軟禁解除後初めて

  今朝の朝日新聞によると、ビルマ政府の閣僚が25日、スーチー氏とヤンゴンで会談したが、これは昨年11月の自宅軟禁解除後では初めて。政府はこれまでスーチー氏の会談要求に応じなかったが、欧米が続ける経済制裁の解除へ、局面打開を目指したとみられる。スーチー氏は国立迎賓館で、軟禁時に連絡調整担当相だったアウンチー労働相兼社会福祉相と約1時間20分会談した。会談の内容は明らかにされなかった(以上概要)。このような会見が行われたことは、両者和解に向けての第一歩とみられているが、その次の難問、即ち約2000人とされる政治犯の釈放や、スーチー氏(NLD)の政治活動を政府が認める問題、さらに各地で勃発している少数民族との戦闘停止と人権問題など、両者の間には巨大な壁が幾重にも存在している。今回の会談で意見を交換しただけでは、民政政権とはいえない。

2011年7月25日月曜日

(1168)ビルマ今週のニュース(1125号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★カチン州では国軍がカチン独立軍(KIA)本部のあるライザに迫っている。カレン州ミャワディ近くでは19・20日国軍が民主カイン仏教徒軍(DKBA)を砲撃。 ★スーチー氏の父アウンサン将軍の命日の19日(殉難者の日)ヤンゴンのアウンサン廟で行われた政府主催の追悼式典に参加、その後NLD本部での式典に出た後、アウンサン廟に再訪。その際支持者ら3千人もついて歩いた。 ★キャンベル米国務次官補が朝日新聞の質問に答え、「米国では正式な呼称はビルマ、外交儀礼としてビルマ/ミャンマーを使うこともある。これは何年も前からそうしている」。 ★21日、インドネシアバリで第12回ASEAN+3外相会議が開かれ、松本外相が出席、「総選挙は前進であるとした上で、人的交流、経済協力、経済関係、文化交流の4分野での協力を提案した」と表明した。

2011年7月24日日曜日

(1167)明らかになってきた印緬国境

  ビルマとタイ国境のニュースはしばしば耳に入るが、ビルマとインド国境の話題については初めて7月19日から朝日に連載。いままで情報がなかっただけに貴重だ。たまたまインド側のこの地区、ナガランド、マニプール、ミゾラムの3州が今年全面的に開放されたので、記者が現地を取材した。ナガランド州モコクチュンの村は以前「首狩り」の風習があり、有名だったが今はない。19世紀以降キリスト教の布教が進み、9割以上が教会に通うという。この地区で忘れていけないのが、マニプール州のインパール、近くの山に旧日本軍の一部が頂上付近に陣地を築いたが、たちまち全滅した。インパールには4回日本軍の空爆があったという。「日本は戦後豊かになったが、私たちの生活は当時とあまり変わらない」との現地人の声が心に刺さる。国境にまたがるモレーの町、両国民はフリーパスで1日数千人が行き来する。

2011年7月23日土曜日

(1166)ビルマ国軍 少数民族へ人権侵害

  7月13日の産経ニュースによれば、標記のような見出しの下、ビルマ政府軍による人権侵害の実態が「シャン人権財団」の調査で明らかになってきた。シャン州では4月11日から7月12日までの3ヶ月間に、シャン族の反政府武装勢力「北部シャン州軍」と、政府軍の交戦が47回あり、政府軍兵士の略奪や村人の拉致、拘束、殺害が47件あった。例えば、モンスの14家族から470万円相当が奪われた。シーボーでは70歳の老女と13歳の孫娘が理由もなく射殺された。女性への暴行は7件。最北部のカチン州では、6月、カチン族の女性への暴行が18件あった。国際労働機関(ILO)は、子どもが強制的に従軍させられた事例もこの5ヶ月間で424件に上るとしている(以上概要)。政府軍は各民族の軍隊組織を国境守備軍に編入しようとしているが、各少数民族は自治を目指して反対、戦闘は今後も続く模様。

2011年7月22日金曜日

(1165)対ビルマ対話もじわり

  今朝の朝日新聞には、「対ミャンマー対話もじわり、日米欧、探る距離感」という見出しで、ビルマ新政権発足後の情勢変化を見定めつつ、これまでの経済制裁に柔軟な対応も織り交ぜ始めた。米政府は、インドネシア・バリ島で22日に主催する「メコン下流域友好国閣僚会議」にビルマを招き、ミャンマーの表記を容認、キャンベル国務次官補は「以前の軍事政権との決別を期待する」と話す。欧州連合(EU)は経済制裁を1年延長する一方、外相らに対するビザ発給停止などを一部緩和、6月にビルマを訪れたロバート・クーパー欧州対外活動庁顧問は、制裁解除を視野に入れた姿勢を示した。日本も政策変更を表明、人道支援に限定してきたODAを農業・医療・保健分野に拡大させることを検討してる。しかし中国からの対ビルマ援助などが増える中「このままでは中国の影響力が強まるだけ」との懸念もある。

2011年7月21日木曜日

(1164)記者探求:環状線に乗ってみた

  朝日新聞の藤谷アジア総局長が「ヤンゴンの環状線に乗ってみた」というエッセイを書いていた(7月18日)。環状運行は38駅45キロを3時間で一周。外回り、内回りでそれぞれ7便、外国人は1ドル(80円)で、地元の人は20チャット(2円)、車両は日本製のディーゼル機関車とインド製の客車6両、座席は木製の長いすで、警官が乗り込むスペースもあった。途中駅で市場で売るアスパラガスやマンゴーなどを担いだ女性たちが次々乗り込んできた。中部なまりのビルマ語や、カレン語が飛び交う。列車は時速20キロほどで、途中で名古屋鉄道の中古客車とすれ違う(以上概要)。実は私が15年前にヤンゴンを訪れたとき、東京の山手線と比べるため面白半分にこの電車に乗ったことがある。この記事を興味津々読んだが15年間全然変わっていない感じがした。ビルマという国はゆっくりゆっくり時間が進むようだ。

2011年7月20日水曜日

(1163)米、「ミャンマー」表記容認

  今朝の朝日にオバマ米政権がミャンマー(ビルマ)政府の要請に応え、国際会議の会場で従来の「ビルマ」に加えて「ミャンマー」との国名標記も容認する方針に転じたとあった。ミャンマー軍事政権発足の正当性を認めない立場は維持しつつ、昨年の総選挙を経た現在の政府には一定の敬意を示すことで、直接対話を進め、民主化を促す狙いがあるとみられる(以上概要)。私の場合はビルマとミャンマーは単に口語体と文語体の違いなので、どちらでもいいやと思い、多くの友人が使っている「ビルマ」を愛用している。第一よその国の国名をとやかく言う前に、各国便覧なる小冊子をみると、私の住んでる国は「日本国」となっているではないか。さらに調べると「日本」なのか、「日本国」なのか、明確に規定した法令はないという。発音も日本(にほん)共産党であったり日本(にっぽん)社会党であったり。何でもいいや。

2011年7月19日火曜日

(1162)ビルマ今週のニュース(1124号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★カチン州では10日、国軍がターペインダム周辺でカチン独立軍(KIA)を砲撃、シャン州中央部では13日、国軍がシャン州軍(SSA)を空から爆撃、同州では国軍兵士が女性・少女を強姦したとの報告も。 ★米国ビルマキャンペーンによれば、駐米ビルマ大使館の一等書記官が13日、米政府に庇護を求めた。同大使館からは首席公使が4日に亡命したばかりで、同公使の亡命について尋問されることを恐れていた。 ★「ミャンマーの民主化を支援する議員連盟」の十数人と、多数の在日ビルマ人らが出席、国軍とカチン独立軍(KIA)との戦闘の背景などを論議。 ★菊田外務大臣政務官は13日、来日中のティンサン・ホテル観光大臣と会談、ビルマ政府の動きが、不十分ながらも、民主化と国民和解に向け一歩前進と評価。 ★ビルマの政治囚は6月末現在で1994人。

2011年7月18日月曜日

(1161)読みました 「ビルマのむかし話」

  本書は「せかいのむかし話」シリーズの11冊目であり、編訳は大野徹氏。1991年4月 偕成社発行、174頁、定価1500円。内容は22編のむかし話からなり、少数民族の話も入っている。目次を見ると、「竜のたまご」、「ワニのンガモーイェイ」、「にじができたわけ」、「旅人と四人の若者」、「亡霊にのばされた鼻」、「川鵜にしっぽがないわけ」、「かしこいウサギの話」などなど。ビルマのむかし話には、動物がよくあらわれる。犬や鶏やアヒルといった家畜から、虎やヘビ、ワニといった猛獣まで、たくさんの動物が登場する。また月食や虹など自然現象の起源や、動物の習性のいわれを説いた話も多い。ビルマの人は、自然や動物たちと身近な生活を送っているからであろう。またビルマでは仏教徒が多く、むかし話の多くが仏教の教えを説くために語られていることが多いという。(今朝なでしこジャパンが世界制覇)

2011年7月17日日曜日

(1160)「アリンヤウン」が復刊 夢中で読んだ

   「アリンヤウン」という雑誌が復刊した。この雑誌はPFB(ビルマ市民フォーラム)の機関誌であり、長い間私の愛読誌であった。ここしばらく休刊していて寂しく思っていたが、幸い第36号(7月発行)から復刊、ホッとした。今号には、ビルマ新政権発足から3ヶ月のビルマ状況を根本敬氏とティンウイン氏が解説している。私がぜひ知りたかったテーマであり、夢中になって読んでみた。根本氏は、「形としては民主化が進んでいるように見えるが、まだコップには民主化の水は10分の1しかはいっていない。」というユニークな表現で、いろいろな問題を解析し、民主化は遅々として進んでおらず、これからも増える可能性が少ないと断じた。一方、ティンウイン氏も、ビルマの現状を分析した結果、ビルマが民主化に向かって一歩踏み出したという見方は間違っていると結論している。共に識者の発言であり、参考になる。

2011年7月16日土曜日

(1159)難民認定審査の処理期間が短縮 ホント?

  法務省入国管理局は、難民認定申請の処理期間を3ヶ月ごとに発表しているが、2011年4月~6月分が14日に発表された。それによると、平均処理期間が5.7ヶ月で、目標の6ヶ月以内が達成されたとしている。この期間というのが、難民認定申請を出してから、一次の審査が決まるまでの期間であり、その後の異議申立てから民間参与員を交えての最終決定までの期間は無関係ということだ。難民認定申請者の立場から言えば、一次の審査+異議申立て後の参与員の審査までを総合して審査期間と解釈してる人が多い。一次審査のみを速めても、参与員審査が遅ければ、このような調査はあまり意味がないのでは。この点について法務省の入管当局に聞くと、異議申立て以降は民間参与員が審査に加わるため、拙速は許されないという。何かヘンだ。申請から最終の大臣決定までの時間は、短縮されたのか。

2011年7月15日金曜日

(1158)ミャンマーで証券取引所計画が進行中

  7月6日の読売新聞によれば、「ミャンマーに証券取引所計画、15年までにヤンゴンとマンダレー」との見出しが躍っていた。軍事政権から民政に移管したビルマで、ヤンゴンとマンダレーに証券取引所を開く計画が進んでいる。ASEAN各国がASEAN経済共同体計画に基づいて2015年に一層の市場開放に踏み切るのを前に、外国から投資マネーを呼び込み、地場企業を育成する狙い。債券市場の整備にも取り組む方針だ。ビルマ企業は現在条件の悪い銀行に資金調達を頼るしかなく、金利は20%近い。ASEAN市場の更なる開放で、競争力の弱いビルマ企業は飲み込まれる恐れが大きく、政府は15年までに証券取引所を整え、企業の体力強化を急ぐ考えだ。たまたま数日前、日本では株価が1万円台を突破しており、また、東京証券取引所が大阪証券取引所にTOBを提案、大証は拒否の構えのようだ。

2011年7月14日木曜日

(1157)ビルマからの手紙⑥ 私の感受性が変わった

  6月25日の毎日新聞に掲載された「スーチーさんからの手紙」をstさんより戴いた。60年前、彼女の家の庭には、カラス、ムクドリ、ハトなどたくさんの鳥がいた。オウムを見るときはわくわくし、フクロウが木から落ちたときは、眠そうに見える目をパチパチさせていた。近くのインド人の家にいたオウムは、寂しい庭を鮮烈な虹色の明るさで彩っていた。近くに動物園があったが、檻の中の動物の落ち着きのなさが私の心を捉えた。ゾウは優雅であったが、サルは楽しくなさそうに見えた。ロンドン郊外の動物園では、囲いの中の動物を見るのが好きでなくなってしまっていた。動物たちが変わったのではなく、とらわれることや、人間による支配に対しての、私の感受性が変わってしまったのだ。私を取り巻く環境が、予想もしない流れで変転し、それにつれて、動物と人間の関係についても、私の考え方が変わって行ったのだ。

2011年7月13日水曜日

(1156)難民・在特が認定されたら就活だ

 最近、難民認定申請をして、在留資格(難民、定住、特定活動)を貰った人が増えてきた。今後はその人たちの就職が問題となる。何しろ申請中は就労不可だから、急に働いてもいいよと言われても、心の準備が間に合わない。従来経験していた「飲食関連」「清掃関係」を引き続き目指す人が多い。それも悪いことではないが、できれば、しっかりした会社で働いてもらいたい。駅頭に積んである「タウンワーク」のような無料雑誌などを見れば結構求人募集が載っている。ハローワークで探して、ついでに助成金ももらえる実技研修に挑戦する手もある。昨日、難民支援協会(JAR)から、難民の自立や、地位向上、収入向上に繋がる新しい活動(就労支援事業)展開のために1人の採用を求めるメールが飛び込んできた。就労促進のための司令塔の構築であろう。ユニクロも秋を目指して動き出した。有資格者は前進だ!

2011年7月12日火曜日

(1155)マウンニーさんがテレビに登場②

 しかし彼の意思は強く、彼と妻は9月30日に離婚届を書いた後、彼だけアパートを去り飛行機でバンコクに飛んだ。そのとき妻は「妻である私よりも祖国カレンを愛した彼」とつぶやいていた。その後、鉄条網に囲まれたウムビエム難民キャンプでカレン軍(KNU)の本部に行き、新しい温厚な司令官と面談した。結局彼は年齢制限でカレン軍に入隊できず、その代わり日本での活躍の場を与えられた。その後、彼から彼女に一通の電話が入り、東京の駅で再会、また以前と同様な生活が始まった。彼が戦地に行くとき彼が祈った言葉「どうぞ私の命を守ってください。ささいな命かも知れませんが、私にとって唯一の命です」、「日本大好き。でも自分の国で平和に住んでいたい・・」。平和ボケしている我々日本人の胸につき刺さる言葉が吐き出されていた。その後も彼は相変わらず目立つ服装で頑張っているらしい。

2011年7月11日月曜日

(1154)マウンニーさんがテレビに登場①

  昨日2時からソーミョーカイシンさん(通称マウンニーさん)がテレビに出るという連絡を方々から戴いた。これだけでも彼の抜群の人気がよく分かる。タイトルは「となりの難民たち」(フジテレビ:2時~2時55分)、もちろんノンフィクションであり、登場人物は、大瀧さんを始め、私が良く知っている人が続々と…。テレビでは彼が牛久入管に面会に来ていたとき、牛久駅から入管まで1時間45分歩いたとあったが、私はいつも彼が走っている姿をタクシーから見ていた。また、彼が入管に収容されていたときは私も面会した思い出がある。彼はヤンゴン大学出身で、日本では王子のラーメン屋で深夜働いており、給料は14万8千円、藤原紀香似の美人の奥さんと共働きで平和に暮らしていたが、ある日突然に離婚話となり奥さんは大慌て、結局彼は祖国カレンに戻り銃を持って国軍と戦うと宣言、周辺は皆大反対した(続く)。

2011年7月10日日曜日

(1153)境遇一緒・・・助けたい 難民ら被災地支援

  7月8日の毎日新聞によれば、岩手県陸前高田市における難民たちによる被災地支援活動が、ジュネーブから報道された。というのは、ジュネーブで開催された国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と難民支援非政府組織(NGO)との年次協議会で報告され共感を呼んだ。「政治難民も津波難民も多くを亡くした境遇は同じ、被災者の気持ちを一番理解できるのは私たちかもしれない」(ビルマカチン族出身のマリップ・センブさん)。相談を受けた難民支援協会では、4月28日からボランティアを開始、東京からバスを出し、同市の割り当て区域で、がれき掃除のほか、荷物運びや、りんご畑の片付けなどを手伝った。(以上概要)。ビルマの難民は数多くのルートで大勢被災地支援に乗り出しており、涙の出るようないい話だ。被災者と難民、一見無関係のように見えるが、難民は日本社会の一員として貢献している。

2011年7月9日土曜日

(1152)ビルマ今週のニュース(1123号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★スーチー氏が4日から私的な旅行としてバガンを訪問したが、地方に出たのは2003年以来。NLDは現地の支持者らに集まらないよう呼びかけたが、氏は行く先々で数百人の地元住民に囲まれ歓迎を受けた。 ★ビルマ国内で活動する「全ビルマ僧侶連名」や「88世代学生グループ」など9団体が声明を発表、中国政府に対してビルマ国内で進めている水力ダム建設事業から全面撤退するよう求めた。 ★駐米ビルマ大使館の主席公使(大使に次ぐ位)だったチョーウイン氏が、4日亡命し米国に庇護を求めた。クリントン国務長官宛の手紙には「将来民主化改革が起こることはない、任期を終え帰国する際、訴追される恐れがある」と述べた。 ★ラッド豪外相が9年ぶりにビルマを訪問、約2千人の政治囚の解放をテインセイン大統領に求めたほかスーチー氏らと会談。

2011年7月8日金曜日

(1151)制裁と弱者 支援は別扱いに

  7月4日の朝日新聞に標記のようなタイトルで軍政国家ミャンマーとの関係を論じた一文があった。筆者はアジア総局長の藤谷健氏。実はこの記事を読んで、私はいささか愕然とし、自らの不明さを知った。記事には次のように記されていた。日本はこれまで対ビルマ政策で欧米と一線を画してきた。14万人の死者・行方不明者を出したサイクロンが起きた08年は日本が英国、米国、オーストラリアに続く4位、09年は英国がトップで日本は2位だった。最大の要因は援助予算の削減である、しかし経済支援を拒否してる英国のほうが日本より多額の支援をしているのだ。英国の場合、援助先を大きく見直し、「選択と集中」でミャンマーへの支援を増やしている。いまやアジアでもっとも貧しい暮らしを強いられている弱者の視点で、彼らが恩恵を最大限得られるように、援助の質も量も換えていく必要がある、と述べていた。

2011年7月7日木曜日

(1150)水曜日はいろいろあるデー

  きのうの水曜日は例によっていろいろあるデー、午前中掛かりつけの袖西クリニックへ行き、先日の検診結果を聞く、最近体調すぐれず心配していたが、血糖値がやや高めのほかはまあまあだった。毎年痔の出血で混乱する大腸がん検診の結果もシロでホッとした。その後郵便局へ行き、先日来製本した「森大先輩遺稿集」14冊を13人に送付、一段落でこれもホッとした。引き続き品川入管へ、暑くて疲れるがしょうがない。ここで2時過ぎにAさん夫妻と落合い、仮放免延長申請書にサインして手渡す、久しぶりなので喫茶店でもと思ったが、次の予定があり残念だが品川駅で別れる。帰途錦糸町駅構内のロッテリアでBさんと落ちあい、同じく仮放免延長申請書にサインして渡す。彼女とは2007年牛久で保証人を引き受けた間柄で当初日本語は何も喋れなかったが、昨日はジョークも混ざり二人で呵呵大笑した。

2011年7月6日水曜日

(1149)読みました「美の回廊をゆく」東南アジア至宝の旅③

  本書は「祈り天空に満ちて(ミャンマー・パガン万塔)」と、「はるかなる都の夢(ベトナム・フエ)」の2部からなり、いずれもNHK取材班がまとめたもの。平成3年4月、日本放送出版協会発行、141頁、1800円。第1部の「パガン万塔」について言えば、カラー写真の頁は36頁に及び、「天上に合図を送る聖なる都市(吉田喜重)」、「パガン王国の成立と上座部仏教(大野徹)」、「功徳としてのパゴダ建立(田村克己)」、「ビルマの結婚式(大鷹淑子)」らが36頁に亘って執筆。パガンはビルマ族最初の統一王朝の都であり、王や信者たちは功徳を願い、無数の仏塔・寺院を建立した。天界へ向けた往時の祈りを伝える美しい仏教遺跡を紹介している。日本で言えば藤原時代であり、大小5000ものパゴダが寄進されたという。私も15年ほど前に3回パガンを訪問したが今この書を見て改めてその壮大さに感動している。

2011年7月5日火曜日

(1148)難民・在特の資格を得た人は無料で大学へ

  国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)では在日難民の教育を伸ばすことを大切と考え、2006年に関西学院大学と、2007年には青山学院大学と、そして2010年には明治大学と、それぞれ難民への推薦入学制度について調印した。昨年の例で言うと、この3大学で5人が認められ、難民大学生が誕生している。受験資格は条約難民、ベトナム難民、及び補完的保護者(日本で言う人道的な在留特別許可者《定住及び特定活動》)。この制度は、試験検定料、入学金、諸会費を全額免除し、就学助成金を支給している。大学在学の4年間は、学業に専念し、国際社会において平和構築や社会の発展に寄与する可能性のある人材の育成を目指しており、受験生もそのような信念のあることが必須だ。受験希望者は8月初旬に発表されるUNHCRからのトップページに注目して欲しい。既にビルマ人先輩もいる。

2011年7月4日月曜日

(1147)第三国定住難民2家族 八街の農業生産法人で

  毎日新聞の2011年6月27日の地方版に、昨年、第三国定住で国が受け入れたカレン難民の2家族の様子が掲載されていた。彼らは八街市の農業生産法人「旦千花(たちばな)」で働き始めて、約3ヶ月過ぎた。言葉はまだ不自由なものの、「まじめな働き者」と、仲間から暖かな視線を受け、汗を流す日々が続く。ソーネイミンさん(46)と、ソーチョーセインさん(37)の家族計12人、それぞれ夫婦で従事するが、2人ともビルマの農業とは違うという。旦千花では年間多様な作物を作っており、結局時間をかけて習得するしかない。日本語はよくわからないというだけに、仲間から身振り手振りと片言で指導を受ける。難しいと苦笑するものの、表情は真剣そのもの、「耕運機をかなりうまく使う」、「一生懸命働く」と働きぶりは好意をもたれている。大槻会長(68)は「将来の夢を抱かせてやれるようにしてあげたい」と話す。

2011年7月3日日曜日

(1146)ビルマ今週のニュース(1122号)

  BURMAINFOのニュースから抜粋。 ★ビルマ内務省は6月28日NLDのアウンシュエ議長とスーチー書記長に手紙を送り、「解党処分となったNLDが活動を続けているのは違法、活動を続けたいなら社会団体をを創設する申請を行うべき」などと述べた。NLD側は29日に返信、「NLDは合法の団体だ」とし内務大臣との会合を求めた。 ★29日、「スーチー氏が地方遊説に出れば、前例が示すとおり、混乱と暴動が起きる恐れがある」とする論説が全国営紙に掲載された。スーチー氏は4日からパガンを訪問するが、これは次男を伴う私的な旅行とのこと。 ★日本の菊田外務政務官が、27-29日ビルマを訪問、外相やスーチー氏と会談した。同政務官は「経済協力では、今後民主化や人権状態の改善を見守りつつ、民衆に直接役立つ基礎生活分野の案件を中心にケースバイケースで検討の上実施する」。

2011年7月2日土曜日

(1145)「家族旅行」で地方へ スーチー氏政府を意識

  今朝の朝日新聞に標記のような見出しがあった。スーチー氏が4日から同国中部のパガンへ行く。政府がスーチー氏の政治活動を禁じる通告を出したこと考慮して「遊説ではなく家族旅行」という形をとる。昨年11月の自宅軟禁解除後、地方に出るのは初めてとなる。次男キム・エアリスさんとともに、仏教遺跡で有名なパガンに滞在し、8日にヤンゴンに戻るという。スーチー氏は1989年以降、3度に亘り計15年間、拘束、軟禁された。3度目は地方遊説がきっかけだ。今回も「旅行」とはいえ、支持者が集まって政治集会化すれば、政府が強攻策を取る可能性もある〈以上概要〉。本件は(1143)でも記載したが、ディベイン事件の再現だけは避けてほしい。いまチャン・プッの力は? 特に政府は民主化を叫ぶ以上、 庶民の声を聴くべきであろう。いずれにせよ、7月4日の「パガン旅行」が無事終了することを望む。

2011年7月1日金曜日

(1144)読みました「西南シルクロードは密林に消える」

  著者は高野秀行(作家、冒険家)、2003年2月 講談社発行、367頁、1900円+税。著者はシルクロードはいくつもあるはずで、西南シルクロードを踏破してみたいとの願望があり、最終目的地をカルカッタと決めた。中国の四川省、貴州省、雲南省を旅した後、ビルマのカチン州に入るのだが、ここで中国の公安に掴まる、ここでのやり取りが抱腹絶倒、何とかカチン州に潜り込み、カチン軍のトップに会い、彼らの支援の下密林を迷走、ザガイン管区を経て秘境ナガ山地へ、さらにインドのナガランド州へ、そして最終目的地のカルカッタへ。ここまで来たのはよかったが、いざ帰国のときにビルマ、インドへの密入国を日本領事館に申告、ここで絶体絶命、領事と一緒にカルカッタ警察署に自首、一時は刑務所入りを覚悟したが、領事館の努力が功を奏して無事日本に帰国ができた。息もつかせず、面白く痛快に読める。